第70話 豊橋先生

 さんざんひとりでしゃべっていたくせに、それから五分と経たないうちに後部座席のバカはすっかり静かになっていた。

 よく聞くと寝息が聞こえてくる。

 昨日の夜、というよりも今朝のことで寝たりなかったのかもしれない。

 静かになった車内で、気まずさから目線はずっとやや左に固定していたけど、そっと深呼吸して、隣に向かってしゃべる。


「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」

「ん? どうした?」

「どうして、こいつだったんですか?」


 先生は、すぐには答えなかった。

 一度ルームミラーに目をやって、おそらくは、月坂がぐっすり眠っていることを確認して、少し抑えた声で言う。


「そうだな……。私としては、本当は土谷に協力してもらいたかったんだよ。クラスじゃあの子が一番お前のことを気にかけていたからな。でも、私が話を持ちかけるよりも前に、あの子は心を砕かれてた」


 あ……。土谷さん。家までノートを持ってきてくれた女の子だ。

 あのときはほんと、申し訳ないことしたよなぁ……。

 先生は言葉を続ける。


「まぁ、お前相手に理詰めじゃ説得は難しいだろうと思っていたから、正義感と感情で正面からぶつかっていけるこいつを選んだってだけだよ。これ以上言葉で説明しろと言われると苦しいけどな。とにかく信用できると思ったんだ。実際いいやつだろ?」

「そうですね……。こういうのって理屈じゃないのかもしれませんね……。だから私もバカみたいに、なんとなくで中学の話しちゃったんだと思います」

「ええっ? あ、あっ……。本当か? 中学の話、したのか?」

「驚きすぎですよ。そっちがしろって言ったんじゃないですか」

「それは……、まぁ、そうだが……。んん……。それで、何て言ってたんだ、こいつは」

「お前の好きにすればいいって。学校、辞めたかったら辞めろって、言ってくれました」

「ああー……。まったく……。この役立たずが……」


 先生はため息まじりにルームミラーをにらみつける。

 思ったとおりの反応だ。

 やはり先生のもくろみとしては、私が月坂と仲良くなることで、学校に復帰しやすいように環境を整えてやろう、ということだったに違いない。


 あるいは月坂なら、俺が力になるから一緒に学校行こうぜ、とか、そんなような言葉で引き止めてくれるだろうという算段だったのかも。


 けれども、あまりに細かい指示を出してしまっては、月坂の言葉が嘘くさくなりかねないし、それを私が見透かすこともありうると想定して、あえて月坂を自由にさせていたのだろう。


 でも、計算高いこの人のことだ。

 月坂の出方次第では、思惑とは真逆の結果になりかねないと、ちょっとくらいは考えていたはずだ。


 それでも私なら……、ううん違った、昨日までの私なら、自分から学校を辞めるとは言わないだろう、という強い期待をかけてくれていたのかもしれないけど。

 隣で、苦々しい顔でいる先生を見てちょっぴり嬉しくなってしまう。


「ちょっとカメラの話になっちゃうんですけど、いいですか?」

「私は詳しくないぞ?」

「大丈夫です。勝手にしゃべりますから」

「そうか。わかった」

「たとえば、すごくきれいな花が咲いてるとするじゃないですか。その花を写真に撮るときって、何ていうか、私みたいに、ちょっとこだわりたい人だと、すぐに撮影に入るんじゃなくて、まずはその花をしっかり観察するんです。どんな写真にしたいのかイメージしながら、花の周りをぐるぐる歩いてみたり、近寄ったり離れたり、全体を撮ったほうがいいかなとか、花びらのアップにしようかなとか、そんな感じで……。だけど私は、今までずっと、ここから撮りなさいって命令されて、用意された椅子に座らされて、そこから一歩も動かないまま、考えもなしに意味もなくシャッターを切ってたんだと思うんです。本当は誰に何を言われたわけでもないのに……。こうしなきゃいけない、こうじゃなきゃダメなんだって、勝手に思い込んで……」


 そうなんだよね……。視点を変えれば発見があるって、先輩から教わっていたはずなのにな……。知識としてはわかっていたつもりだったけど、全然だったなぁ……。


「私、学校って、絶対に行かなくちゃいけないとこなんだって思ってたんです。それが正解で、常識で、普通で、みんなそうしてるから、だから自分もそうじゃなきゃいけないのにって、でも、そんな当たり前のこともできなくて、情けなくて、お父さんとお母さんにも申し訳なくて、自分は落ちこぼれなんだって、ずっとずっと……。そんなことばっかり気にして、自分はどうしたいとか、こんなことできたらいいなとか、そういうの、全然考えられてなかったんです。本当は、それが一番大事なことなのに。宮火のせいにして、先生たちのせいにして、今さらもうどうしようもないことばっかり、うだうだ、うだうだ、いじけることしかできなくて……。だからこのバカに、お前はこの先どうしたいんだ、って聞かれて、ほんとはもっとカメラ触ってたいって話したら、それいいじゃんって言ってもらえて、プロになれよって言ってもらえて……。それでそのとき、何だかすごく気持ちが楽になった気がしたんです。みんなとは違うけど、私はこれでいいのかもって……」


 先生は前を向いたままで、けれども、こっちが話している間、うん、うん、と何度も頷いてくれていた。

 ちらっとこっちを見て、ゆっくり息をつく。


「そうか……。それが、お前が真剣に考えて出した答えなら、これ以上引き止めようとするのは無粋かもしれないな」


 月坂に話を聞いてもらったときも思ったけど、誰かに、真剣に話を聞いてもらえるのって、自分のことを理解してもらえるのって、すごく気持ちいい。心がどんどん軽くなっていくのがわかる。

 私のことなんて、誰もわかっちゃくれないって思ってたのになぁ……。


「豊橋先生」

「んっ? あ……、何だ?」


 シートベルトが窮屈だけど、先生のほうに体を向けて、しっかりと頭を下げる。


「今まで、ずっと失礼な態度ばっかりとって、ひどいこともたくさん言ってしまって、本当にすみませんでした」

「日崎……」

「私のことで、こんなに親身になってくれた先生って、豊橋先生だけだから……。私、本当に嬉しいです。ありがとうございます」

「すまん。悪いけど、今はそのへんにしておいてくれ……。さすがに事故りそうだ……」


 そう言った先生の声は震えていた。

 ハンドルを操作しながら、左手を目もとにもっていく。

 なんとなく、これ以上先生の横顔を見ているのはマナー違反のような気がして、うつむいてシートに座り直す。

 月坂もいいやつだけど、先生だって、すっごくすっごくいい人だ。

 しばらく黙って、先生が落ち着いたのを見計らってから言う。


「先生。私、明日学校行きますね」

「へっ? ん? どっ……、どういうことだ?」

「学校、いつでも辞めていいんだって思ったら、何かちょっと吹っ切れた感じで。じゃあやっぱり、もう少しだけ頑張ってみようかなって、今はそんな気分なんです。とりあえず、明日の一日だけ」


 先生が小さく笑い出す。


「なるほどな……。ふふっ。そうか……」

「あの……、それで……、先生に一つお願いしたいことがあるんですけど……。いいですか?」

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