第11話 ずっと後悔してます

 おばさんの案内を受けてリビングへと入る。冷房が効いていて気持ちいい。

 先生に続いてテーブルの椅子に座ると、おばさんが緑茶の入ったガラス製の湯飲みを差し出してくれた。

 ぷかぷか浮いている二個の氷と、透き通った深い緑色が涼しげで美しい。


「どうぞ」

「ありがとうございます。いただきます」


 先生にならって、同じく礼を言ってから湯飲みに口をつける。

 しっかりと冷えたお茶が、さわやかな苦みを残して喉を過ぎていく。うめー。

 おばさんがおぼんを片づけるのを待って、先生が声をかけた。


「綾ちゃん、まだかかりそうですか?」

「そう、ですね……。もう下りてくるとは思うんですけど……」


 ちょうどおばさんの声の後ろで、ぱたっ、ぱたっ、とスリッパで階段を踏む音が聞こえてくる。

 ついさっきにおばさんから、おじさんは仕事で出かけている、という話があったから、この足音は間違いなく日崎が鳴らしているものだ。

 なめやがって。先生を待たせてるってわかってんなら急ぐ素振りくらい見せろよな。


 リビングの扉が開く。

 日崎はすでに不機嫌そうに眉を寄せていた。そのしかめっ面で、まずは先生を、次にこっちを見下ろしてくる。

 こっちからもヤンキーみたいにしてにらみ返していると、日崎はあっさりと先生のほうに目線を戻した。俺の勝ち。


 日崎が先生に言う。


「何の話ですか?」

「落ち着いてしゃべろう。どうぞ、お母さんも」


 手のひらで椅子を指した先生に従って、おばさんがテーブルのそばに寄る。だけど日崎はリビングの入り口に立ったまま、そこから動こうとしない。


「もう話すことなんてないと思いますけど」

「少しそこに座ってくれるくらいいいだろう。頼むよ」


 すさまじい違和感だ。学校で見る普段の先生とは似ても似つかない。

 今の日崎の態度なら、その口のきき方は何だ、と怒鳴り散らされていてもおかしくはない。異様だ。どう考えても甘すぎる。

 おばさんの前、ということで先生も気を遣っているのだろうけど、それにしたってと思わずにはいられない。


「綾。わかってるでしょ」


 おばさんに諭されて、日崎はうんざりしたような顔をつくってから、ようやく椅子を引いた。

 それを見届けて、おばさんも席に着く。

 先生が日崎に向かって話し始める。


「先週、学校行きますって言ってくれたよな」


 日崎は先生のほうを見ていない。顔は少し横に向けたまま、素っ気なく返す。


「それが何ですか?」

「どうして来てくれなかったんだ? 待ってたんだぞ」

「行きたくなかったからです」

「理由は?」

「理由なんてありません。嫌だから嫌なんです」

「じゃあどうして学校行くって言ってくれたんだ?」

「そう言わないといつまでも帰ってもらえそうになかったから、そう言っただけです」

「嘘だったのか?」

「白々しいですよ。そっちだって本気にはしてなかったくせに」

「そんなわけないだろう」

「私にはそういうふうに見えてましたけど」


 日崎は悪びれる様子もなく淡々としゃべる。

 おばさんはというと、下を向いて、肩をすぼめて縮こまっていた。

 先生に対して、あるいは俺にも、娘のことで申し訳ないという思いが、表情を隠す垂れ下がった前髪から透けて見えるようだった。

 少し間があいて、今度は日崎のほうから話を切り出す。


「今日だって、本当はただの点数稼ぎですよね?」

「点数稼ぎ?」

「定期的に家庭訪問して、繰り返し説得にあたってますって報告しておけば、私が不登校のままでも、担任として十分な責任は果たしてるって評価してもらえるから、それで、いくらしゃべったって無駄ってわかってても、こうやって何回も家まで来てるんじゃないんですか?」


 なるほど。それで点数稼ぎか。


「私がここに来たって意味はないって言いたいのか?」

「違いますか? お互いに時間が潰れるだけじゃないですか」

「そうか……。よくわかった……。なら、しっかり反論させてもらうぞ」


 先生が一呼吸置いて続ける。


「私は、こうやって話し合いを続けていれば、いつかお前の意識が変わることもあるだろうと期待してる。だからここにいる。お前はうちの学校の生徒で、私は担任なんだ。何言われたって放っておけるわけないだろ」

「そうですか。どうもありがとうございます」


 日崎の返事は完全に棒読みだ。嫌味にしか聞こえない。

 こいつには豊橋先生の熱意がまるで届いちゃいないらしい。

 怒りをこらえるためか、先生は冷茶を一口飲んで息をつく。


「もう何週間続けて休んでるかわかってるか?」

「どうでもいいです。そんなこと」

「留年させられるかもしれないんだぞ」

「それが何ですか?」

「もうずっと来ないつもりなのか? 退学したいわけじゃないだろ」

「別に。最近はそれもありかなって、結構真面目に考えてます」


 日崎はふふっと笑って言葉を付け足す。


「そしたら中卒ですね」

「綾っ!」


 おばさんが大声を上げた。

 先生もまた、厳しい口調で言う。


「その選択は、後悔することになるかもしれないぞ」

「今は入学したことをずっと後悔してます」

「もっと後悔することになるかもしれないと言ってるんだ」

「人の未来がわかるんだったら、教師なんか辞めて占い師にでもなったらどうですか?」


 日崎は目をむいて堂々と先生をにらみつける。

 こればっかりはさすがに先生も頭にきたのか、じっと日崎のことをにらみ返していたけど、それもほんの少しのことで、先生のほうが先に目を伏せた。

 日崎がテーブルに手をついて立ち上がる。


「もういいですか?」


 いいわけあるか。ふざけんな。


「わかった……。このまま続けていても、いい結果になるとは思えないしな……。この話はまた時間を置いて、次の機会にしよう」


 何を言ってんですか、先生。こんなんでいいわけないっすよ。


「ありがとうございます」


 日崎は頷く程度に頭を下げて言う。

 さっきの嫌味たっぷりなありがとうございます、とは比較にならないほどなめらかで自然な声に聞こえた。

 もう我慢の限界だ。黙ってなんかいられない。おばさんの前だろうが関係あるか。言ってやる。


「いい加減にしろよ!」


 ゆっくりと首を動かして、日崎が見下ろしてくる。


「何?」

「座れよ」

「何で?」

「話があるからだよ」

「そ。悪いけど、それもまた今度にしてもらえる?」

「ふざけんな。だいたい今度っていつだよ」

「さあね」

「座れよ」

「無理」


 思いっきり勢いをつけて立ち上がる。


「いいから座れって……」


 がたんっ、とすぐ後ろで大きな音がした。

 どうやら勢い余って、膝裏で椅子を蹴倒してしまったらしい。


「言ってんだよ……」


 声を張り上げて言うつもりだったのに、ひどく尻すぼみになりながらも、形だけ取り繕ってどうにか最後まで言い切る。

 うあぁー……。やっちまった……。

 結構な音だったというのに、日崎はまばたき一つしないでこっちをにらんだままだった。

 気後れしながらも、とりあえず続けて声を張る。


「さっきからずっと、自分がどんなに失礼な態度取ってるかくらいわかってんだろ。わざわざ先生に来てもらってんだから、もうちょいちゃんとしゃべれよ」

「人の家で大声出して暴れて、椅子も床も傷つけといて謝りもしないのは失礼って言わないの?」

「あっ、うっ……。いや、わざとやったんじゃないって……」

「そんなのあんたにしかわかんないことでしょ」

「ホントに違うって! 家の椅子の感じとちょっと違ったっていうか、その……」

「そんなことしか言えないの?」

「あっ……。うん……。ごめんなさい……。すいませんでした……」


 日崎とおばさんに頭を下げてから、振り返って椅子を起こす。

 フローリングをさっと見た感じは、自分が今つけたとわかるような目立った傷はなくて、椅子にもとくに傷んだ様子はなかったけど、あれだけの音がしたことを考えると、どこかに傷やへこみがついていても不思議じゃない。

 弁償しろ、なんて言われたら、自分のお小遣いだけでどうにかできるんだろうか……。


「本当にすいませんでした……」


 日崎とおばさんに対して改めて頭を下げる。

 その直後だった。


「お母さん。私ちょっと出かけるから」


 日崎はおばさんのほうを向いていて、もうこっちなんて見ていない。


「綾……。もう少しくらい大丈夫でしょ?」

「もういいってば。十分だよ」

「待って。せっかく康太君も……」

「夜には帰るから」


 日崎はおばさんの声をさえぎってそう言うと、先生のほうに向かって、


「失礼します」


 と、お辞儀をすることもなくつっけんどんに言い放った。

 リビングを出ていく日崎の、その忌々しい後ろ姿を見つめる。

 謝らせておいて何もないのか。本当は椅子のこともフローリングのこともどうだってよかったんじゃないか。バカにしやがって。

 先生がそっと背中に触れてくれる。


「月坂。座れ」

「はい……」


 力を抜いて椅子に腰を落とす。

 少しして玄関扉の開閉音が聞こえた。

 日崎はいなくなっても、重苦しい空気はそのままだ。


「すみません……。康太君も、ごめんね……」


 おばさんはしゅんとなってうなだれる。


「いえ、俺のほうこそ、すいません……。余計なことしちゃって……」


 続いて先生もおばさんをフォローする。


「根気強くいきましょう。ただ、綾ちゃんが退学のことまで考えているとなると、そう悠長なことも言ってられないかもしれませんが……」

「あれはきっと、口をついて出てしまったというか、本心じゃなかったと思うんです。今高校を辞めたら、いろいろと大変だって、あの子もわかっていると思うので……」

「そうですね……。私もそう思います。そこは綾ちゃんを信じましょう」


 意味もなくテーブルの木目をにらむ。

 悔しくて顔を上げられない。考えたくないのに、うっとうしい日崎の仏頂面がちらちらと頭をよぎる。こんなでは一緒に登校したあの朝と同じだ。いや、あのときよりももっとひどい。

 隣で、先生が弱々しく息をつく。


「すみません。私がもっとうまくできれば、綾ちゃんも心を開いてくれると思うんですけど……」

「そんな。先生にはいつも気にかけていただいて、あの子もきっと、それはよくわかっていると思うんです……」

「いえ、いいんです。結果を出せていない以上、いずれにしても私だけでは力不足なのは明らかです。それで今回はこうして、頼りになるヒーローに来てもらっているんですから。そうだよな、月坂」


 先生がこっちを見る。


「えーと……。それ、俺のこと言ってます?」

「まさしく」

「いやいや、見てましたよね、今。俺すっごい役立たずでしたよ」

「そうだな。役立たず、というよりも完全にゴミだったな」

「うっ……。返す言葉もないですけど……。それでなんで俺がヒーローなんですか?」

「さっきは運がなかっただけだ。次はうまくいくさ」

「次は、って……。これ以上どうしろって言うんですか」

「お前に力になってもらいたいんだよ。私はすこぶる嫌われているからな」

「俺だって似たようなもんだと思いますけど……」

「私ほどじゃないさ……」


 先生の消え入りそうな声と、その寂しそうな表情に面食らって何も言えなくなる。

 傲慢で、勝ち気で、どんなことも意に介さないような超人みたいなイメージだったけど、そりゃそんなわけないよな。

 こんなゴミにまで手を貸してくれ、なんて頼むくらいなんだから、本音では先生も、日崎のことで相当まいっているんだろう。そりゃあ今日にいたるまでもいろいろあったに違いないんだ。


 先生は少しだけ冷茶を飲んだあと、しばらく顔をしかめておばさんに話を振った。


「綾ちゃん、出かけるって言ってましたけど、どこに向かったかわかりますか?」

「たぶんですけど、図書館だと思います。雰囲気が好きみたいで最近はよく行ってるんですよ。それか、何か買い物に行ったのかもしれませんけど……」

「なるほど。一つお願いになるんですが、今日一日、綾ちゃんを尾行させていただいてもよろしいですか?」

「えっ……。尾行、ですか?」

「そんなに深い意味はないんです。いわゆる素行調査といいますか、綾ちゃんの普段の様子から、何か説得のための糸口を見つけられないかな、と思いまして」

「それは、わからなくもないですけど……。でも、そんなことあの子が知ったら、すごく怒ると思いますよ」

「その点は安心してください。すべて月坂にやってもらいますから。な?」


 先生の謎の笑顔に、目をぱちくりぱちくりさせる。


「うえっ? いやいやいや、そんなもん先生がやってくださいよ。俺、嫌ですよ。そんなストーカーみたいなこと」


 先生は俺のことなんて気にもしないでおばさんのほうに顔を戻してしまう。


「どうでしょう。最近は物騒な事件も聞きますし、軽くボディガードでもつけるような感覚で、許していただけませんか?」

「そうですね……。あの子のためにも、何か行動が必要な気はしますし……。康太君が協力してくれるなら……、わかりました。お願いします」

「へっ? いや、ちょっと待ってくださいよ!」

「月坂。お前、さっきの失敗を取り返そうとか思わないのか? サッカーでもそうだろ。相手に一点取られたら、こっちは二点取るしかないだろ。それともお前、このまま何もしないで帰る気か?」

「そういうわけじゃないですけど……。でも、あいつのことストーカーしろなんてのはさすがに……」

「勘違いするな。図書館に行くならどんな本を読むのか、買い物なら何を見るのか、いくつか情報を集めてくれと言ってるだけだ」

「だからそれがストーカーなんじゃないっすか!」

「まったく。お前は文句ばっかりだな」

「先生がむちゃくちゃばっか言ってっからですよ!」

「ちっ……。わかった。そこまで言うならお前の意見を聞こうじゃないか。ほかにどんな手がある?」

「それは、その……。もっといい感じに、みんなウレシー、みんなハッピー、みたいな、そういう、何ていうか……」


 しどろもどろになっていると、先生は今にも殴りかかってきそうな鋭い目でにらんでくる。怖い。


「康太君」


 おばさんが呼びかけてくれたことで、すぐさまそっちに目を向ける。

 助かりました、と心の中で感謝する。

 けれども、おばさんは弱い声で続ける。


「迷惑な話だとは思うんだけど……、頼らせてもらえないかな?」

「えっ……。今の、ストーカーの話、ですか? マジで、ですか?」


 困り顔で頷いたおばさんと、険しい表情でいる先生に挟まれて、いったん真面目に考えてみる。


 日崎のことをストーカーよろしくつきまとえ、なんていうのはとてもじゃないけど気が乗らない。

 だけど、だからってここでこの話を断ったら、そのあとはどうすんだ? 何も聞かなかったことにして家でぐうたら過ごすのか。それだけはダメだ。っていうか、たぶん何をするにしたって日崎のことがちらついてずっとイライラすることになる。


 もう手遅れなんだ。だったら、いっそのこと話を受けてみてもいいんじゃないか。日崎をつけまわすだけでおばさんの役に立てるなら簡単な話だろ。迷惑をかけたお詫びにもなるし。

 やってみるか。


「わかりました……。そんだけ言ってもらえるんなら、次はしっかり役に立ってみせます。俺にやらせてください」


 先生とおばさんから、二人分の小さな歓声と拍手を受ける。

 ふんーっ、と力を込めて鼻息をつく。こうなったら覚悟を決めてやるしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る