6

 下書きを終えて、私は鉛筆を置いた。

 悪くない出来だった。

 写真の通りの構図に、現在のクドウ氏が溶け込んでいる。

 もう少し描き足したら、クドウ氏に確認を取ってもらおう。


 私の背後には壁掛けの時計があった。

 時間を確認すると、1時間ほど経っていた。

 休憩を挟むには、いい時間だった。


「休憩にしましょうか」


 私が言うと、クドウ氏は安堵するように、笑みを浮かべた。


「そうするとしよう」


 クドウ氏は立ち上がると、うんと背筋を伸ばした。

 コリコリと小さな悲鳴が、彼の背中から響いた。


「お茶を用意させよう」 


 クドウ氏は室内にあった電話の子機を手に取った。

 内線のボタンを押し、何処かへと電話をかける。


「私だ。悪いんだが、お茶を用意してくれ。ああ、頼むよ」


 彼の連絡から10分ほどが経った

 タカギがワゴンを押して入ってきた。

 ワゴンに載っていたのは、陶器のティーポットと2つのカップだ。


 タカギはワゴンを止めて、カップに紅茶を注ぎ始める。

 茶葉の優しい香りが、柔らかく広がっていく。


 タカギはティーカップを受け皿に載せて、まずクドウ氏に手渡した。

 クドウ氏は微笑で彼の働きを称え、紅茶を受け取る。

 それから一度ワゴンに戻って、彼はもう一つのカップを受け皿に乗せた。

 静かな歩調。私の隣に立ったタカギは、にこりと笑ってから紅茶を差し出した。


「ありがとうございます」


 スラックスの裾で手を拭いてから、私は紅茶を受け取った。

 そして、とてつもなく後悔した。

 借り物の服だということを、すっかり失念していたのだ。

 手を拭いたふくらはぎを見たが、もう後の祭り。

 スラックスにはしっかりと、鉛筆の汚れがついていた。

 

「すみません、汚すつもりじゃ」


 私は立ち上がって、クドウ氏に頭を下げた。


「クリーニング代はなんとか出せるとは思いますけど、弁償となると私の首が回らなくなるというか。けして払いたくないってわけじゃないんですけど。その、手持ちがあまりなくてですね」


 情けなるくらい、悲しい言い訳だった。

 自分がいかに矮小でチンケな女なのか。

 私の口がまざまざと突きつけているような気がした。


「謝らないでくれ」


 喉の奥で笑うような、独特な笑い方だった。

 クドウ氏はこもった笑い声を響かせ、椅子から立ち上がる。


「あの部屋の服は古着だよ。今更汚したところで、困る人間はいないよ」


 平然とした顔で、私を気遣うように言った。

 きっと彼にしてみれば、当然のことを言ったに過ぎないのだと思う。

 真っ直ぐに見つめてくる彼の目は、まさに純粋そのものだ。


 その言葉に私は救われながらも、やはり生きている世界が違うのだと気付かされる。


「そう、ですか」


 ほっとしながらも、どこか情けないような。いたたまれないような。

 不思議な居心地の悪さに、私は首を傾げ、曖昧な苦笑を浮かべた。


「どうだい、絵の方は」


 クドウ氏は紅茶を飲みながら、キャビネットに投げたスケッチブックに目を向けた


「こういう構図でよろしいでしょうか」


 私はスケッチブックを彼に渡した。

 クドウ氏はスケッチブック片手に持って、紅茶を飲む。

 その横顔は真剣そのものだった。

 彼お得意の微笑は消え、あの力強い視線で絵の中の自分を睨みつけている。


「あの、何か」


 不服な点でもあったのかもしれない。

 紅茶をキャビネットにおいて、クドウ氏の顔を覗いた。


「私は、こんな目をしていたのか」


 そう言うクドウ氏の表情に、微かな笑みが浮かんだ。

 不満や不測があったのではない。

 彼の表情に、ひとまず私は安堵した。

 

「ええ。私の目からは、そう見えましたが」


「そうか……」


 クドウ氏の白い手が、紙面にうつされた自分の顔をなでる。

 男らしくない綺麗な手だ。

 ピアニストか、あるいはヴァイオリニスト。

 そういう手先の繊細さがものを言う生業が、よく似合う。


「君の目から見た私は、こんな顔をしているのか」


「ご不満ですか」


「いや、不満じゃない。ただ、驚いているんだ。予想以上だよ。鏡に写った私では、こんな顔はできない」


 彼の顔に、またあの微笑が浮かんだ。

 それは心からの喜んでいるようにも見えた。

 が、同時に彼の内面を微笑の仮面で隠しているようにも見えた。


「このままでいい。続けてくれ」


「色はどうされますか」


「君のレンズで感じた色を使ってくれ。ただ、くれぐれも派手にな」


「ジョン・ブランブリットのように。ですか」


「その通り」


 クドウ氏は人差し指を立て、指揮棒のように機嫌よく振った。


「休憩を終えたら、また続きを頼むよ」


 席に戻った彼は、また紅茶に口をつけた。

 私は彼を真似て、紅茶を飲む。

 紅茶の甘い香りが、不安と緊張を和らげてくれた。


「しかし、どうも被写体というのは疲れるな」


 肩を回すクドウ氏は、苦笑しながら言った。


「同じ体勢を続けているだけで、肩がこってしまう」


「誰だって疲れますよ。休憩を挟みながらでないと、やってられません」


「普段はどうやって客の相手をしているんだ。毎回こんなふうに、被写体を絵にしているのか」


「ええ。居酒屋とか。ショッピングモールとか。記念と暇つぶしがてらの客を狙って、絵を描いて売ってました。酔っ払いが特にひどくてですね。ちっともこっちの言うことなんか聞きゃしないんですから」


 中には吐瀉物をぶちまけてきたお客もいた。

 一丁ら汚され、私は初めて人を殴った。

 その感触も、びっくりしたお客の赤ら顔も、昨日のように思い出せた。


「君も苦労しているんだな」


「大したことじゃありませんけどね。それにこっちも、案外楽しんでいるクチですし」 


 紅茶が空になった。

 タイミングよく、タカギがポットを持ってやってきた。


「おつぎいたしましょうか」


「お願いします」


 タカギはにこやかに応え、カップに新たに紅茶を注ぐ。

 それが終わると、彼はまたワゴンの傍に戻り、私たちの会話の成り行きを見守っていた。


「だが、このご時世。そういう依頼もなくなってただろう。その間、どうしていたんだ」


「絵を描いてましたよ。まあ、肖像画じゃありませんでしたが。二次元のキャラクターを描いたり、お客の写真で似顔絵を描いたり」


「写真でも描けるのか」


「ええ、一応は。写真もお客の顔には違いありませんから。でも、やっぱり生で見るのが一番ですね」


「どうして」


「リアルさというか。肉感というか。個人が持っている色合いとか、エネルギーとかが写真ではわからないんですよね。たぶん、私以外のを通しているからなんでしょうけど。どうも、写真を模写しただけの絵にしかならないというか」


「なるほど」


 クドウ氏は顎を撫でながら、興味深そうに言った。


「私の感覚ってだけですよ。他の人なら写真と文章から、その人柄とか色合いとかを想像できる人もいると思います。現物主義というか。私は実際のものを見た方が描きやすいんです」


「写真では描きにくいということか」


「見る人が満足してくれれば、それはそれでいいですけど。個人的には、少し物足りないですね」


 紅茶を一口含み、カップを受け皿に戻す。

 そキャビネットの上に置くと、カップの代わりにスケッチブックを手に取った。

 新たにページをめくり、まっさら白紙を用意する。


「新しく下書きを書くのか?」


「ええ。今度のはより詳細な下書きです。これを参考にして、キャンバスの絵に取り掛かります」


 もっとも、下書きは一枚だけでも十分に事足りる。

 だが、クドウ氏の満足がかなえるために、もう少し慎重になりたかった。

 それに久しぶりの肖像画の依頼だから、と言うのもある。

 下手な絵を描いて、クドウ氏の気分を台無しにしたくはなかった。


「慎重なんだな」


「お手間をかけさせてしまい、申し訳ありません」


「謝ることはない。作品のためなら、私は喜んで協力をするよ」


 クドウ氏はタカギに目で合図を送る。

 タカギはうなずき、私とクドウ氏のカップを回収する。

 ワゴンにカップを載せると、彼は私たちに頭を下げ、部屋を出た。

 扉を閉める間際。彼はまた頭を下げる。

 それを横目にしながら、私はまた鉛筆を握った。

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