5

 クドウ氏の姿がスケッチブックに浮かび上がった。

 引き締まった肉体。精悍な顔立ち。

 若くして企業の一社長に上り詰めた男。

 2年後に、自ら命を断とうとしている、奇妙な男の姿が。


「この部屋で、僕が、クドウ・ミツハルは生まれたんだ」


 それは私に語っているようで、私以外の誰かに語っているようにも聞こえた。

 独り言のようで、明確に誰かの存在を必要としている。

 私がクドウ氏を見た時、彼は私に向かって微笑みかけた。

 どうやら私にその言葉が向けられているようで、間違いはなさそうだった。


「生まれた、とは?」


 言いながら、部屋の様子を大雑把に、かつ細かく残していく。

 これは肖像画でもなければ、遺影でもない。

 彼の望む遺影という名の何か。

 その姿を追い求めて、確かめるように書き加えていく。


「もともと、僕はクドウ家の生まれではないんだ。先代のクドウ・スケタケが家政婦との間にできた隠し子。それが私だ」


 私は顔を上げて、クドウ氏を見た。

 彼も真っ直ぐに私を見ていた。

 大変な告白のはずなのに、動揺は微塵も現れていない。

 柔らかくて優しい微笑を浮かべたままだ。

 

 動揺したのはむしろ私の方だ。

 どう返答すればいいかわからない。

 根掘り葉掘り突っ込むわけにもいかない。

 かといって、慰めの言葉をかけようにも、彼はあまりにも平然としすぎていた。


「そう、だったんですか」


 考えに考えた末に出た反応は、お粗末なものだった。

 だが、私の言葉で、クドウ氏の気が害されることはなかった。

 いや、そもそも彼は私の反応など、とうの見抜いていた節があった。

 私を見つめる彼の目には、どこか子供に向けるような。

 生暖かさと、少しの嘲りが見て取れたような気がした。


「母は僕が大きくなるまで、決してそのこと話してはくれなかった。スケタケ老とそういう約束をしていたんだそうだ。きっと母とスケタケ老なりの優しさだったんだろう」


 唇の端を親指の腹で撫でながら、彼は窓の外に目を向けた。

 窓から射し込む太陽。黄金色に色づいた紅葉樹。

 落葉が降り積もった山の斜面。

 冬支度を始めた自然の景色。

 その色合いはこの部屋に比べたら大人しいものだ。


「過去の僕はスケタケ老と共にこの世から旅立ってしまった。そして現在の僕、クドウ・ミツハルがここで生まれた。こういうわけさ」


「幸せでしたか。その、スケタケ老との暮らしは」


「どうだろうな。私自身スケタケ老との思い出は、そう多くないんだ。彼は私が高校に上がる前に亡くなってしまったから」


 鳥のさえずりが近くから聞こえた。

 目を向けると、窓枠に1羽のコガラがとまっていた。

 黒と白の羽色に、くりくりとした小さな目。

 しきりに首を傾げて、コガラは私とクドウ氏を見つめている。


「今になって思うと、あまり好きではなかったかもしれないな」


 クドウ氏はコガラを見つめ、指をそっと差し出した。

 コガラは彼の指を不思議そうに眺め、首を傾げている。


「嫌いだったのですか」


「いや、怖かったんだ。スケタケ老のことも、この家の人間も」


 コガラは首を仕切りに動かすと、翼を動かして、小さな体を浮かび上がらせる。

 そして別れを惜しむように、数秒の間対空する。

 じっとクドウ氏を見つめた後、コガラはどこかへと飛び立ってしまった。


「しつけが厳しかったから、ですか」


「いいや。彼はそんなことはしなかった。むしろ、甘すぎたくらいだ。私のやることなすことをじっと見守っているだけで、特段怒ったり、しかったりすることはなかった」


「では、どうして」


「彼は、得体がしれなかったんだ。父親としても、1人の人間としてもね」


 コガラの姿が消えても、彼はまだ窓を見つめていた。

 外の景色を見ているのか。

 それとも、窓にうっすらと映り込む、自分の顔を眺めているのか。

 

 彼が何を考えているのかは、今をもっても理解することはかなわない。

 ただ、彼の表情に現れた哀愁は、コガラが飛び去ったことが原因ではないだろう。


「物静かで、口下手。仕事以外に口を動かすことはなかった。仕事部屋に足を踏み入れようものなら、まるで蛆虫を見るかのように、軽蔑と非難の眼差しを向けてくる。あの目は、子供にとってはトラウマものさ。そして僕は、あの目が苦手だった」


「連れてきたとはいえ、自分の子供でしょう」


「血筋以外に、彼が僕に興味を持ったことはない。僕の役目は、クドウ家の後継になること。そのために連れてきただけで、愛するためではないんだ」


「そんな勝手な」


「子供は大人の思惑には逆らえないのさ。少なくとも思惑を思惑として、きちんと理解できるまではね」

 

「逃げるということも、できたんじゃないですか」


「逃げる?」


「家の事業からも、しがらみからも。何もかも投げ出して、この屋敷からさるということも出来たんじゃないですか」


 クドウ氏はわずかに口を開けて、私を不思議そうに眺めている。

 その表情もなかなかに魅力的だが、絵にするなら、やはり唇をひき結んだ顔のほうがいい。

 今の顔は、少々間抜けすぎる気がした。


「君ならそうするかい」


「ええ。そういう面倒くさいものに、向き合ってても仕方ないですから。少なくとも、私はそう思います」


 責任とか。義務とか。

 家族からであれ、社会からであれ。

 人間は生きている上で、いろいろなものを背負わされる。

 大人になるということは、その重荷を自覚することだと気づいたのは、ずいぶん最近になってからのことだった。


 もっとも、そういうのが嫌だったから、こういう道に足を踏み入れたのだが。

 そりゃ、真っ当に働いている人間のほうが、いくらかマシな生き方をしているだろう。

 けど、それがどうも自分には合わなかった。

 責任を背負って暮らすより、責任を放棄して惨めに生きたほうが、私にとっては幸せだ。


「君は、強いな」


 クドウ氏の顔がわずかに目を細め、私を見つめた。

 まるで顔の間近に光を当てられたような。

 羨望とも呆れとも取れない視線が向けられた、ような気がした。


「強いとは違います。ただ、そういうのが面倒なだけです」

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