第4話


 レリアがこの世に生を受けてから、六年の月日が経とうとしていた。問題だった言語の壁もなんとか乗り越え、常に理想の子供であり続けている。

 しかし、いくら表層で取り繕っても内面は不満でいっぱいだった。森での貧乏生活はあまりにも退屈だったからだ。

 遊びといえば、両親が望むのは女の子らしい人形遊び。そんなもの、人生二周目のレリアにとっては苦行そのもので。しかも使う人形が、あの胡散臭い商人から貰った物となればなおさらだ。

 仕事の手伝いだって、畑の草むしりに薪割り、森の巡回。どれも単調な作業の繰り返しで楽しさの欠片もない。


「この辺に頼む」


 今日も今日とて、苦行の手伝い。内心ため息をきながらレリアはランスの指示に従った。

 

(うへぇ……)

 

 背負っていた荷物の蓋を開けると酒かすと醤油を煮詰めて絞り、摩り下ろした漬物と混ぜて一日放置したかのような悪臭がむわりとのぼった。

 涙目になりながらも言われたとおりに汚泥を木の根本に散布していく。歩く度に瘴気のように強烈な悪臭が漂った。


「ちょっと来てくれ!」

「なあに?」


 見るとひび割れた汚泥に木の根が覆われ、その上に黒豆のような粒がポツポツと落ちている。


「シカの糞だ。様子見に来たんだな」

「危ない?」

「この辺にいるシカって言ったら、ノコノアだ。臆病な奴らだから、そいつら自体に危険はないよ。ただ、もう少し奥に行くとイッペラポスっていう凶暴な奴がいるから気を付けた方がいい」

「そっか。よかった」

「でも、ノコノアを追ってオオカミなんかが入ってくると危ないから、対処はしとかなくちゃいけないな」

「わかった!」

「いい返事だ。といっても、やることは簡単だぞ。柄杓ひしゃくを貸してくれ」


 ランスは念入りに汚泥を糞の上にかけた。


「こうやって上からマーキングしてやれば、こいつも『ここは主がちゃんと見回りしてるんだな』って理解するんだ」

「もう来ない?」

「ああ。もう来ないぞ。力尽くで奪おうとするほど好戦的でもないしな」

「よかったー」


 荷物を背負おうと蓋を閉めた時、ランスの手が伸び、レリアの動きを制した。突然の行動にレリアの身体が硬直する。


(後ろに何かいる!)


 じっとりと嫌な汗が背中を流れた。


「前言撤回だ。登れ」


 静かに放たれたその言葉に、レリアは脱兎のごとく、木に登った。

 背後で荒い鼻息と、ひづめの音が聞こえる。生暖かい熱すらも感じるようだ。ああ、もうすぐそこまで迫っている。間に合わない。殺される……。


 感覚とは裏腹にレリアはスルスルと木を登ることができた。いつの間にか背後の気配も消え、木々の間を抜ける涼しい風が火照った身体を冷やしてくれる。

 少し落ち着いて見渡すと、眼下、十メートルほど離れたところに、幾重にも枝分かれした太い角を持つ獣が立っていた。

 重厚な角を支える頭部と首は荒縄のようなたてがみに覆われ、体躯は樹齢数百年の幹と比べても引けを足らないほどに強靭きょうじんで、そこから伸びる主枝しゅしのような四肢もまた太く、地を揺らすが如く打ち付ける単蹄たんていに根はえぐれ、木片が飛び散った。


 半馬半鹿はんばはんかの獣、イッペラポスが鈍く光る赤い瞳に敵意を滾らせてランスを睨んでいる。

 ランスはイッペラポスから視線を外さずに素早く刃沓はぐつを投げ捨て、斧を構えた。


「うらあっ! こいやっ!」


 張り上げたランスの叫び声にイッペラポスが地面を蹴る。土煙と木片を巻き上げながら、巨躯の獣が瞬く間にその距離を縮めた。

 剣山の様な角先が肉薄し、内から、外から、追い込み漁のように、棘のついた網が自分を捕らえんと差し迫ってくるような錯覚を覚える。いや、実際に差し迫っているのだ。少しでも隙を見せれば網は身体に絡みつき、棘が肉を貫くだろう。


 ランスは角の隙間に身体を滑り込ませてイッペラポスの突進を受け止めた。

 斧の柄がきしむ。ズルズルと足が地面を削る。長くは持ちそうにない。しかし、ここで押し負ければ、樹上のレリアは振り落とされてしまうだろう。


 レリアの目に、ランスのまとう白いもやが色濃くなっていくのが見えた。それと同時にイッペラポスの角も緑の靄を纏い始める。


 全身を巡る血管のように角を走る緑の光。沸き立つ血潮のように強まる拍動。

 やがて不形の靄は一つの形を成す。一際強く角が輝き、渦巻く風の刃がランスの身体を切り刻んだ。

 無数に走る赤い線。湧き出た血液が飛沫となって舞う。荒れ狂う暴風の中では自分の息遣いさえも聞こえない。

 自分が倒れれば、次はレリアの番だ。ただそれだけを胸に、ランスはひたすらに耐えた。


 緑の光が徐々に弱まる。第一派の終わりは近い。けれど決して最後ではない。角への魔力供給が終わればすぐにでも次の魔法がやってくるだろう。攻勢に出るなら今しかない。


「うっらあああ!」


 その手に握る手斧を思いっきり振り下ろす。筋肉の繊維、一本一本が悲鳴を上げるほどに力を込めて。絡みついた角ごと奴の頭を地面にたたきつける勢いで。

 イッペラポスの頭がぐらりと揺れ、ランスを取り囲む角が地面に突き刺さった。

 しかし、それも束の間。イッペラポスは反発するように頭を振り上げる。


 手斧が高く宙を舞った。眼下には肉を穿つ無数の棘。刹那、耳に届く風切り音。勝ち誇ったように見下すイッペラポスの瞳が見えた。

 ランスは腰に手を伸ばす。目の前には振り上げて伸び切った首筋。

 冷たくかたい感触が指先に触れ、手斧が地に落ちる前に、ランスは短剣を突き立てた。


 確かな手応えを感じて、すぐさま距離を取ると、突き刺さったままの短剣からボタボタと赤黒い液体が垂れた。


 イッペラポスが闘志の宿る瞳でランスを見つめる。ランスを真っ直ぐに捉える瞳はまだ光を失っていない。

 大地を打ち鳴らす単蹄は力強く、渾身の力で放った咆哮ほうこうは凶器のごとく空気を揺らし、助長するように木々がざわめいた。

 鼻息荒くランスへと角を向け、一歩、二歩と大地を蹴り、歩を進めた。己の巨躯を弾丸として、目の前の敵を穿たんと。

 遂にその弾丸がランスに届くことはなく、錆びた鉄くずのように大地を赤く染めながら、イッペラポスは音を立てて崩れ落ちた。


「まだ降りてくるなよ」


 首からはドクドクと打ち寄せる波のように血潮が溢れているものの、まだ息はあった。死を悟った獣の最期の足掻きは人を、ましてや幼子を屠るには十分すぎる威力をはらんでいる。

 ランスは斧を拾い上げ、振り下ろす。頭骨が砕け、ピンク色の組織が飛んだ。憎悪の炎に焼き付いた赤い瞳が、深い海の底で眠るように静かに光を失った。


「もういいぞ」


 降りてくるレリアを尻目にランスは短剣の血糊ちのりぬぐった。身体を刻む無数の傷が痛々しい。

 そんなランスの服をレリアが心配そうに引っ張る。

 失血で倒れられでもしたら、こんな森の中で一人っきりだ。担いで家に戻るのなんて無謀もいいところで、そもそも一人で帰れるのかも怪しい。


「だいじょうぶ?」

「ああ、大丈夫だぞ」


 力こぶを作ってみせたランスの顔が痛みに歪む。傷口からは未だに血が流れており、止まる様子はない。


「ほんとに?」

「んー、まぁ……」


 ランスが両の拳を突き合わせ、深く息を吐くと白いもやが揺らめいた。揺らめきは呼吸に合わせるように、強く、深く、勢いを増していき、大きなうねりとなって全身を駆け巡る。うねりが傷を飲み込んだ時、血液が小さく泡立った。

 赤い小胞が皮膚の隙間を埋め尽くすように生まれ、弾け、そしてまた生まれる。そうして傷口はだんだんと小さくなり、やがて、完全に塞がった。

 

「うへぇ……。あっ。今のなに? すごい!」

「気法だよ。身体の中の気力を活性化させて傷口をふさいだんだ」

「へぇ~? もうだいじょうぶ?」

「ああ。もうへっちゃらだぞ!」

「そっか~。ねぇねぇ」

「ん?」


 心配事がなくなり、レリアはイッペラポスの亡骸に好奇の目を向けた。鹿とも馬とも言えないへんちくりんな生き物ではあるが、動物には違いない。そう、お肉だ。目の前に肉塊があるのだ。めったに食卓に並ばない肉に思わずよだれが溢れる。


「これ、食べれる?」

「あー、まぁ、毒はないが……」

「食べれないの?」

「いや! そんなことはないぞ! オスだから、ちょーっと臭味があるかもしれんが食べれないことはない」

「ほんとに!?」

「本当だぞ。どうせこのまま放置して狼にでもたかられると不味いからな。解体しようと思っていたんだ。帰りに香草を摘んで帰ろうか」

「うん!」


 ランスは手早く亡骸を木に吊るし、皮を剥いだ。


「おぉ~」

「いいか? 解体の時に重要なのはいかに早く皮を剥ぐかだ。皮が温かいままだと直ぐにボロボロになっちまうからな。売り物にならない」



 眼前にぶら下がる肉塊をツンツンと指でつつくレリアの姿をぼんやりと眺める。よっぽどうれしいのだろう。珍しくはしゃいでいる。


 ランスは視線をイッペラポスへと移した。

 筋骨隆々とした赤みの多い引き締まった肉に、色艶もよく、自分の腕の何倍もの太さがある枝がたわむほどに大きい上質な毛皮。状態から見て四歳くらいのオスだろうか。イッペラポスの全盛期と言える年齢だ。

 それにも関わらず、森の表層、自分たちの生活圏内まで出てきている。繁殖期の秋口であれば、縄張り争いに破れてハーレムを追われることはあるだろうが、今は初夏。

 何らかの異変が森奥で起きている。そんな予感が頭から離れない。


 気が付くとレリアが不思議そうにこちらを見ていた。


「気にするな」


 そよ風が枝葉を揺らす中、ポツリとそうつぶやいた。

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