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「失礼いたします」
メイドがテラスへとやってきた。
私をここへ案内してくれた、彼女だった。
「旦那様のご準備ができました。会場へご案内いたします」
食堂には壁掛けの時計がある。
それを見ると、いつの間にか1時間近く経っていた。
「わかりました」
立ち上がって、テラスを後にしようとした。
その矢先に、手元に道具がないことを思い出した。
いくらフットワークが軽くても、道具がなくちゃ話にならない。
「すみません、道具を取ってこないと……」
「すでに道具は、会場にお運びいたしました」
「……そう、ですか」
勝手に人の部屋に入ったのか。
正確にはここは私の家ではないし。
住民というのなら、彼女たち給仕の方がふさわしいだろう。
でも、そうであっても一言断ってからでもいいんじゃないか。
苦情のつもりで、彼女をやんわりと睨みつけてやったが、意に介されなかった。
「ついてきてください」
そう言うと、彼女は私に背中を向けて、ドアの方へと進んでいく。
どうにもならない、もどかしさ。
それをため息として吐き出して、私は彼女を追いかけた。
会場というからには、なかなかの広さなのだろうと思った。
大広間とか宴会場とか。
旅館やホテルにも負けないような、ああいう豪勢な部屋を想像していた。
だが、案内されたのは、こじんまりとしたドアの前だった。
客室と代わり映えしないドアに、私は肩透かしを食らった気分になった。
メイドの彼女は、ドアをノックして中にいるであろうクドウ氏に、声をかけた。
「先生をお連れしました」
「入りなさい」
クドウ氏の声が聞こえてきた。
彼女はドアの前で一礼し、そっとノブを掴んだ。
静かにドアを開くと、彼女の背中越しに部屋の内部が見えた。
異様な部屋だった。
赤、青、黄色、オレンジ、緑。
壁や天井、床、窓。
さらには調度品に至るまで、極彩色で色付けされている。
「驚いただろう」
クドウ氏は本棚の前に立って笑っていた。
数冊の書籍を両手に抱え、それを本棚の中へと収めていく
それが終わると、首に下げたタオルで汗を吹いた。
「なんです。この部屋」
「子供時代に使っていた部屋だ。……ありがとう。ここまででいい」
室内には使用人らしき男たちが、雑巾やホウキを持って掃除に当たっていた。
彼らにタカギが声をかけると、会釈をして部屋を出ていった。
「内装は私の父のクドウ・スケタケ老が施した。久しぶりにここに入ったんだが、ホコリが凄くてな。掃除をしないと使えそうになかった」
シャツの袖のボタンをはずし、クドウ氏は腕をまくった。
意外と筋肉質の太い腕をしていた。
日頃から鍛えているのかもしれない。
体毛が少なく、肌の白さがよく目立った。
「言ってくだされば、私もお手伝いしましたのに」
「そんなことをすれば、クドウ家の名前に傷がついてしまうよ。客人はもてなすものであって、家事を手伝わせるものではないんだから」
苦笑まじりにクドウ氏は言った。
資産家の矜恃というやつだろうか。
この妙な見栄っ張りは一体なんなのだろうか。
「君の道具は用意させてある」
クドウ氏はそう言って、私の背後にある書架に差し向けた。
彼の指の方を目で追いかけると、私の荷物が整然と置かれていた。
「準備に入ってくれるかい」
「ええ。もちろん」
返事をしつつ、私は荷物の傍に歩み寄る。
カバンの中には絵筆箱。スケッチブック。筆箱。
鞄の脇には折り畳んだアルミ製のイーゼル。
私の相棒たちがかけることなく、用意されていた。
「キャンバスはこちらで用意させてもらった」
「大きさは、どのくらいでしょう」
折り畳んだイーゼルを広げながら、私は尋ねた。
「Fの30号。縦910の横727のものだ」
そこそこ大きい。
一般的な遺影として考えると、大きすぎるくらいだ。
「なるほど」
三脚を伸ばし、キャンバスを支える支柱を広げる。
ドアが開く音がした。
振り返ると、キャンバスを抱えた男が入ってきた。
さっきこの部屋でホウキを持っていた使用人だ。
抱え持ったキャンバスを、私のイーゼルの上に置く。
離れる際にハンチング帽を傾けて、白い歯を剥き出して微笑みかけてくれた。
好青年らしい、明るい笑みだ。
私が会釈するのを見届けて、彼はまた部屋を出て行った。
「構図は、そうだな……」
クドウ氏の座るソファの背もたれ。
そこには彼のジャケットがかけられている。
クドウ氏はそのポケットから1枚の写真を取り出した。
「これと同じようにしてくれ」
クドウ氏は写真を指では挟みつつ、私に見せてくた。
色あせた少年の写真だ。
ソファの上にちょこんと座り、不思議そうな顔をして、レンズの向こう側にいる誰かを見つめている。
「これは」
「小学校に入る前の私だ。これと同じような構図で、描いてくれ」
この写真と部屋の様子を比べる。
椅子の位置。本棚の箇所。観葉植物。そしてソファ。
日差しと背丈の違いこそあれ、写真と同じ環境になっていた。
「この構図のために、この部屋を使いたかったと」
「簡単にいえば、そうなる。それでどうだろう。できるかい」
「やれないことはないと思います。少しの間、お借りしても」
「ああ。もちろん」
写真を睨み付け、クドウ氏に色々と注文をつける。
やれ足の位置だ、手の位置だ。
顔の角度、体の力の入れ具合だの。
写真のクドウ少年の様子に、どうにか近付ける。
ようやく絵の構図が決まると、スケッチブックを取り出し、全体の構図を描いていく。
走りがいた構図をクドウ氏に確認してもらう。
住宅の施工前に、図面を家主に見せるのと同じような作業だ。
しなくても構わないこともあるが、私の場合はなるべく依頼人に確認をとってもらうことにしている。
「楽にしててください。被写体だからと言って、無理にじっとしている必要はありません」
鉛筆をスケッチブックに走らせる。
「そうなものなのか」
手のひらで肘掛をパンと叩くと、心なしか残念そうに、クドウ氏の目が細められた。
「てっきり、じっとするものだと思ったのだが」
「じっとしているのも疲れますから」
動かないことで血液の循環が悪くなり、疲労が蓄積される。
それを防ぐために、人間は無意識に体を動かす。
不動をキープするのは、それはそれで鍛錬が必要だ。
プロのモデルならまだしも、一般人にプロと同じ基準を求めても無理があるだろう。
「君は大丈夫なのか。動いてしまっては、描きづらいんじゃないか」
「心配は入りません。慣れてますから」
わがままな子供。
酔っ払いのおっさん。
いちゃつくカップル。
身振りの大袈裟な中年おばさん。
世の中には落ち着くと言う言葉を知らない人間が、山のようにいる。
彼らを相手にするうちに、じっとしていることは、私にとってそれほど重要じゃなくなった。
「そうか。頼もしいな」
クドウ氏は気さくに笑みを浮かべると、椅子に深く腰掛け、肘掛に腕を乗せる。
「お言葉に甘えるとするよ」
唇を引き結び、私の方をじっと見つめる。
その視線の鋭さといったら。
まるで私に挑みかかろうとするように、ギラギラとしたエネルギーを宿している。
とても、死にゆく人の顔には見えない。
全く遺影には似つかわしくない。
「では、始めます」
これから自分は何を描こうとしているのだろうか。
遺影。そう、遺影だ。
彼の死のための。彼の自殺を見送るための絵。
そのことを、私は少し忘れかけていた。
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