第55話 限界

 大急ぎで階段を駆け下りて教室へと走る。

 半開きになっていた部室の扉、なくなったリュック、佳奈ちゃんの書き置き、その書き殴ったような筆跡、嫌な予感しかしない。


 体当たりをするみたいにして、力任せに教室の引き戸を開ける。

 ガラガラッ、と鳴り響いた引き戸の音で、教室内にいた十数人のクラスメイトたちが一斉にこっちを見る。

 だけどすぐに全員が顔をそむけた。

 誰も何もしゃべらない。みんな暗い表情で押し黙っている。


 教室の奥、窓際に立っていた宮火と目を合わせる。

 宮火はほんの少し歯をのぞかせて軽く笑っていた。

 何か楽しいことがあって大笑いしたあと、その余韻で、まだちょっと笑顔が残っている、みたいな、ヘラヘラしたすごくムカつく顔だ。


 じっ、と宮火をにらみつける。

 宮火は教室の前のほうへと歩いて、自分の席にどかっと腰を下ろした。

 こっちを見て、まだ薄ら笑いを浮かべている。

 絶対に何か知っているはずだ。問いただしてやる。


 宮火との距離を詰めかけたところで、うっ、うっ、という妙な声に気づいて目線を移す。

 と、教室の後ろ、窓際のすみっこで、女の子が一人、小さく体を丸めてうずくまっていた。


 佳奈ちゃんだ。

 うつむいていたって見間違えるわけない。

 駆け寄って佳奈ちゃんのそばにしゃがむ。


「佳奈ちゃん!」

「あっ……。綾、ちゃん……」


 顔を上げた佳奈ちゃんの目は真っ赤に充血していた。

 その瞬間にも、溢れ出た涙がしずくになって落ちる。

 髪は乱れて、ブラウスにはたくさんしわが寄っていて、そのところどころには茶色っぽい汚れがついていた。


 疑うまでもない。宮火が佳奈ちゃんに何かしたんだ。

 佳奈ちゃんは手に何か持っていて、それをこっちに見せてくる。


 私のお弁当箱だ。

 今朝も、早起きした母がお弁当の用意をしてくれていたのを見ている。

 だけど、そこに詰められていたはずのご飯とおかずがない。空っぽだ。


「綾ちゃん……。ごめん……。ごめんなさい……。ごめん、なさい……」


 佳奈ちゃんが震えた声で何度も謝る。

 立ち上がって、まさかと思いつつも近くに置いてあったゴミ箱をのぞき込む。

 最悪だ……。


 そこには、母がつくってくれたお弁当の中身がすべて捨てられていた。

 ご飯と、厚焼き玉子と、ブロッコリーと、焼き鮭と、ウインナーと、きんぴらごぼう、それが全部、ゴミにまみれてしまっている。

 もう、とても食べられそうにはない。


 振り返って宮火を見る。

 宮火は、くっくっくっ、と喉を鳴らして笑っていた。

 完全に思考が止まる。何も考えられない。

 いらだち、嫌悪、憎しみ、怒り、頭をめぐったのはそれだけだった。


 宮火に向かって歩き出す。

 一歩ずつ、大股で歩きながら、すうっと息を吸って、止める。

 踏み出しと同時に宮火の顔面に拳を叩きつける。

 ごちっ、と鈍い音が響く。


 宮火は座っていた椅子ごとひっくり返って、がたんっ、と床に崩れ落ちた。

 距離を詰めて、起き上がろうとしていた宮火の顔を、踏みつけるみたいにして蹴る。


 宮火はとっさに腕を寄せて顔をかばったけれど、代わりに、ごんっ、と床に頭を打ちつけた。

 うめくだけの宮火の真横に立って、右足を浮かせて、宮火の顔面に向けて一気に振り下ろす。


「うぐうっ……」


 宮火が低い声であえぐ。

 もう一度右足を上げて、思いきり顔を踏みつける。

 もう一度。さらにもう一度。連続して、間をあけずに繰り返す。

 死ねよ。

 殺してやるから。

 潰れて死ね。

 クソ女。死ね。死ね! 死ねっ!

 十回か、おそらくはそれ以上の回数、繰り返し、休みなく、連続で宮火の顔面を踏みつけたところで、息が続かなくなってやめた。

 結構疲れる。酸欠になりそう。

 はぁ、はぁ、と肩を揺らして呼吸する。


 宮火はもう、ぴくりとも動かなくなっていた。

 鼻血と、口からも血が出ていて、その顔は赤黒色にまみれている。

 今のこの顔だけ見せられたら、すぐに宮火だとは気づけなさそうだ。


 うひひっ。うける。

 本当に死んだかも。

 いや、それでいいんだよ。

 こんなやつ、いないほうがいいんだから。

 どうせ死んでるなら、もうちょっと蹴っとこうかな。面白いし。

 足を振り上げる。


「綾ちゃんっ!」


 後ろから佳奈ちゃんの声がする。うわずった声。

 そういえば、さっきから何度か続けて呼ばれていたような気がする。

 よく聞こえなかったけど。


「綾ちゃんっ!」


 振り返ると、佳奈ちゃんはようやく叫ぶのをやめた。

 佳奈ちゃんは苦しそうに、大きく息をしながら、おびえたような、何かとても不安そうな表情でこっちを見ていた。

 えっと……。何だっけ。私、何、してたんだっけ。


 足もとで、寝転がって動かない宮火を見下ろす。

 あぁ、そうだ……。そうだった……。

 これ……。私が、やったんだ……。

 周りを見ると、クラスの子たちは全員、一様に青ざめた顔をしていた。

 へたり込んで泣いている子もいれば、


「救急車っ!」


 とか、


「早く保健室っ! 誰かっ!」


 とか、そんなようなことをわめいている子もいる。

 やばい。

 やばい、やばい、やばい。どうしよう……。

 とにかくここにいちゃダメだ。早く逃げなきゃ。早くっ。

 誰かの机に太ももをぶつけてつまずきそうになりながらも、慌てて教室から逃げ出す。

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