第67話 月坂の感想

 ずっとしゃべっていた日崎が、話を終わらせて黙る。

 どれだけしゃべっていただろうか。

 広縁のほうを見ると、カーテン越しにうっすらと外の明かりが感じられるようになっていた。

 日の出の時間らしい。


 ムカデ退治のために呼ばれただけのはずなのに。

 それがこんなことになるなんて……。

 きっつー。きっついなー。

 こんな話聞かされて俺にどうしろっつーんだよ。

 何も言えないまま、意味もなくスリッパのはしっこをつまんだり曲げたりしながら、ひっそりと呼吸する。


「ねぇ。あんたまさか寝てないよね?」


 背中越しに言い返す。


「寝てねぇよ」

「ほんと? ちゃんと聞いてた?」

「聞いてた」

「そう……。で、どう?」

「どうって?」

「何か感想。あるでしょ?」

「きつい。あと暗い。笑えないし、全然面白くない」

「そんなんしかたないじゃん。私の話なんだから」

「一つ気になってんだけど、宮火ってやつ、そのあとどうなったんだ?」

「けががよくなってからは、普通に学校行ってたって」

「マジかよ。すげーメンタルだな、そいつ」

「ホント、そこだけは尊敬してもいいかもね」

「これ、豊橋先生は全部知ってんだよな?」

「うん。知ってる」

「それでも学校来いって言ってんのか……。厳しいな……。まぁ、先生らしいけど」


 昨日の面談のときに、先生がやたらと日崎に優しかったのはこれが背景にあったからなんだな……。そりゃあ難しいよな……。


「ねぇ……」


 日崎は言いにくそうに、間を置いてから続ける。


「私、どうしてたらよかったと思う?」


 どうしてたら、か。

 何をどうしていたら、日崎は幸せな中学生時代を過ごせたんだろうか。


 宮火とかいういじめっ子といざこざを起こすことなく、嫌がらせもやめさせて、友達と、先輩と、写真部の活動も続けていられるような、すべてを解決できるような、そんな魔法みたいな最善の方法が、選択が、何かあったんだろうか。


 自分が日崎の立場だったら、どうしていただろうか。

 きっと我慢なんてしていられない。もっと早い段階でブチギレて殴りつけているだろうな。あっという間に退学処分を受けていた可能性もある。


 教室を変えてもらうとか、嫌がらせの現場を録画録音して証拠を集めて、そのうえで教育委員会に相談するとか、警察に通報するとか、少しはほかの方法も思いつくけど、自分がちょっと考えてひらめくようなことなら、どれもこれも日崎なら思いついていたはずだ。


 こうすれば確実に問題を解決できるなんて単純な話じゃない。

 誰に相談したって無意味だったかもしれない。状況を悪化させていたかもしれない。丸く収める方法もあったのかもしれないけど、そんなのただの想像だ。


 もっとこうしていたらよかったんだよ、なんてしたり顔でしゃべるやつがいたら、そいつは絶対にインチキ野郎だ。

 だってそうだろ。じゃあお前が世の中からイジメをなくしてみろよ、って話だ。


 それに、何をしたって日崎が味わった苦しい時間は消せやしないんだ。

 今さら何を言ったって、傷つけるだけだ。

 かける言葉なんて、答えなんて、あるわけない。

 頭がこんがらがりそうだ。


「さあな……」


 さんざん考えてこれしか言えないのか。情けねぇ。


「何それ。それだけ?」

「悪い……。けど、ほかに何言えっつーんだよ。こんなの、信号無視して突っ込んでくる車を避けろって言ってるみたいなもんだろ。お前だけの話じゃないんだし、一人じゃどうしようもねぇよ」

「それは……。まぁ、そうかも……」

「でも、お前が学校来たくないってのはよくわかったよ。いや、本当のとこはよくわかんないけどさ……。あれだろ? PHSってやつなんだろ?」

「えっ?」

「ん? あれ? 違う? 何だったっけ?」


 先生が言ってた気がするけど、忘れた。


「それ、PTSDのこと?」

「あ、うん。たぶんそれ」

「あぁー……。そうなのかもね。てかこっち真剣なのに、いちいちツッコませないでよ」

「ごめん」

「いいけど」

「まぁ、さ。別に、好きにすればいいんじゃねーの? そんだけの理由があったら、もう他人がわーわー言うような話じゃねぇよ」

「うん……」

「そんで、お前はどうしたいんだよ。これから先」

「これから先って?」

「学校、辞めたあと。やりたいこととか何かあんのか?」


 日崎がため息をつく。しばらく黙って、


「もう、死にたいかもね……。どうせゴミみたいな人生だし……」


 と小さく言った。

 振り返って、声を低くして言う。


「おい、日崎。今の一回だけは聞かなかったことにしてやるよ。けど、次またふざけたらマジでぶん殴るからな」

「何であんたがキレてんの?」

「うるせーよ。そんで、本当は、何がしたいんだよ」

「何がしたいんだろうね……。でも、やっぱカメラかな……。あちこち旅行して、もっといろんな写真、撮ってみたい。コンビニとか、どっかファミレスとかでバイトして、お金ができたら写真撮りに行って、またバイトして、みたいな感じでさ。海外とかも行ったりして。そんなのしてみたいかな……」

「いいじゃん。めっちゃ面白そうじゃん、それ」

「そう?」

「うん。何だよ。そんな立派な夢あるんだったら、もう十分だろ。学校なんかいつ辞めたって何も悩むことなくないか?」

「そう……、かな?」

「いや、そうだろ」


 むしろうらやましいくらいだ。


「うん……。うん……。そう、かもね……」


 ふふっ、ふふふっ、と日崎が笑い出す。


「何だよ」

「別に」


 そう言いながら、日崎はまたひとりでくすくす笑う。

 何がそんなに面白いんだか。

 でもよかった。これで多少はましな空気になった気がする。


 日崎が学校を辞めること、先生とおばさんはさぞがっかりするだろう。あと土谷も。けれども何より尊重されるべきは日崎の意思だ。もうガキじゃないんだし。そりゃあ、すさまじい後悔を味わうことになるかもしれない。高校くらいは卒業しとけって、そういう意見もわかる。わかるけど、日崎みたいやつは特別扱いでもいいんじゃないかな。やっぱ大多数の立派な大人たちには理解してもらえないかな。


「絶対になれよな。プロのカメラマン」


 ほんのわずか、後ろで小さく息を吸う音が聞こえる。


「そんなに甘くないんだってば……」

「知るか。やれるだけやるんだよ」

「何それ、偉そうに。じゃああんたはサッカー選手になれるの?」


 笑える。

 どれだけ厳しいか。毎日血反吐を吐くほど努力できるような人間だけが勝ち残れる世界なんだぞ。軽々しくなるなんて言えるかよ。だけど、それじゃカッコつかないよな。夢見てないわけじゃないけどさ……。


「おん……。まぁ、な、なるよ……。たぶん……」

「急に弱気じゃん。人には言っといて」

「だってさ……」

「やれるだけやれ、じゃないの?」

「うん……。あれ? お前、俺のこと応援してくれんの?」

「しない。だってサッカー興味ないし」

「はあ? あのさぁ、お前さぁ……」

「じゃあ握手でもする? それぞれ夢叶えようって。恥ずかしいでしょ」

「別に。恥ずかしくないよ。じゃあ握手しようぜ」

「嫌。あんたの手、触りたくないし」

「ぐうっ……。お前から言ったくせに。むっかつく。マジで」


 あーあ。もう疲れた。ため息しか出ねーよ。

 すっかり気が抜けて大きなあくびをしてしまう。

 そうして何の気なくテーブルのほうに目を向けた、まさにそのときだった。

 細長い、黒い塊がくねくねと畳の上を這って迫ってくる。


「うわうわうわっ! マジかよっ!」

「何っ? 何っ?」

「そこっ! ほらっ! ムカデ!」

「嘘っ! 無理無理無理無理っ!」

「ちょっ! 押すなよ!」

「何とかしてよ! 早くっ!」

「いや、思ってたよりデカいんだよ!」

「知らないしっ! 早くしてよっ!」

「待てよっ! こいつはスリッパじゃきついだろ! 殺虫スプレーとかないと!」

「いいから早くっ! また逃げるからっ!」

「ちょいっ! 待てって! 無理だって!」

「無理とかないから! 早くっ!」

「いやマジでっ! これダメなやつだってぇーっ! あぁーっ!」

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