7

 それからまた私は作業に没頭した。

 どれほど時間が経ったかはわからない。

 長いようで短い、ちょっとのようでだいぶな気がする。

 時間の感覚があやふやになるまで、私は絵に没頭していたのだ。


 外から聞こえてきた音色が、私の集中を乱してきた。

 それは11時半に聞こえてくる、お昼のチャイムだった。

 窓の外を見た後、部屋の時計を見た。

 お昼の少し前。約束の作業時間より30分もオーバーしてしまった。


「ごめんなさい。私ったら」


 スケッチブックを閉じて、クドウ氏を見た。

 彼は相変わらず、優しい薄笑いを浮かべて、なんてことはないと手を振った。


「いや、私が声をかけなかったのも悪かった。今日は、これで終わりにしようか」


 そう言って、クドウ氏は立ち上がって入り口の方へと進んだ。

 私は彼を追いかけて、部屋を出た。

 

 クドウ氏が向かったのは、食堂だった。

 そこにはすでに2人分の料理が用意されていた。

 メニューはそぼろ丼。

 ひき肉の味噌炒めにネギをまぶし、その上に黄身をポトリと乗せている。


「私の好物なんだ」


 とクドウ氏は嬉しそうに言った。

 資産家にしては、実に貧相な好物だと、私は思った。

 けれど、多くの美食を食べたことで、ある種シンプルなものを好むようになったのかもしれない。


 私とクドウ氏は対面の、離れた席にそれぞれ座った。

 朱色の蓮華でご飯とともにそぼろをすくう。

 そして口へと運ぶ。


 味噌と醤油の香り。

 ネギの辛み、そして黄身のとろみが合わさって、この上ない味わいになる。

 そぼろ丼だとみくびったことを、私は早くも後悔した。

 これは旨い。コンビニの底上げ丼の、何倍も旨い。


 一眼も気にせず、私は丼を片手に持って、かっこんだ。

 行儀作法など、旨い飯の前ではなんの意味もない。

 体面を気にするあまり料理の味がわからなくては、かえって料理に失礼というものだ。


 給仕たちの視線がやけに刺さったが、クドウ氏とタカギは、微笑ましげに私を見ていた。

 子供のように見られているのかもしれない。

 タカギは何となくわかるが、クドウ氏にそう見られるのは、いささか不本意な気がした。


 そんな時だ。どこからかバイブレーションの音が聞こえてきた。

 私ではなかった。音の出所は、クドウ氏のポケットからだった。

 クドウ氏が画面を見ると、眉間にシワを寄せた。


「すまない、会社からだ。少し席を外してもいいかな」


「ええ。どうぞ」


「ありがとう。すぐに戻るよ」


 クドウ氏はスマホを耳に当てながら、早足で食堂を出て行く。

 彼を見送りながら、丼の淵にこびりついた米粒を、綺麗に蓮華で救いとる。

 付け合わせに漬物と味噌汁があった。

 漬物は早々に平らげたが、残る味噌汁は仕上げのためにとっておいた。


 あらかた空にした丼の中に、味噌汁を注ぎ入れる。

 わかめ、もやし、豆腐。具材ごと丼の中に入れる。

 それから丼に口をつけて、ゆっくりと味う。

 そぼろの残り香と味噌汁が相まって、これまた旨かった。


 昼食を平らげ、息をつく。

 久しぶりの食事だった。

 窓の外をぼーっと眺めていると、ドアが開いた音がした。

 顔を向けると、クドウ氏が廊下から顔だけを部屋に入れていた。


「仕事に行ってくる。後のことはタカギやメイドたちに任せてあるから、君は自由にしていてくれ」


 早口に言うと、クドウ氏はドアをしめた。

 靴音が足早に離れていく


「お気をつけて」


 形ばかりの見送りの言葉。

 それが届かないことはわかっていたが、私は彼が閉じたドアに向けて言った。

 

 食後のコーヒーを味わった後。

 私は食堂を後にして、会場の部屋に戻ってきた。

 真っ白なキャンバスの正面に、私は椅子に腰を下ろした。

 そしてスケッチブックを開き、2つのクドウ氏を眺めた。


 構図も決まった。キャンパスに描くイメージもできている。

 熱が冷めないうちに描くなら、今が絶好の機会だろう。

 先ほどまでクドウ氏が座っていた、ソファ席。

 そこに描いたばかりのスケッチブックを置いた。


 大きさの違い。

 生命の違いこそあれ。そこには間違いなくクドウ氏が座っている。

 クドウ・ミツハルの断片。

 彼の人生の切れ端。

 クドウ氏の声と姿を脳裏に思い浮かばせ、私は絵筆を手に取った。




 

「先生……先生……」


 突然、肩に誰かの手がのせられた。

 叩かれたと気づく前に、私は体をびくりとさせて、肩を見た。

 シワだらけの手のひらが置かれている。

 辿ってみると、私の横にタカギが立っていた。


「タカギさん」


 彼の姿を見た時、私はほっと息をついた。

 てっきりヤカラに絡まれたと思ったからだ。

 冷静に考えれば、そういう連中がたむろする場所ではない。

 ましてや、ここの住民がそんな粗雑な行いをするわけもない。

 冷静になれば分かることだが、このクドウ氏の屋敷の存在が、私の脳内から一瞬だけ消えていたのだ。


「どうされましたか」


 もちろん、彼は私の内心なんて知らない。

 だから私の顔を不思議そうに眺めるのは、当然の反応だろう。


「いえ、何でもありません」


 私の心境を吐露するにも、その価値があるとも思えなかった。

 作り笑いを浮かべながら、念のため筆をパレットの上に置いた。


「それで、私に何か御用でしょうか」


「ええ。大奥様が、先生とお話がしたいと」


「大奥様って」


「旦那様のお母さまでございます」


「クドウさんの、お母さんですか」


 一体どっちのお母さんだ。

 私はとっさにタカギに尋ねかけた。

 だが、まだ私にも礼儀が残っていた。

 クドウ家の内情を尋ねるには、関係が浅すぎる。


「庭園のテラスにてお待ちになっています」


 そう言って、タカギは手を差し出した。

 私が手を置くと、彼は包み込むように、手を握ってくれた。

 シワクチャで、老人らしい骨張った手。

 けれどその力は、これまで握手をしたどんな人間よりも、暖かいものだ。


「では参りましょう。大奥様も、貴女さまにお会いするのを、楽しみに待っておられますから」

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