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「失礼いたします」
女の声が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
私が応えると、ドアが開き、女性が姿を表した。
たぶん、私より若い
艶のある黒髪に、メイド服姿が実に似合っている。
「おはようございます、先生。コーヒーをお持ちいたしました」
先生。
その呼称に少しの劣等感と、自分に課せられた仕事を思い出した。
彼女は片手にトレーを持っている。
その上には湯気のたったカップ。角砂糖の入った小瓶。
さらにミルクの入ったガラスビッチャーが載せられていた。
彼女は頭を下げ、静かにドアを閉める。
それから私の元にやってきて、カップを差し出してきた。
「どうぞ」
カップの中には、コーヒーが入っている。
いい香りだ。チェーン店の前を通った時と、同じ匂いが目の前から漂っている。
「ど、どうも」
どぎまぎしながら、私はカップを受け取った。
びっくりするような熱さじゃなかった。
程よい温もりが、冷えた手のひらをじんわりと温めてくれる。
「ミルクと、砂糖は必要ですか」
正直に言えば、コーヒーはほんのり甘い方が好みだった。
しかし、せっかくだから無糖のまま飲んでみたい気もする。
悩んだ末に、最初は無糖で試してみることにした。
「少し飲んでから、考えます」
黒い湖面にそっと息を吹きかける。
湯気がたなびき、薄く広がり、消えていく。
カップの淵に唇をつけて、コーヒーを少し口に入れる。
独特の香りと苦味。
豆本来の味というか。濃厚な味わいが口の中に広がっていく。
正直、旨いのかどうかさっぱりわからない。
「お使いになりますか」
メイドは苦笑して、トレーを前に差し出してきた。
「……そうさせて、もらいます」
ブラックはだめだ。
さっきの強がりを後悔しながら、ミルクと砂糖をコーヒーに落とした。
「コーヒーをお飲みになった後、テラスの方へご案内いたします」
と、メイドは静かに言った。
「テラス、ですか」
「旦那様がお話がございます。焦る必要はない。朝の時間をゆっくりと過ごしてからきてくれ。と、仰せつかっております」
「そうですか」
話といえば、おそらく仕事のことだろう。
絵に関することで、色々と言われるのかもしれない。
「わかりました」
そう言って、ぐいと飲み干せたらどれだけ格好良かったか。
猫舌の私には、そういう格好良さは縁遠い。
ちびちびとコーヒーを飲み、数分かけてようやく飲み干した。
「よろしいでしょうか」
「ええ。お願いします」
「かしこまりました。ご案内いたします」
メイドは丁寧に頭を下げ、形式ばった微笑を浮かべた。
テラスは1階の食堂の奥にあった。
食堂と言っても、巷の食堂のような感じじゃない。
名高いホテルとか、高級なペンションとかで見るような、広々とした豪勢な部屋だった。
赤いテーブルクロスが敷かれた長い机。
机を挟むように並べられた座席。
天井にはお誂え向きに、シャンデリアがぶら下がっている。
メイドの後を追って、私は机の横を通り過ぎた。
食堂の入り口。その正面には大きなガラス窓があった。
窓の向こう側には、ウッドデッキがあり、そのさらに向こう側に青々とした芝生が広がっている。
ウッドデッキには黒いガーデンテーブルとソファが置かれている。
クドウ氏は、ソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
彼の傍にはタカギが控えていて、私たちに気がつくと、クドウ氏の耳元に囁きかけるように、声をかけていた。
メイドが窓を開けて、ウッドデッキに出た。
それと同時に、クドウ氏が振り返る。
「おはよう、よく眠れたかね」
カップを掲げながら、クドウ氏は笑った。
「ええ。久しぶりにぐっすりと」
「それはよかった。さ、そこにかけてくれ」
クドウ氏の手が、隣のソファを指した。
私がそこに腰をおろすと、メイドは静かに食堂に引き返して行った
「コーヒーの味はどうだった。君も飲んだんだろ?」
「ええ、眠気覚ましには、うってつけでした」
表情が不自然になっていないといいのだが。不味くはない。
ただ、あの強烈な苦味と香りは、私の味覚には合わなかった。
「そうだろうと思った。これを飲めば、一気に眠気が吹き飛ぶからな」
クドウ氏はカップを傾けながら、コーヒーの湖面に視線を向けた。
その中に、ミルクの白い線が入っていたことに、私は気づいた。
「ただ苦味が強くてな。砂糖とミルクなしでは、私は飲めないんだ」
そう言ってクドウ氏は苦笑を漏らした。
カップに口をつけ、コーヒーを飲む。
それからテーブルにカップを置くと、足を私の方に向けた。
「仕事の話をしよう」
唇の残ったコーヒーを舌で舐め取り、クドウ氏は両膝に肘を置いた。
体を前に倒し、下から覗くように私を見つめる。
「制作時間は1日2、3時間。午前中を中心にやっていこうと思う」
「午後はお仕事ですか」
「ああ。もしかすれば午前にも入るかもしれないが、その時は仕事の優先させてくれ」
「わかりました」
「ありがとう。それで、早速今日から1枚目の製作を始めてもらうわけだが、テーマは私の誕生だ」
「誕生、というと」
「クドウ・ミツハルがクドウ・ミツハルになる、その最初の地点だ。全てはここから始まり、そして終わりへと向かう。そのために、これから色々と準備をしなくちゃならない」
「時間はどのくらいかかりますか」
「ざっと、1時間くらいだ。その間、君はどこかで待機していてもらいたい。ここでもいいし、君の部屋でもいい。もちろん、屋敷を見て回っても構わない。その時はタカギかメイドにでも、付き添ってもらうことになるが」
「そうですか」
自画像の演出は特別驚くことではない。
背景に絵画や像。書物やドレスといった衣服も。
その人の価値観、宗教観、さらには理想とする存在を演出するために、物を使って絵にエッセンスを加えていく。
自画像は被写体の理想を、絵画という形で落とし込む。
もっとも、写真のような絵画を望む被写体には、そういう演出を望まない人間もいる。
とはいえ、それはあくまで肖像画としての演出だ。
遺影にそんな演出がいるとも思えない。
モノトーンが基調で、着物かスーツ。
もしくは生前気に入っていた服が、せいぜいの演出だろう。
ただ、クドウ氏の求めている遺影はそんなものじゃない。
彼の遺影は普通のではなく、色鮮やかなものを御所望なのだから、普通の枠に当てはめるのは無意味だろうけど。
目尻に指を当てながら、クドウ氏はコーヒーを飲み干した。
空になったカップをタカギに渡し、クドウ氏が私を見た。
「ゆっくりくつろいでいてくれ。私は準備にかかるとするよ」
「待っているのが退屈になったら、どうすれば」
「もっと退屈してくれ。心配しなくとも、退屈で死ぬことはない」
「……なるほど」
リズミカルにテーブルを指で叩くと、クドウ氏は微笑みを浮かべて立ち上がる。
「ああ、そうだ」
出口へと向かった彼だが、その足が止まり、くるりとこちらを振り返った。
「くれぐれもマスクはつけてくれ。遺影の完成を待たずに、倒れたくはないからね」
指でマスクの形を描き、クドウ氏は苦笑混じりに言ったのだった。
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