第2話


 チクチクとした疼痛とうつうと身体を引き裂く激痛。腹の内を暴れまわる内臓を、荒縄でもって抑えつけるかのように、力を入れる度に痛みが全身を駆け巡った。

 今度は内臓の内側を氷塊が押し広げた。冷気で縮こまった内蔵を、それでも氷塊はブチブチと引きちぎりながら成長する。

 焼けつくような痛みと突き刺すような冷気が混在するわけのわからない状況に、脂汗が滝のようにあふれ出す。秋風に波打つ小麦畑のような髪が今はピタリと額に張り付いていた。

 けれど、マリーは諦めなかった。何度も息を吸い、吐いて、全身に力を込めた。我が子を生み落としたい。その一心で全てに耐えた。



 ふっ、と力が抜けた。世界中の音がかき消えて、産声だけが聞こえた。


「元気な女の子じゃよ」


 カラムの声が聞こえた気がする。見下ろすと、いつの間にか腕の中にしわくちゃの赤子がいた。父親と同じ赤い髪だった。


 日がな走り回ったあとの疲労感とは比べ物にならないほどの脱力感。それでもマリーは腕に力を込めた。

 ぼんやりとかすみがかった視界の中でもはっきりと見える顔に口元が緩み、涙がこぼれる。


 そして、世界は暗転した。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 


「なぁ、先生」

「大丈夫じゃ。疲れて眠っておるだけじゃ」

「そうか」

「ランスや。お主がしっかりせんでどうするんじゃ。父親になったのじゃぞ?」

「あ、ああ」

「なに、しばらくはわしも滞在するんじゃ。安心するとええ」

「そうだな……」


 ランスは倒れ込むようにドサリと椅子に腰を下ろした。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 頭上から、囁く声が聞こえた。鈴を転がしたような凛とした声だった。


 レリアの耳にまた声が聞こえた。腹の底に響く低い声だった。


 今度はゴクリと嚥下の音がした。しばらくして、自分の喉がなったのだと気が付いた。

 自分の意思とは関係なく喉が動く。甘い香りが鼻腔をくすぐった。


 やがて、喉の動きが止まると、しがみついていた何かが離れていった。思わず伸ばした手は空を切り、温もりはどこかへ行ってしまった。

 それでもレリアは諦められなかった。温もりを求めて目を開けた。すると、何かがこちらを見ていた。透かしたエメラルドのようなキラキラと光る瞳だ。

 幼さと慈愛を併せ持つ不思議な顔立ちにレリアは思わず息を飲んだ。


「どうしたの?」


 知らない言語だった。英語でも、ましてや日本語でもない言語。

 もしも鱗があったなら、すべてがひっくり返る。そんな、全身が逆立つような感覚がレリアを襲った。


(え? は、え?)


 火花を散らしながら急速に回転する思考は忙しなくレリアの両目を動かす。縦横無尽に駆け巡る視界にまとまらない思考。未知との遭遇に本能が情報を求める。

 そして、視線がマリーの胸元を捉えた時、混乱していた頭がすうっと澄み渡った。


(あれ、俺、さっきまで……)


 間欠泉にツルハシを振り下ろしたかのような衝撃と吹き上がる熱に全身がカーッと熱くなる。

 声を出す事もままならず、餌を求めるこいのように口をパクパクと動かすことしかできない。


「レリアちゃん!?」

「先生を呼んでくる!」

(ヤバイヤバイヤバイヤバイ)


 甲高い少女の悲鳴。叫ぶ男の声。レリアの思考は再び火花を散らしたが、何の役にも立たなかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「異常は無いようじゃの」

「ふぅーー」

「よかったぁ」

「汗をかいていたからの。着替えを頼めるかの」

「わかりました」


 服を脱がされながらレリアはカラムの頭を見た。

 パサパサの白髪頭にぴょこんと言うにはいささか主張の激しい三角の耳がピンと立っている。時折動くそれは明らかにカチューシャの類ではなく、直接頭から生えているようだ。

 視線を床の方へと移動すれば、魔女の藁箒わらぼうきの様な白い尻尾がゆったりと動いている。


(夢……にしてはリアルだよなぁ)

「レリアー、良かったな、何もなくて」

(てことは異世界転生?)

「はい、おしまい!」

「おー、さっぱりしたなー!」

(つまりこいつらが親か)


 レリアの前には頭から血を被ったかのような髪に同じ色の瞳をした男がいた。獲物を狩る獣が如き眼光を放ち、今にもよだれを垂らしそうなほどに緩んだ口からは綺麗に並んだ白い歯がのぞいている。

 レリアは身震いして視線を移した。

 男の隣には対象的に明るそうな少女がいた。麦わら帽子が似合いそうな小麦色の髪の少女はレリアに布団を掛け、頭を撫でた。

 レリアは身体が熱くなるのを感じて視線を逸した。


(俺は赤ちゃん、俺は赤ちゃん、俺は赤ちゃん……)

「レリアー、なんで目を逸らすんだ? ほらー、パパだぞー」

(うるさい)

「もう、嫌がってるじゃない」

「そんなことないもんなー」

「レリアも大変じゃのう」


 レリアの頭に二人の顔が思い浮かぶ。無表情で冷ややかな視線を向けてくる男と眉間みけんの皺を厚化粧で必死に隠そうとする女。忘れたくても忘れられない、脳裏に染み付いた顔。

 レリアは眼前の二人の顔を見た。怖いけれど、恥ずかしいけれど、まだ笑っていた。



 背筋の凍る声が聞こえた。


『大人しくしていなさい』


 鼓膜をつんざく声が聞こえた。


『私の顔に泥を塗らないで!』


 心を砕く声が聞こえた。


『お前は何をやっても駄目だ』

『こんな事もできないなんて!』


 親の求める理想の子供。命令に従い、問題を起こさず、期待に応える。そんな子供。


「パパだぞー。ほーら。パー、パー、だー、ぞー」

「あ、あ、だぁ、おぉー」

「お!」

「あ! ずるい! ママよー。マー、マー」

「あ、あ、うおー。あー、あー」

「こりゃ驚いたの」


 言っている意味はわからなかったけれど、喜んでいることだけはわかった。

 レリアはこの光景がいつまでも続かないことを知っている。嫌われないよう、捨てられないよう、努めて生きていかなければ、この人生も空しく何も残らないままに終わってしまう。

 前のような失敗はしない。せめて庇護下にいる内は。レリアの心は重く深く沈んでいった。


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