第22話 二千円
駅前まで戻ると、日崎はバス停のとこの木製ベンチに座っていた。
さすがに相当落ち込んでいるみたいで、背中を丸くして、うつむいたまま全然動かない。
まさかあの日崎が泣いているわけはないだろうけど……。
気を遣ってそーっと近づく。
「なぁ。これ、お前の?」
駐車場で拾った、ナイロン製の黒いポーチを差し出す。
日崎はそっと顔を上げると、短く息を吸い込んで目を見張った。
思ったとおりだったらしい。
「悪い。これだけしか取り返せなかった」
「うん……」
日崎はか細く返事をすると、両手でポーチを受け取る。
「それ、さ。何なんだ?」
「カメラケース」
「えっ? それ、中、カメラか? やっばいぞ……。結構高いとこから落ちたんだよ、それ」
「どれくらい? どれくらいの高さだった?」
日崎が真剣な顔で聞いてくる。
「二メートルくらいだった、と思う、けど……」
日崎はケースのファスナーを開くと、大事そうにカメラを持ち上げる。
カメラの知識なんてほとんどないからよくわからないけど、日崎のそれは、プロのカメラマンも使っていそうな本格的なカメラに思えた。
きっとすごく高価なものなんだろう。五万か、十万か、それ以上かも……。
「レンズとか、割れたりしてないか?」
鑑定士みたいにして、手もとで少しずつ角度を変えてみたり、ファインダーをのぞいたりして、カメラの状態を確認していく日崎の作業を見守る。
「電源も入るし、データも大丈夫……。たぶん何ともないと思う……」
「マジか。よかった……」
日崎はゆっくりとした手つきでカメラをケースに片づけていく。
なんとなく目線を動かすと、ベンチの真ん中にロゴマークの入ったコンビニの袋が置かれていた。
ちゃんと預かっていてくれたらしい。
「そういやお前、けがは?」
「これ? たいしたことない」
日崎が肘を曲げて傷を見せてくれる。
何本も赤いすじができてしまってはいるものの、血も汚れもきれいに洗い流されていて、今はもう出血もおさまっている。でも、早いとこガーゼとか包帯で手当てくらいはしないと。
「にしても、警察まだ来ないのかよ。遅すぎだろ」
首を回してパトカーを探す。
「何言ってんの?」
「え? お前。通報したんだろ?」
「何か勘違いしてるみたいだけど、私、別に誰にも何にも言ってないから」
「えっ? えっ? 全然意味わからん。どういうこと?」
「警察なんて呼んだらおおごとになるでしょ。そういうの嫌だから、通報してないって言ったの」
「ほーん……。わかった。お前、実はバカだろ」
「かもね」
日崎の素っ気ない態度に一気に怒りがわき上がる。
「ふざけろよ! バッグ取られてんだぞ! 犯人捕まえてもらわなかったら戻ってこねぇだろうが!」
「だからそれでいいんだって」
「いいわけあるか! けがまでさせられて! お前、ムカつかねぇのかよ!」
「それは、そうだけど……。でもだからって、通報したところで警察が動いてくれると思う?」
「そりゃあちゃんと捜査してくれるだろ。事件なんだし」
「絶対ない。ひったくりなんて、こんなどうでもいいようなちっちゃな事件、形だけ事情聴取やって終わりに決まってるでしょ。だから、そんなの時間の無駄だって言ってんの」
「そんなわけ……、そう、なのか?」
「そう。残念だけど。ひったくりは逃げられたらおしまい」
「マジかよ……。でも、にしたって通報はしとかないとダメだろ」
「いいってば」
「お前。スマホは? あと財布とか、金、どんくらい入れてた?」
「スマホもバッグん中。お金は、一万ちょっとだったと思うけど」
「きっついな……。やっぱ通報しようぜ」
「バッグ盗まれた本人がいいって言ってんだからいいでしょ」
「ダメだって」
「いい」
「ダメだ」
日崎が顔をしかめる。
「あのさ。何であんたがそんなに必死になんの?」
「あいつ、ナイフ持ってたんだよ。なんともなかったけど、マジで殺されるんじゃねぇかって思った」
「そ……。でも、それが何?」
「あんなのただの悪もんだ。悪もんが勝って終わり、なんてのは許されねぇんだよ」
「はぁ? 誰が許さないの?」
「全世界が許さねぇよ。当たり前だろ」
「ほんっとバカがうつりそう……」
「じゃあ何のために法律があって、何のために警察がいるんだよ」
「話が飛躍しすぎ。私は、世の中どうしようもないこともあるって言ってるだけ」
「何でそんな簡単にあきらめるんだよ。そっちのほうがよっぽどバカくせぇだろうが。とにかく通報だよ、通報。俺のスマホ貸してやるから。ちゃんと言えって」
スマホを日崎に突き出す。
ところが日崎は、スマホには目もくれないでこっちをにらんでくる。
それでもかたくなにスマホを引っ込めずにいると、日崎が大きくため息をついた。
「じゃあもうあんた一人で勝手にやってよ。そのかわり、私のことは何も言わないで。バッグもあんたのってことにしといてよね。それなら私も文句はないから」
「んなことできるか! お前の話だろ!」
「せいぜい頑張って。結果は見えてるけど」
日崎はそう言いながら立ち上がると、コンビニがあるほうに向かって歩き出す。
その背中をにらむ。
「おい。話終わってねぇぞ。待てよ、日崎」
日崎は何も聞こえないふりで歩き続ける。
「待てっつってんだよ! 日崎っ!」
回り込んで強引に道をふさぐ。
「何のつもり? もうほっといてよ」
「どうすんだよ」
「何も。家に帰るだけ」
「帰る? どうやって?」
「普通に歩いて帰るつもりだけど」
「バカじゃねぇの? 歩いて帰れる距離じゃねぇよ」
「そんなことないでしょ。ずっと歩いてれば帰れると思うけど」
「何時間歩くんだよ」
「さあね。三時間か四時間くらいじゃないの」
「そんな話してねぇよ」
「あんたが言い出したんじゃん」
「お前。どっか行きたいとこあったんだろ? バス乗りたかったんじゃねぇのかよ」
「あんたに関係ないでしょ。いい加減どいてよ。邪魔」
「わかった。もういい……。お前が本当に家まで歩いて帰りたいんだったらそうしろよ。でも……」
ポケットから財布を出して言葉をつなげる。
「ここに四千円ある。何しに来たのか知らねぇけど、これで足りるんだったら好きに使えよ」
日崎が眉間のしわをぐっと深くする。
「それ、本気で言ってんの?」
「すっげぇ本気で言ってる」
日崎は五秒くらい黙って、それから、静かに息をついた。
「二千円でいい。それだけあれば足りるから」
「うん。じゃあ、二千円な」
千円札を二枚抜いて日崎に差し出す。
多少は申し訳ないと思っているのか、日崎は伏し目がちに、甘く下唇をかみながら二千円を受け取った。
「やっと素直になったな」
思わず声が軽くなってしまう。
さんざんいろんなことを言われ続けたせいで、たった一つ提案を聞いてもらえただけなのに、そんなことで、すごく嬉しい気持ちになってしまっていた。
財布をポケットに戻して目を上げる。
と、日崎が飢えた猛獣みたいな目でこっちをにらんでいた。
「何だよ。目がこえーんだよ」
「あくまでも一時的に借りるだけなんだから、この二千円で上に立てたと思わないでよ」
「くっだらねぇ。いちいちそんなの考えねぇよ」
「なら、いいけど」
ふと道路の先に目をやると、白っぽい車体に水色のラインの入ったバスがもう近くにまで来ていた。
日崎もそれに気づいたようで、バス停へと引き返す。
日崎の横顔は相変わらず不機嫌そうだったけど、入学式の次の日、あの朝に見た顔から比べると、今はほんのちょっぴり明るい表情になっていたように見えた。
気のせいかもしれないけど。
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