第16話 日崎と土谷
その日は朝からなんとなく体がだるくて、昼飯を食い終わってすぐ、リビングのソファに寝転がってぼーっとテレビを見ていた。
しかしながら一時間もそんな調子でいると、鬼の形相をした母さんから、テスト勉強はどうなっているんだ、と責め立てられて、二階の自室に追いやられてしまった。
当然、やる気なんて湧いてくるはずもなく、床にひっくり返って、今度はクッションを枕代わりに昼寝することにした。
そうして気持ちよく眠りかけていたところに、
「もういいってばっ! 帰って!」
と、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。
薄目を開けて、うあー、とうめく。
窓を開けっ放しにしたままだった。これじゃあ寝ていられない。だけどいちいち立ち上がってまで窓を閉める気にはなれなくて、まぁいいや、とまぶたを閉じる。その直後、
「迷惑だって言ってんのっ!」
続けて聞こえてきた大声に、寝てられるか、とやっぱり起きて窓を閉めることにした。
窓を閉めかけたところで少し気になって外をのぞいてみる。
顔を出してすぐ、日崎の家の玄関先で、土谷と日崎が向かい合って立っているのが目についた。
騒いでいたのは日崎だったらしい。
怒鳴られていたのは土谷だ。
見ていると、土谷は何か四角い箱のようなものを日崎に渡そうとしているらしかった。しかし日崎はそれを受け取ろうとはしないまま、何かまた言葉を返す。
険悪な雰囲気で二人が何か話し合っているのはわかっても、その内容まではうまく聞き取れなかった。とくに土谷の声は小さすぎてほとんど聞こえない。
すると突然、日崎が右手を振り上げた。
その手で、土谷が差し出していた箱を上から叩きつける。
乾いた音を響かせて箱が落ちた、と思ったら、箱はいくつかに分かれて地面に散らばった。何かの箱だと思って見ていたのは、箱じゃなくて、何冊かに重なっていたノートらしかった。
「二度と余計なことしないで」
聞き取れたのは、また日崎の声だった。
日崎は土谷を残したまま、一人で家の中へと入っていく。
その間、土谷はうつむいて固まっていた。その場から動こうともしない。あるいは動けないのか。
何がどうなってんだ。意味わかんねぇ。
部屋のドアに体当たりをぶちかまして、階段を駆け下りて、出しっ放しになっていたじいちゃんのサンダルで玄関を飛び出す。
大急ぎで日崎の家の前まで回り込んで、そこでぴたっと足を止める。
土谷はしゃがみ込んでいた。体を小さく丸めて、肩を震わせている。
その弱々しい後ろ姿と泣き声に怖気づいて、そっとしておいたほうがいいのかも、と何秒か迷ってから、意を決して門扉を押し開く。
「土谷。大丈夫?」
振り返りかけた土谷の顔を見ないように、さっと目をそらす。
「月坂君……。何で?」
「あー……。家が隣なんだよ……。そんなことより、日崎に何か言われてたろ。何だったんだよ」
「うん……」
土谷は弱く頷いただけだった。
長い沈黙。
どうしよう。めちゃくちゃ気まずい。
目を伏せた先に散り散りになっていたノートを見つけて、近くの一冊を拾う。表紙には、数学、と書かれたそのノートをためしに開いてみる。
きれいに取られた数学のノートだ。ややこしい図形やら数式やらがいくつも並んでいる。目につきやすいよう、問題の一つにカラーペンで丸がつけられていた。
『豊橋先生がテストに出すかも、だって! 要チェック!』
ほかにも、小さく猫のイラストが描いてあったり、んん? と思うような変なダジャレが書いてあったり、遊び心もあってすごく凝ってる。ちょっと見れば、明らかに日崎のために用意したノートだってわかる。
日崎はこれを余計なことなんて言ったのか。これのどこが余計なことだ。
ほかにも落ちていた別の教科のノートもすべて拾い集めて、まだうずくまったままの土谷にゆっくり歩み寄る。
「土谷……」
突然、土谷はすっと立ち上がると、もうすっかり泣き止んでますよ、とアピールするみたいにして、真っ赤になった目で笑いかけてくる。
強がってるって、丸わかりだ。
差し出したノートを土谷は、
「ありがと」
と礼を言って受け取った。
「それ、日崎に渡したかったんだろ?」
「うん」
「だけど、叩かれたんだよな?」
「うん……」
「何でだよ。おかしいだろ、そんなの。意味わかんねぇよ」
「しかたないよ……。日崎さん、体の調子よくないから、学校来たくても来れないんだよ。それなのに、私が押しつけがましいことしたから……」
「だからって何も叩くことないだろ」
「ううん……。私がおせっかいだったんだよ」
「そんなわけあるか。とにかく、もう一回日崎としゃべるぞ。今度は俺からも言ってやるから」
闘志満々で玄関扉に向かって歩き出す。カチコミじゃいっ。
「待って!」
土谷の声に振り返る。
「月坂君。ごめん……。私、もう帰る……」
「何で! 無理やりでも渡すんだよ! そうしなきゃダメだ!」
「いいよ……」
「よくねーよ。だったら何で泣いてたんだよ。そのノート、あいつのためにつくったんだろ」
「だけど、私……」
土谷は言葉を詰まらせながら苦しそうに言う。
「これ以上、日崎さんに嫌われたくない……」
土谷の瞳がきらりと光って、一度はおさまっていたはずの涙がぽろぽろと頬をつたって落ちていく。
眉を寄せて、唇を震わせて、鼻もほっぺたも真っ赤にして、そんな土谷の泣き顔に、ただ息が詰まった。
「ごめんね……」
土谷が背を向けて歩き出す。
まったく頭が回らない。何か言ってやらなきゃ、なぐさめてやりたい、とは思っても、何も言葉にできなかった。
土谷は、歩道にとめていた自転車の、その前かごの中の鞄にノートをしまって、スタンドを上げた。だけどもサドルにはまたがらないままで、のろのろと自転車を押していく。そうして五メートルほど進んだところで立ち止まって、右手を目もとにもっていく。少しして、また歩き出す。
遠ざかる土谷の後ろ姿から、ずっと目が離せなかった。
道の角を曲がって、土谷の姿が見えなくなるまで呆然として見送る。
あとに残ったのは、日崎に対する猛烈な怒りだけだった。
土谷と日崎の間にどんなやりとりがあったのか、詳しいことはわからないけど、土谷が悪いわけがない。悪いのは絶対に日崎のほうだ。
くそっ。何であんなやつが隣に住んでやがんだ。
だんっ、と日崎の家の塀を蹴りつける。
出てけ。この町から。
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