第83話 美咲の笑顔
次の日の朝。
教室に入ると、美咲はもう席についていて、だけど自分の腕を枕代わりにして机に突っ伏していた。
寝ているなら挨拶はあとにしようかな、とも思ったけどずいぶんと長い間そうしているから心配になって、
「美咲。気分悪いの?」
と声をかけると、
「おはよ、綾……。ごめん、ちょっと寝不足……」
と短く答えてくれただけで、またすぐに顔を伏せてしまった。
保健室行く? とか何かもう少し声をかけようかと迷いながらも、昨日の一件を思い返すと、変に気を遣ってしまって、すごすごと席に戻ることしかできなかった。
朝のホームルームが終わってすぐ、廊下まで豊橋先生を追いかけて呼び止める。
「先生。ちょっといいですか」
「日崎。悪かったな、昨日。私のこと探してたんだろ?」
「はい。職員室におられなかったので、書置きを……」
「うん。それで、どんな感じだ?」
「はい。その話、なんですけど……」
「何かあったのか?」
「美咲と……、その、意見がぶつかってしまって……」
先生は驚いた様子もなく、ただ、軽くため息をついて出席簿の角をなでる。
「そうか……」
「今日、お昼休みに時間いただけますか?」
「あぁー、昼はちょっときびしいな。時間が取れてもたぶん五分か十分くらいになるぞ」
「そうですか……」
「そんなにまずい状況なのか?」
「まぁ、そうですね……」
「どうしてもってことなら、教頭先生に話通して、無理やりにでも数学の授業自習に変えてやってもいいぞ」
「あ、いえ、そこまでは……、してもらわなくても大丈夫、だと思います」
本音を言うとそうしてもらえたら嬉しいけど、さすがにクラスのみんなにまで迷惑をかわけるわけにはいかないかな……。
「そうか? わかった。じゃあ、放課後はなんとかして時間つくってやる。それでいいか?」
「はい。お願いします」
先生はふっと笑うと、私の肩を叩いた。結構痛い。手加減してくれているのかもしれないけど、体がよろけそうになる。
むっとした顔をつくっていると、先生は何でもなさそうに声を上げて笑う。
「大丈夫だ。何でもかんでも心配しすぎんな」
遠ざかっていく先生の背中がちょっぴり恨めしい。
心配しすぎ、なのかな……。
四限目が終わってお昼休みのチャイムが鳴る。
「綾っ。一緒に食べよ!」
美咲は、自分の椅子とお弁当箱を私の机まで運んでくれる。元気いっぱいって感じだ。
「うんっ」
と返事をするけど、美咲が無理をしているのはわかっていた。たぶん、お昼になったらこんな感じで声をかけようって決めていたんだろう。何となく、そう思ってしまう。
一緒にお弁当を食べ始めて、普通におしゃべりもできるのだけど、和やかな雰囲気にはあと一歩届かない感じだった。
美咲は本当に、嘘とかごまかしとかそういうのが下手なんだなぁって思う。全部バレバレなんだけど、それでも必死に私には悟られまいと笑ってくれて……。
美咲。私といるの、ホントはきついんでしょ?
距離とってくれたっていいんだよ?
なのに、そんなふうに優しくされちゃったら、私のほうから突き放すなんてできるわけないじゃんか……。
新機種の携帯の話、化粧品の話、最近のドラマの話なんかで時間を潰す。
私も美咲も完全におしゃべりが優先になってしまって、なかなか食べ進められないまま三十分くらいが過ぎた頃だった。
うまく話がつながらなくなって慌てて話題を探す、そのほんの少しの沈黙の時間を砕いて、そっと、美咲が抑えたトーンでしゃべり出す。
「綾……。あのさ……」
「うん。何?」
気づくと、美咲はいつの間にかお箸を置いていた。
うつむいたままで顔は見せてくれない。
「ちょっと真剣な話、していい?」
「うん……。いいよ」
変に声がうわずってしまった。
「私ね……。昨日、ずっと考えてたんだけど……」
「うん……」
相槌を打つだけで精いっぱいだ。うまく息ができない。
どんなことを言われるんだろう。もしかすると、美咲の次の言葉は胸が張り裂けそうになるような言葉かもしれない……。
嫌だよ。私が泣いちゃうようなこと言わないでよ、お願いだから……。
美咲が口を開きかけた、その瞬間だった。
ぽこっ、とかわいい音を響かせて、白い塊が美咲のおでこにぶつかって跳ねた。
「あいてっ」
小さく悲鳴を上げて美咲は自分のおでこを押さえる。
白の塊は床をぽこぽことバウンドして転がっていく。何かと思ったけど、よく見たらピンポン球だ。
「わりぃーっ! 土谷! ごめんな!」
そう言いながら走ってきて、月坂がピンポン球を拾う。
へらへら笑って教室の後ろのほうへと戻ろうとした月坂の、その前に立ちふさがる。
「ねぇ」
「なっ……。何だよ」
口だけの軽い謝罪、この薄い反応、こいつ絶対に反省してない。またすぐにピンポン球で遊ぶ気だ。
「何してんの?」
「何って、野球だけど……」
振り返ると、月坂と一緒になって、ピンポン球と丸めた新聞紙を使って野球に興じている男子が三人、月坂がピッチャーの位置に戻るのを待っていた。
にらみつけると、三人とも気まずそうに目をそらす。
そっちの三人は、まぁいいや。とりあえず月坂に言えば伝わるでしょ。
「何で教室で野球すんの?」
「いや、あの……。でもさ、そんなに痛くはなかったと思うんだよ。土谷、どうだった?」
「うん。びっくりしたけど、別に痛くはなかったよ」
「待って、美咲。ちょっと私に任せて」
美咲を制止して、ぐいっと月坂に詰め寄る。
「痛いとか痛くないとか、そんな話してないでしょ。迷惑だって言ってんだけど」
「それは、その、ごめん……。ってかそっちだって、弁当食うのにいつまでかかってんだよ。昼休みあと十分だぞ」
うっ……。確かに……。周りを見ても、まだお弁当箱を広げたままなのは私たち二人だけだ。けど、それは赤居のことがあったからで……。って、そんなことでうやむやにされてたまるか。
「話すり替えんな。野球やるんだったら外行ってやってよ」
「いや、なんつーか、この窮屈な感じがこれはこれで楽しいんだよ。お前も一回やってみろって。バッターやらしてやるからさ。あ、ピッチャーのがいいか? ほい」
悩みなんて一つもなさそうな能天気な笑顔で、月坂がピンポン球を差し出してくる。
この馬鹿、こっちはすっごく大変な状況だってのに。しかもまだお弁当途中だし。ピンポン球も、よくよく見たら結構汚いし。
「これ、私物? 家から持ってきたの?」
「いや、廊下に落ちてたの拾った」
「じゃあ学校のやつなんじゃないの?」
「うん。かもな。ってかたぶんそう」
「じゃあ返してきたら?」
「ええー。いいだろ別に。一個くらい。体育館にいくらでもあるんだし」
「体育館にいくらでもあるから何? だから盗んでもいいの?」
「盗むって、別にそんなつもりじゃ……」
「実際盗んでるじゃん」
「ちがっ……。ほら、道に落ちてる十円玉拾ってわざわざ交番に届けたりしないだろ?」
「私、十円玉落ちてても拾わないけど」
「そういう意味じゃねぇよ。そんなちっさいこと気にしなくてもいいだろって言ってんだよ」
「それ、卓球部の人にも同じこと言えんの? ピンポン球一個くらいどうでもいいでしょって」
「ぐぁ……。それは……」
「とにかく、ここじゃなくて別のとこでやって」
「んん、ん……」
月坂はまだ何か言いたそうにこっちをにらんでいたけど、後ろの男子の一人から、
「もうやめとこうぜ、月坂。明らか俺らのが悪いんだしさー」
とたしなめられたことで、しぶしぶ教室を出て行った。
まったく、世話の焼ける……。
イライラを落ち着かせるために水筒のお茶をごくごくと飲み込む。
ふうっと息をついて椅子に腰かけると、いつからか美咲がにんまりとしてじっとこっちを見つめていた。
「なっ……、何?」
「なーんか、悔しいなぁーって思ってさ」
「悔しいって、何が?」
「だって綾って、月坂君としゃべってるときが一番生き生きしてるでしょ?」
「ええっ? 別にっ、生き生きなんてしてないよ!」
「えー? そう?」
「あいつがバカなことばっかりしてるから、単純に怒ってるだけ」
「そうかなー?」
「そうだってば、もうっ……。それより早く食べちゃおう。本当にお昼休み終わっちゃうよ」
「はーい」
お箸でご飯を掴みかけて、手を止める。
「あと、そのにやにや禁止」
ふふふっ、と笑ってくれた美咲の笑顔は、久しぶりに見る、いつもの見慣れたかわいい笑顔だった。
また一つ借りができちゃったかな……。ありがとうなんて、絶対に言ってやらないけど。
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