1枚目

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 毛布の温もり、柔らかな枕の感触。

 最高の寝心地を堪能していると、小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 なんて心地のいい朝だろう。

 私は薄めを開けて、最高の目覚めを味わった。


 そこは、見慣れた車内わが家じゃなかった。

 飲みかけのミルクティも、食べかけのポテトチップスもない。

 あるのは高そうな調度品と天蓋付きのベッド。

 赤い絨毯が床を隠し、幾何学模様があしらわれた緑の壁が四方を囲んでいる。


 ああ、そうだ。 

 ここはクドウさんのお屋敷だったんだ。

 夢の中に隠れていた事実が、じわじわと私の中に染み込んでいく。


 ベッドから体を起こす。

 体の凝りを感じずに起きるのなんて、いつぶりだろう。

 うんと背筋を伸ばしても、体から悲鳴が聞こえてこない。

 いつもならゴリゴリと、汚い凝りの音が体に響くのに。


「やっぱり、車のシートとは違うわね」


 私の形に沈んだマットレス。

 寄れてシワのついたシーツ。

 そこらのホテルよりも上質なベッドを、愛おしく撫でた。

 寝心地の良いベッドを離れるのは惜しい。

 だが、他人の家のベッドで惰眠を貪れるほど、肝は座っていない。

 それに、私に不釣り合いな金持ちの部屋は、どうも居心地が悪かった。


 ベッドから降りて、姿見の前に立った。

 私がきているのは、シルクで作られたガウンだ。

 タカギが用意してくれたものだ。


 腰の紐を解くと、貧相な体が現れた。

 平べったい胸と尻。

 それを隠す真新しい下着が隠している。

 これも、タカギが用意してくれた。

 ただの下着だが、何だか高そうに見える。

 いや、たぶん、高いに違いない。


「私には、もったいないわね」


 きっと下着も私みたいな女に着られるために、作られたわけじゃないだろう。

 人間、身の丈にあったものが一番落ち着く。

 みすぼらしく思われたとしても、その方が結局、自分のためになるのだ。


「……あれ?」


 早々に下着を脱ごうとしたが、着替えがないことに気づいた。

 ベッド脇の化粧台に、確かに置いたはずなのだが。


「おかしいな」


 化粧台の下。ベッドの下。タンスの中。

 髪を描きながら部屋の中を見渡してみたが、結局見つけられなかった。


 まさか、盗まれたのだろうか。

 瞬間的に考えたが、可能性はかなり低い。

 下着は使い古されたものだし、コートもジャージも年季ものだ。

 売ったとしても大した額にはならないし、そういう・・・・使い道をするにしても、私にそんな魅力があるとも思えなかった。


「おはようございます」


 あっちこっちをひっくり返していると、タカギの声がノックの音とともに入ってきた。


「おはようございます」 


 脱ぎ捨てたガウンを羽織り直して、私は言った。


「ゆっくりとおやすみになられましたか」


「え、ええ。おかげさまで」


「それはよかった。ところで、朝食はいかがいたしましょう。ご要望があれば、ご用意させていただきますが」


「ああ、私、朝は食べないので朝食は大丈夫です」


「そうですか。でしたら、眠気覚ましにコーヒーでもいかがでしょうか」


「じゃあ、お願いします」


「かしこまりました。では、後ほどお運び致します」


「ありがとうございます。……ああ、あの、私の着替えなんですが」


「はい」


「部屋に畳んで置いたんですが、今日起きたら無くなってて。何かしりませんか」


「ああ。それでしたら、お休みになられている間に、洗濯をさせていただきました。代わりの着替えは、タンスとクローゼットの中のものをお使いくださいませ」


「タンスの、中……」


 そう言われて、ついさっき見たタンスの中身を思い出した。

 シャツ、ドレス。コート……。

 私でも知っているような、有名店のものがずらりと並んでいた。


「あの服を、ですか」


 自分でもわかるほど、微かに声が震えていた。


「着心地は保証いたしますよ。失礼いたします」


 タカギが私を見ることができたら、どんなによかったか。

 きっと同情して、違う服を用意してくれたかもしれない。

 だけど、彼は紳士だった。 

 婦人の部屋に無闇に入るべからず。

 そう言う古風な暗黙のルールを、彼は完全に守っていた。


 足音が遠ざかっていく。

 どうやらタカギは立ち去ってしまったみたいだ。

 私はどぎまぎしながら、もう一度タンスの引き出しに手をかける。

 中には高そうな服が、ずらりと並んでいる。

 シャツ、ジーンズ、スラックス、チノパン。

 タンスの横には、クローゼットがある。

 そこを開けば、派手なドレスからシックなコートまで。幅広い洋服がハンガーにかけられていた。


 服を見て血の気が引くのなんて、初めてだった。

 服を汚したらどうしよう。

 何処かにひっかけて、破いたりでもしたら。

 クリーニング代とか弁償代とか請求されたら。

 雀の涙ほどの財産を叩いたところで、返済できる気がしない。


 だが、ガウンのまま出歩くほど、恥じらいを捨てたわけではない。

 一応女であることは自覚しているし、私の体を見て、気まずい思いをしてもらっても、正直困る。


 悩んで、悩んだ挙句。

 意を決して一番地味な、黒のチノパンと白いシャツに着替えることにした。

 ガウンを脱ぎ、素早く服を着替える。

 ガウンはベッドの上に畳んで置いた。


 それから姿見で、自分の姿をみる。

 一見すれば、普通の会社員のようだ。

 だが、場所が場所なせいで、普通の衣服が異様な高級感を放っているように思えてならなかった。


 化粧台には、ブランドもの化粧品が用意されている。

 高いことは言うまでもないだろう。

 無論、使う気にはなれない。

 きっとこのコスメブランドたちも、私などに使ってもらいたくて、作られたわけじゃないはずだ。


 身嗜みは、寝癖を整えるだけにした。

 長年野晒しにしたせいで、肌はひどく荒れている。

 自分でも眺めていても、悲しくなってくる。

 だから鏡はいやなんだ。嫌いな自分を、容赦無く見せつけられるから。


 着替えを済ませて、私は日課のストレッチを始めた。

 温まってきたところで、体をねじり、腰から背中にかけてを伸ばしていく。

 屈伸の後の深呼吸。

 体内に空気が巡るのを感じながら、広げた両手をゆっくりと下ろす。

 さっきよりかは、気分も楽になった。


 椅子に恐る恐る腰を下ろし、息をつく。

 不安がぶり返してこないうちに、早いとこコーヒーを持ってきてくれないか。

 そわそわとしながら、私はドアをじっと見つめ続けた。

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