第36話 眠気

 ドンドンドンッ、と突然響いてきた音にはっと目を覚ます。


「ねぇ! ちょっと出てきて! ねぇって! 早く!」


 日崎の声だ。

 どういうわけだか、引き戸を殴りまくっているらしい。

 布団から跳ね起きて、浴衣にからみつくタオルケットを振りほどきながら引き戸を開ける。

 廊下を照らす蛍光灯がまぶしい。


「来て!」


 日崎の顔は明らかに青ざめていた。


「何だよっ! 火事かっ?」

「違う! いいからこっち!」


 とにかくヤバいらしい。

 寝起きのぼーっとした頭で、走る日崎のあとをついていく。引き戸の開け放たれた部屋の前で止まると、その場から部屋の中を指差す。


「この中……」


 おびえた様子の日崎にあてられて、何か得体の知れない恐怖を感じながらも、恐る恐る部屋の中をのぞく。

 八畳の和室と広縁がある部屋だ。

 中央には布団が敷いてあって、すみにはテレビがあって、テーブルがあって、その上には日崎の黒いカメラケースがあって……。

 それくらいだ。何もおかしなところはない。

 後ろの日崎に振り返る。


「何があったんだよ?」

「ム……、ムカデ……」

「ムカデ?」

「ムカデ。いたの」

「どこに?」

「テレビのとこ」


 もう一度部屋をのぞいてテレビの周りを見る。ここからだと少し遠いけど、何もいない。もう逃げちゃったんだろう。

 すっかり冷静になって日崎を見る。


「お前さ。ムカデ出ただけで俺、起こしにきたの?」

「ムカデ……、出た、だけ? 出ただけって言った?」

「どっかかまれたのか?」

「かまれては、ないけど……」

「じゃあやっぱり出ただけなんじゃねぇかよ」

「出ただけって! それが大問題なんじゃん!」

「そんな騒ぐことかよ」

「騒ぐでしょ! ムカデいたんだって! そこにっ!」

「わかったってもう、うるせぇな。それで俺にどうしろっつーんだよ」

「何とかしてよ」

「ムカデ殺せって?」

「できるの?」


 日崎のうるんだ目にため息をつく。よほど苦手らしい。

 何だよ。かわいいって思っちゃうだろ。こういうときはやたらと女の子っぽくしやがって。

 とりあえず、何か武器を持たないと。


「そのスリッパ一個くれ」


 日崎がはいているスリッパを指差す。

 日崎は嫌そうな顔をしながらも、しかたなさそうに左足のスリッパを脱いだ。

 スリッパを構えて部屋へと入る。

 慎重に、警戒しながらテレビの周りをぐるっと見たけど、何も見つからなかった。ほこり一つない。


「いない」

「いるって」


 日崎は部屋の外から言ってくる。


「俺が今、見て、いないっつってんだよ」

「いるって。どっかにいる」


 そりゃあお前が見たんだったら、どっかにはいるんだろうよ。

 テレビの周辺だけじゃなく、広縁のほうだったり、テーブルや布団の下だったり、何かのものかげに隠れてはいないかと、怪しい場所は一通り確認してみる。うん。いない。


「いない」

「いるって」

「つーかお前。いつまでそこに立ってんだよ」

「いいでしょ、別に。早くムカデ見つけてよ」

「いねぇんだからどうしようもねぇだろ」

「いるってば」

「もうどっか行ったんじゃねぇの。逃げたんだよ」

「絶対いる。気配するし」

「気配って……。お前、何の達人だよ」


 くくくっ、と笑ってしまう。

 ところが日崎は冗談で言ったつもりはないようで、真剣な顔を崩さない。

 あきれつつ、壁にかけられた時計を見上げる。時刻は朝の四時だ。


「俺。もう戻るからな」

「はあ? 何で?」

「何で? まだ四時だぜ? 眠いんだよ。もう一回寝る」

「ムカデは?」

「もうほっとけよ。どうせ何もしてこねぇって」

「無理。絶対無理」

「あぁー、もう。じゃあお前、俺のとこ行けよ。俺がこの部屋使うから」

「部屋、代わってくれんの?」

「それしかねぇだろ」

「あ、待って……。でも、それであんたがムカデにかまれたら、どうすんの?」

「どうって?」

「私のせいになるじゃん」

「別にお前のせいになんかしねぇよ」

「嫌。私が気にする」

「じゃあどうしろっつーんだよ」

「ムカデ始末してよ。そしたら安心できるから」

「そりゃあ、そのへん歩いてたら潰せるけどよ。いねぇじゃんかよ」


 日崎が黙り込む。

 やっとあきらめてくれたか、と思ったけどそうではないらしく、何か考えるみたいに難しそうな顔でうつむく。


「ねぇ。その布団、はしに寄せて」

「何で?」

「いいから」


 何のつもりだよ、と息を吐いてから布団を三つ折りにして壁際に押す。


「あっちの椅子持ってきて」

「あれを?」

「そう」


 広縁の椅子を持ち上げる。


「真ん中に置いて」


 指示どおり椅子を部屋の真ん中まで運ぶ。


「これでいいか?」

「ムカデ、いる?」


 部屋を見回す。


「いない」


 日崎は左右に首を振りながら、そーっと、そーっと、部屋に入ると、引き戸を閉めて、大急ぎで椅子に飛び乗った。そこで体育座りして固まる。


「何してんだよ、お前」

「私こっち見てるから、あんたそっち見てて」


 何のこっちゃ、としばらく頭をひねって一つ答えをひらめく。


「ああー。俺とお前で背中合わせになってムカデが出てくんの見張るのか」

「そう」

「マジかよ……。出てこなかったらどうすんだよ」

「絶対出てくる。いるんだから、どっかに」

「その自信が謎なんだよなぁ」

「こっち見てないで、ちゃんと見張ってよ」

「本気で言ってんのかよ……。うわー、めんどくせー、マジで」


 畳の上にあぐらをかいて座る。

 一分。二分。三分経過。


「出てこねぇじゃん」

「そんなすぐ出てくるわけないでしょ」


 さらに三分。異常なし。

 あ、カップ麺食べたくなってきた。そういやここ最近は全然食べてなかった気がする。前、いつ食べたっけ?


「なぁ。飽きてきた」

「飽きるとかないから」

「テレビつけてもいいか?」

「バカ? ムカデ探せって言ってんじゃん」


 さらに五分経過、時間だけが過ぎていく。あー、眠い。

 あぐらをかいたまま、腕を伸ばして軽くストレッチする。


「お前さ。何で学校来ねーの?」

「何?」

「別に。なんとなく」

「嫌だから」

「それ言うんだったら、俺だってそんなに好きなわけじゃないけどさ。でもお前、最初のほうは普通に来てたろ。逆にあれ、何だったんだよ」

「そんなに聞きたい? どうでもいいでしょ」

「まぁ、どうでもいいけどさ」


 会話が終わる。

 すごく静かだ。冷房の音以外何も聞こえない。

 暇だ。眠い。つまんねぇ。勝手なイメージだけど、どこかの寺で修行させられてるみたいだ。

 あくびが出る。これ、あと何分待ちゃあいいんだ。きつすぎだろ。


「あのさ。やっぱ俺、自分の部屋戻っていいか?」

「待ってよ。何?」

「眠ぃんだよ。いきなり叩き起こされてさ。ムカデは出てこねぇし、しゃべることもないし、くっそ暇なのに起きとけ、なんて言われても無理だぜ」


 日崎は何も言い返してこない。

 そのまま二十秒くらい押し黙ったままでいる日崎に、見切りをつけて立ち上がる。


「戻るからな」

「待って」


 間を置いて、日崎が言葉を付け足す。


「話、したらいいわけ?」

「話?」

「何で学校行かないのかって話」

「あー。まぁ、ちょっとくらいは気になるかもな」

「ていうか、本当に豊橋から聞いてないの?」

「豊橋先生、な。うん。聞いてない、何も」


 日崎は、はあーっ、と大きく息をついた。

 それがため息だったのか深呼吸だったのかはよくわからないけど、そういうことなら、と腰を落としてあぐらをかく。

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