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 |流し(フリー)の絵描き。それが私の仕事。

 芸大を中退し、居場所と住処を失った末に編み出した、生きる術だった。


 時には居酒屋の酔っ払いたちを相手に。

 時には田舎の公民館で老人たちを相手に。

 ホテルのロビー。ショッピングモールの通路。

 駅のホーム。スーパーの飲食コーナー。


 場所を選ばず、環境を選ばず。

 自前の集中力と道具を武器に、顧客の顔を絵にして、お駄賃をもらう。そういう商売だ。


 が、このごろのウィルス騒ぎで、それまであった依頼は全部パー。

 最近は同人作家の扉絵やキャラクターの絵の注文をとって、食い扶持を稼ぐ日々が続いていた。

 それはそれで楽しかったが、空想上の顔は味気がなくて、ちっとも面白くない。

 やっぱり私は人間を描くのが性に合っているとつくづく思う。


 タカギの依頼は、そんな私に願ってもない機会だった。




 彼の愛車は、黒塗りのジャガー マーク2復刻版モデル。

 突出したフロンドと、前方についた四つの丸いライトが特徴だ。

 タカギは私が乗り込んだのを見ると、エンジンをかける。

 エンジンの鼓動を感じるや否や、車はゆっくりと滑り出した。


 一時間ほど進んだだろうか。県道を進み、山道へとさしかかる。

 その頃には、あたりは真っ暗になっていた。

 曲がりくねった道を、ヘッドライトが闇を切り裂きながら昇っていく。


 山頂近くまで来た時、左手に細い砂利道が見えた。

 タカギは器用にハンドルを切り、砂利道に入る。

 道なりに進んでいくと、大きな屋敷が姿を現した。


「まるで、お城ね」


 切りそろえた石を積み上げてできた外壁。

 研いだ鉛筆のような赤茶色の屋根。

 玄関は木製の大扉で、大きな窓が一階と二階についている。

 吸血鬼が今にも飛び出してきそうな、古風な屋敷だった。


「こちらです」


 両手を消毒してから、タカギの案内に従って、正面の扉へと進む。

 重々しい開閉音とともに、タカギがゆっくりと扉を開く。

 正面の壁に刻まれた巨大な壁画が、私たちを迎え入れた。


「系統樹」


 微生物から始まり、植物、魚類、哺乳類、そして人間。

 生命の進化の大いなる旅路を、巨大な広葉樹木として描いている。

 樹皮の細やかな凹凸。葉の一つ一つの葉脈の一本一本まで。実に芸が細かい。


「美しいでしょう。旦那様が彫刻家を雇って作らせたのです」


 タカギは系統樹を見上げながら、誇らしげに言った。


 壁画を横目に、タカギは私を連れて階段を昇る。

 廊下を進んでいくと、広間にでた。

 いや、正確には広い書斎と言うべきかもしれない。

 両側には天井まである巨大な本棚。詰め込まれた書籍たちが背中を向けて並んでいる。


「ようこそ、待っていたよ」


 部屋の奥。窓を背にして男が立っていた。

 彼は振り向きながら、私とタカギに視線を巡らせる。

 そこにいた男は、写真通りの姿をしていた。


 なでつけた黒髪。整えたあご髭。

 理髪そうな顔に、力強い瞳が輝いている。


「クドウ・ミツハルさん、ですか」


「いかにも、僕がクドウ・ミツハルだ。そこにかけてくれ、仕事の話をしよう」

 

 葉巻をくゆらせながら、クドウ氏は手を差し出した。

 手の先には一対の黒革のソファが置いてある。

 私が腰を下ろすと、クドウ氏は対面に座り、話を始めた。


「タカギからも聞いたと思うが、君には僕の絵を描いて欲しいんだ」


「デフォルメされた似顔絵でしょうか。それとも肖像画のようなしっかりとしたもの」


「イメージをしているのは、色彩豊かな肖像画だ。ジョン・ブランブリットのような、あんな絵がいい」


 これはまた難題を吹っ掛けられたものだ。

 盲目の天才画家の色彩を注文とは。

 クドウ氏は葉巻を灰皿に押し付ける。

 火種が消え、紫煙が立ち昇った。

 

「絵は全部で9枚」


「9枚も」


「ああ、少し無理があるだろうか」


 まるで私を試すように、クドウ氏は私の顔を見定めてくる。

 私は少しムッとしながら、彼の目を見返した。


「そういうわけじゃありませんけど、時間はかかりますよ」


「2年もあれば、足りるかね」


「それくらいなら何とか。絵の大きさにもよりますが」


「なら問題ない。報酬は、そうだな……」


 クドウ氏がタカギを手招きする。

 タカギは心得た表情で、ポケットからボールペンとメモ帳を取り出した。


「ありがとう」

 

 クドウ氏はこれを受け取ると、ボールペンでスラスラと、メモに何かを記していく。

 それが終わると、用紙から紙をめくり取り、

 

「このぐらいで、どうだろう」


 と言って、私にその紙を見せてきた。

 書かれていたのは、¥マークのついた数字の羅列。

 これをみて、私は息を飲んだ。

 その額、実に2000万。

 これまでの稼ぎの何十倍もの額だった。


「どうやら、満足してもらえたようだ」


 私の惚けた顔を見て、クドウ氏は微笑を浮かべた。


「絵を描いている間は、この屋敷で休んでくれ。不足した道具や絵具があれば、いつでも用意させる。何か不満はあるかい」


「不満だなんてそんな。是非やらせてください」


 こんな依頼は滅多にない。

 いや、この先もあるかどうかすらわからない。

 巨大な魚を逃すまいと、私は前のめりに返事をする。

 クドウ氏は苦笑しながらも、満足そうにうなずいた。


「テーマは、あるんですか」


「ある。この絵は飾るものだが、少し実用性も持たせるつもりだ」


「実用性?」


 クドウ氏の唇が柔らかく歪み、さも当然のように、


「遺影だよ」


 と、言った。


 まるで冷や水を浴びせられたようだった。

 興奮が嘘のようにかき消える。

 愕然としながら、私はクドウ氏を見た。そして、心配した。


「お身体が、悪いのですか」


「いや、僕は健康そのものだ。病気一つかかったことがない」


「だったら、どうして遺影なんか……」


「自殺をするからさ」


 空の天気を話すような気軽さで、クドウ氏はその2文字を口にした。


「な、何かお悩みでも」


「いいや、悩みはない。世界に失望したからでも、人間に絶望したからでもない。もちろん、気まぐれに死のうと考えていたわけじゃない。私は計画的に、自らで生命を断つことを決めたんだ」


「あの、その……命を、粗末にしない方がよろしいかと」


「生命を定義できない人間が、生命の尊さを説いたところで何になる」


 そう言って、クドウ氏は微笑を浮かべた。

 私は言葉を返すことができず、沈黙した。


「これは前払いだ。とっておいてくれ」


 戸惑っている私を他所に、彼は私の手をとって、何かを乗せた。

 見ると、それは帯紙でまとめた分厚い紙幣だった。

 初めて味わった、札束の重み。

 混乱の深みにはまったまま、私はクドウ氏の顔を眺めた。


「絵を描く間に、私について色々と教えようじゃないか。個人の人生は個人の色彩に影響をもたらすと言うしね」


 クドウ氏は慰める様に、私の肩を叩いた。

 そして立ち上がり、この場に私とタカギを残して、一人部屋を出ていった。


 今ならまだ引き返せる。

 私は半ば腰をあげたが、手に乗せられた紙幣を見て、動けなくなった。

 たった数kgの重り。たった数十枚の紙切れ。

 それが私の心と体を、がんじがらめにする。

 

 こんな依頼を受けるべきじゃない。

 だが、この金をみすみす逃すのも惜しい。

 私の中で何かが2つに割れるような。

 引き裂かれるような思いに見舞われた。


 動けないまま、彼の足音を聞きながら、私は呆然と窓を見た。

 闇に私の顔が写っている。

 バカで、間抜けな、女の顔が。

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