第21話 格闘
「止まれよっ! おいっ!」
男はこっちの声を無視して、日崎のバッグをわきに抱えて逃げていく。
腕がうまく振れないぶん思うようにスピードには乗れていないだろうに、うっとうしいことになかなか速い。
それでも、バス停前では四十メートル近くあった開きが、三十、二十、と徐々に狭まってきていた。速いのはこっちだ。
男はしきりに振り返って距離を測る。向こうだって、こいつからは逃げきれやしないってもう気づいてるはずだ。
男が道を外れて駐車場へと入っていく。
行き止まりだ。
先にはフェンスしかない。これで観念するだろ。
ところが男は迷うこともなくフェンスに突進していく。ガシャン、と音を鳴らしてフェンスに張りつくと、バッグを抱えたまま、器用に体を曲げてよじ登り始めた。
息を止めて加速して、その勢いのまま後ろから男に飛びかかる。
男の腰に腕を巻きつけてどうにか引きはがそうとするけど、男はしぶとくフェンスにしがみついて離れない。
ぐっ、ぐっ、と反動をつけて体を揺らす。
三回目で、ふっ、と力が抜けた。
ふわりと宙に浮く嫌な感覚に身震いする。
「ふげえっ!」
背中から覆いかぶさってきた男に押し潰されて、さらに、ごちんっ、とアスファルトに頭を打ちつけてしまった。
後頭部を押さえて身をよじる。あまりの痛さに声も出ない。
きつく閉じたまぶたの上から影がかかるのを感じる。薄目を開けると、逆光に立つ男が荒れた息づかいでこっちを見下ろしていた。
恐ろしくなってすぐさま跳ね起きる。あと、アスファルトがくそ熱い。
ダッシュのせいで上がった息を整えつつ、正面をきって男とにらみ合う。
男の手にはまだ、日崎の白いバッグが握られていた。
「返せよ、それ」
男は何も言い返してこない。
「返せっつってんだよ、カス野郎」
本当は泣きそうなほどびびりながらも、声だけは低くして言う。足の震えが止まらない。
こっちの精いっぱいの威嚇に男はひるむ様子もなくて、ズボンのポケットから何か取り出したかと思うと、素早く腕を振った。
男の手もとで、銀色の光がまぶしく輝く。と同時に、カチンッ、と金属音が響いた。
飛び出しナイフだ。
イカレすぎだろ、おい。
男が右腕を伸ばしてナイフを構える。
刃渡りは十センチか十五センチくらいの短いものに見えるけど、こうしてナイフを向けられると、その威圧感はすさまじい。
ナイフと男の顔を交互に見比べる。けれども野球帽のつばが濃い影をつくっているせいで、その表情も目線もよくわからない。
マジなのか、ただの脅しなのか……。
男は口を半開きにして不気味な呼吸を続ける。
距離は二メートル、いや、二メートル半はある。この間合いなら大丈夫だろ。
互いににらみ合う。
つーかパトカーはいつ来てくれんだよ。サイレンの音も聞こえやしない。周りに助けてくれそうな人もいないし……。
突然、男が腕を振り上げた。
大股に踏み込んでナイフを横ざまに振ってくる。
「うわあーっ!」
と悲鳴を上げてしゃがみ込む、というよりは腰が抜けて後ろにひっくり返ってしまった。
お尻のほかに痛みはない。セーフ。切られちゃいない。
あっぶねえ。
あつっ。アスファルトが熱い。二回目だ。
遠ざかる靴音にはっとして顔を上げると、男はまたフェンスをよじ登っていた。
調子乗りやがって。もう絶対許さん。
フェンスへと駆け寄る。ところが、こっちが近づいたときにはもう、男はフェンスを乗り越えて向こう側の道に下りてしまっていた。
急いでフェンスをよじ登って、てっぺんから飛びおりる。だけども、着地の衝撃で足裏から膝までがじーんとしびれてしまった。
ひょこひょことスキップみたいな走り方で男を追いかける。
大丈夫だ。まだまだ見失うほどの距離じゃない。すぐ追いつける。
男は二十メートルくらい先、電柱のそばまで走って立ち止まった。
何をしているのかと思えば、そこに置かれていたバイクを触っているらしかった。
乗り捨てられたようなバイクで何をするつもりなんだか、と思っているうちに、男はキックペダルを踏んでエンジンをふかすと、そのままバイクにまたがってびゅーんと逃げて行ってしまう。
えっ? んっ? えっ?
走るのも歩くのもやめて、放心状態で男を見送る。
状況がまったく飲み込めない。
何でエンジンかかんの? ていうか何であんなところにバイクが? あと、ノーヘルって違反になるんじゃなかったっけ?
いろいろと考えかけてやめる。
しょうがない。とりあえず帰ろう。日崎のことも気になるし。
フェンス越しに駐車場を見ると、すぐそばにティッシュ箱くらいの大きさの黒いポーチが落ちていた。
もしかすると、男をフェンスから引きはがしたときに、バッグからあの黒いのだけが飛び出したのかもしれない。
一応、日崎に持ってってみるか。
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