第80話 猫耳カチューシャ

 豊橋先生に連れられるまま、ただ漫然と廊下を歩く。途中、


「それで私たち、何をしたらいいんですか?」


 と聞いてみたけど、先生は、


「まだ待ってくれ。あとでちゃんと説明するよ」


 とはぐらかすだけで何も教えてはもらえなかった。

 あと、どうでもいいけど、すれ違う生徒のうちの何人かがあからさまに目をそらすのは何なんだ。何か負い目があるのか、理由もなく先生が怒るとでも思っているのか。いい加減に先生のイメージアップ作戦が必要かもしれない。猫耳カチューシャつけて授業してもらうとかどうだろう。うん。ないな。


 先生が歩調を緩める。

 生徒会室のルームプレートを見上げてから、なんとなく美咲のほうを見ると、美咲もこっちを向いていて目が合ってしまった。気まずくなってそっと目線を外す。

 美咲と仲良しになった特別な場所ではあるんだけど、まだ懐かしいってほどじゃないから、こうしているだけでもちょっと照れ臭い。


 先生が引き戸を開けて、中の電気をつけてくれる。


「適当に座ってくれ」


 生徒会は今日休みらしい。

 美咲と横並びに座って、机を挟んで先生と向かい合う。

 先生がちらっと引き戸のほうを気にしたから、つられて自分もそっちを向こうとした、その瞬間、


「すまん!」


 と先生が声を張り上げた。机に両手をついて、頭を下げる。

 突然すぎて何が何だかさっぱりだ。

 美咲が言ってくれる。


「えっ……。ええっ? どうしたんですか? いきなり……」


 先生の表情は暗い。


「本当なら、私一人でどうにかできればいいんだろうが、どうしても自信がなくてな……。お前たちを巻き込んでしまうのは、私としても気が引けるところではあるんだ……。申し訳ない……」

「そんなに大変なことなんですか?」

「まぁ、なかなか深刻な問題なんだよ……」


 いつになく弱気な先生の声とその重々しい雰囲気にあてられて、黙ったまま美咲と顔を見合わせる。とはいえ、事情を聞かないと何も言えない。

 先生が話し始めてくれるのを待つ。


「ここ最近のことなんだが、私に悩みを聞いてほしいってやつがいてな。何度か相談に乗ってやってるんだよ。ただ、その相談ってのが恋愛のことでな。好きなやつとどうにかうまくいくようにアドバイスしちゃもらえないかって、そういう話なんだ」


 思わず首をかしげてしまう。それの何が深刻なんだろう。


「別に、よくありそうな話かなって思いますけど……。ねぇ、美咲」


 美咲に振る。すぐに肯定してもらえるかなって思ったけど、美咲は難しい顔で考え込んでいた。


「美咲?」

「おかしくない?」

「何が?」

「だって、よりにもよって豊橋先生に恋愛相談なんてさ。そういうの、一番ダメっぽいのに……」


 ふむふむ、言われてみれば確かに……、って、こら!


「ちょっ、美咲っ。そういうこと言わないっ……」


 小声で注意するけど、美咲は何が問題だったのかさえよくわかっていないようで、何のこと、とでも言いたそうにぽかんとしていた。

 ただの率直な感想なんだろうけど、いくら先生が男勝りな性格で結婚できるかどうかも怪しそうだからって、そういうことを全然気にしていないわけがない。


 案の定、先生は美咲の一言で相当な精神的ダメージを受けてしまったようで、魂が抜けちゃったみたいにしょんぼりとうなだれていた。

 美咲自身にまったく悪意がないのが余計に攻撃力を上げている気がする。

 しばらくして、先生が咳払いした。


「とにかく、私だけだとどうにもできそうにないんで、お前たち二人に協力してもらいたいってわけだ」


 美咲はまだ私に注意されたことがいまいち納得できていない様子で、んんー、と首をひねっていた。

 悪いけど、ちょっとだけ美咲には静かにしていてもらおう。


「話はわかりましたけど、でも、どうして私たちなんですか? そういうことなら、もっと経験豊富な人に聞いたほうがいいように思いますけど……」

「経験豊富な人間か……。残念だけど、私には心当たりがないな」

「そうですか? 美術の花岡先生とか適任っぽい気がしますけど」


 この学校で美人教師っていったら花岡先生だ。男子からの人気も高い。


「花岡先生か……。ジャンルが違うのは別にどうでもいいのか?」

「ジャンル? 大人の恋愛と子供の恋愛ってことですか?」

「あ、いや……、いずれにしても、まずはお前たちに協力してほしいんだよ。あとで花岡先生に相談するとしてもな」


 腕組みして考える。

 うーん……。恋愛相談か……。ちょっと気が引けるなぁ。役に立てるとも思わないし。でも先生が協力を求めてきてるってことは、相談者本人か、あるいは相談者の意中の人が一年三組の誰かってことなんだろう。知り合いが悩んでいるなら助けになりたいし、何より先生には大恩がある。恩返しできるなら、いい機会だ。


「私たちじゃ全然役に立たないかもですけど、それでもいいですか?」

「いいのか?」

「はい。美咲も、大丈夫だよね?」


 美咲はすぐに頷いてくれる。


「うん。私にできることがあるなら。自信は、ないですけど……」

「待った」


 先生は手のひらを見せて話を中断させる。それから、真剣なまなざしでにらむみたいにこっちを見ながら言葉をつなぐ。


「これ以上詳しい話を聞くってことは、もうその時点で、そいつの悩みをお前たちも一緒になって抱えてやるってことだ。引き返せなくなってからでは、どうにもしてやれないぞ。それでもいいんだな?」


 そんなふうに念押しされると少し怖い。

 そりゃあ、自分から厄介事に首を突っ込むなんて嫌だなって気持ちはなくもないけど……。


「どうしてそんな引き止めるみたいなこと……。先生、私たちに手伝わせたくて話してるんじゃないんですか?」

「それはまぁ、そうなんだが……」


 何か変だ。先生は私たちにこの話を断ってほしいんだろうか。それとも何か後ろめたいことがあるのか。

 いずれにしても、いつだって頼りになる先生がへっぴり腰になっちゃうくらいには面倒な話ってことだけは確実っぽい。

 それほどの難題なら……。

 美咲が言う。


「こういうことって、興味本位とか、軽い気持ちで引き受けちゃダメなんだろうなって、私、それはなんとなくわかります。ですけど、本当に困っている人がいるんだったら、それで私たちに何かできることがあるんだったら、力になりたいです。その人のためにも、先生のためにも、私自身のためにも」


 美咲の言うとおりだ。大ごとなんだったら、なおのこと先生一人に押しつけてなんていられない。


「私も、大丈夫です」


 先生は微笑んで息をつく。


「そうか……。ありがとうな、二人とも」


 だけど安堵の表情は一呼吸のうちに消して、またすぐに鋭い目つきに戻ってしまう。それから、


「もういいぞ。入ってこい」


 と部屋の外、引き戸のほうに声を張った。

 引き戸のすりガラスに濃い人影がうつる。

 んん? えっ? 意味不明だ。理解が追いつかなくて言葉も出ない。

 引き戸が開いて、うつむきがちに誰かが入ってくる。男子の制服。知ってる顔だ。

 美咲が名前を呼ぶ。


「赤居君?」


 赤居太郎。同じクラスの男子だ。

 おそらくは、話し合いの始めからずっと引き戸の向こうで息を潜めていたんだろう。たぶんだけど先生は赤居に、私と美咲が信用するに足る人間なんだってことを示したかったんだ。悩みを打ち明けてもいい相手なんだって安心させるために。試されたみたいでいい気はしないけど、効率的な手段なんだってことは理解できる。


「ありがとうね。日崎さん、土谷さん。よろしくお願いします……」


 丁寧にお辞儀をした赤居と全然目線が合わない。普段からそんなに堂々としているような子じゃないけど、それでも今はありえないくらいに緊張しているんだろう。ものすごく目が泳いでいる。

 がたっ、と椅子を引いて先生が立ち上がる。


「赤居。あとはお前から説明しろ」


 先生は赤居の肩を軽く叩くと、こっちに体を向ける。


「私はいったん職員室に戻るけど、何かあれば呼んでくれ」

「えっ……。先生、行っちゃうんですか?」


 美咲の問いかけには沈黙で答えて、先生は力のこもった声で言う。


「日崎。土谷。これは本当に難しい問題だ。だから、今日、今すぐに何か答えを出せとか、問題を解決しろとか、そんな無茶を言うつもりはない。とにかく、まずはしっかりと赤居の悩みを聞いてやってくれ。今日はそれだけで十分だ。いいな?」


 気迫に押されて頷くしかない。


「わかりました……」

「迷惑かけるけど、よろしく頼む……」


 背を向けたまま、先生は部屋を出ていく。

 何なんだろう、今の不安げな言い方……。ずっと元気がなさそうな感じ……。すごく引っかかる。


 だってさ、恋愛相談でしょ?

 複雑だとしたって、片思いとか三角関係とか、そういうのでしょ?

 そりゃあ、悩みの大きい小さいなんて他人に計れるわけないんだし、そういうのがめちゃくちゃつらくて耐えられないんだっていう人がいるのはわかるよ、わかるけどさ……。でもだからって、協力が必要だとか、引き返せなくなるだとか、そんなにピリつくようなことなんてある?

 まぁいいや。赤居から話を聞けば全部はっきりするでしょ。

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