第15話


 酷く回らない頭とぼやけた視界に映る茶色い何か。濃淡のある線とも斑とも呼べる模様。それがボロ屋の天井だと気が付くのにレリアはしばらく時間がかかった。

 首は疎か目すらも動かすのが億劫おっくうなほどに身体が重い。

 徐々に鮮明になっていく視界には、天井と、壁と、窓から見える生い茂った木々と。他に映ったのは赤い影だった。


「レ、リア?」


 低く骨に響く声にレリアは顔をしかめた。

 次に感じたのは衝撃だった。がくんと視界が揺れ、息苦しいほどの圧が重くのしかかる。耳鳴りがするほどの叫び声に、こいつは何を叫んでいるのだろうかと眉間に皺がよった。


 今度は家が揺れた。ドタドタと足音が聞こえて、もっとうるさくなった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「そろそろ離してやったらどうじゃ? レリアも苦しそうじゃて」


 ランスとマリーは声も出せずに頷き離れたが、レリアの手は離さなかった。

 レリアの顔はあの惨事が想像できないくらいに血色がよく、健康そのものに見える。

 カラムはほっと胸を撫で下ろした。嗚咽おえつすすく声の間で、レリアが混乱と不安の入り混じった顔をしていた。


「うむ。レリアや、調子はどうかの? 少し診せてもらうぞい」


 その言葉にレリアは頷き、口を開いた。


 瞬間、カラムは異変を察知する。太鼓を打ち鳴らすような動悸どうきに滝のように流れる汗がレリアを襲っているのだ。

 先程までとは違う、明らかな絶望の色。蒼白な顔面に双眸そうぼうからは光が失せる。


 カラムはレリアに触れた。熱はない。呼吸も、乱れてはいるが異常音はない。手足の感覚もあるようだ。目も見えているし耳も聞こえている。身体的な異常は見当たらない。


 ならば、とカラムは考えた。思えば、赤子の頃からレリアには臆病な気質があった。何よりも失敗を恐れ、その恐れが露顕ろけんする事さえも恐れていた。

 であるならば、この状態も説明がつく。あの惨事を自らの失敗と捉えているのだろう。


「レリアや。お主は何も悪くない。誰もお主を責めたりはせん。大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ」


 カラムは優しく頭を撫でたが、レリアの強張こわばりは消えなかった。


「レリアちゃん、は、生きて、いて、くれた。それだけで、いいの」

「そうだ。レリア。お前は、偉いんだ」


 二人の言葉もレリアの絶望を拭えない。レリアは口を開き、吐息を漏らした。


 それからは酷かった。


 めた感情の濁流が決壊したように、何度も何度も何度も何度も、狂ったように息を吐き出した。

 喉を締め、音のない嗚咽を漏らし、涙を流した。頭を抱え、髪を引っ張り、喉を掻きむしった。止めようとしても子供とは思えない程の腕力で抵抗されてしまう。


 声も耳には届かず、腕力すらも上回るレリアの狂行に三人は手段を選んではいられなかった。


「ランスよ。ロープはあるかのう!」

「あーっと。あれだ! 獲物を解体するときのがある! 倉庫の壁にかかってるはずだ! マリー!」


 マリーが飛び出す。残った二人で、未だに暴れるレリアを押さえつけるが、止まらない。

 しばらくして、マリーは大人の親指ほどの太さの荒縄を手に戻ってきた。


 カラムはそれで輪を作り、きつく縛って、魔力を込めた。荒縄が巨大化する。

 

「レリアや、少し痛むやもしれぬぞ」


 苦い顔でそう言うと、荒縄の輪にレリアを通し、魔力を抜いた。

 荒縄がもとの大きさに戻る。それに従って輪も縮み、レリアを巻き込んで縛り上げた。


 それでも、なお暴れようとするレリアだったが、身動きが取れないとわかると、ただ呆然と宙空を見つめるだけとなった。


 ひとまずの安堵。幸い、傷はできていないようだったが、レリアの心情を思うと胸が痛んだ。


「ふむ······」


 カラムの唸り声が部屋全体を絶望で包み込む。


「なぁ、先生」


 震える声で絞り出すように言ったランスの横で膝をついてマリーが必死に祈る。


「喉が動いとらんようじゃ。すまん。わしのせいじゃ。笛なんか通したばっかりに」

「嘘だろ? そんなわけあるか。なあ、そうだろ!?」


 まくし立てて詰め寄るランスに、カラムは何も言えなかった。


 マリーは泣き崩れ、ランスは怒鳴り散らし、カラムは俯く。その声は空虚なレリアの耳にも届き、そして、地の底でうずくまるのだ。


 この空気を知っている。脳裏に染み付いた光景がフラッシュバックする。


 結局何も変えられない。同じ失敗を繰り返すだけ。幸せなんてどこにある?


 こんな子供を誰が面倒を見るというのか。欠点だらけの、邪魔でしかない存在を、誰が……。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「先生、レリアちゃんをよろしくお願いします」


 治療法を探すというカラムの言葉。それに縋る父と母。いつまでも続くはずのないこの慈悲が、レリアの心に鋭く突き刺さった。

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