幸せはどこにでも転がっている

L助

第1話



 学ランの背に白い足型が付いた。かかとが背中に突き刺さり、肺が空っぽになる。無機物までもが彼を見下すように砂利が皮膚をえぐった。

 今日に限って不良どもの絡みがしつこい。外せない用事があるというのに、こいつらは鞄の中身を知っているのだろうか。


「おい! 何してんだ!」


 河川敷に突然振り下ろされる怒号。彼を取り囲む少年たちの動きが止まる。見上げると橋の中腹を駆ける金髪の少年、一翔かずとの姿があった。

 瞳は憤怒に燃え盛り、眉間に深いしわを刻む。見る者すべてを威圧する形相を前に、誰もが声を発せないでいた。


 不意に均衡が崩れる。張り詰めた糸が限界を迎えたのだ。

 誰からともなく声が上がり、恐怖は叫びとなって、さらに恐怖を加速する。そうして伝播でんぱした感情が刹那の静寂をいとも容易く引きちぎった。

 飛び上がって駆け出す者。足がもつれて転がる者。仲間の背中を押しのける者。あとにはただ一人、ボロ雑巾のようになった彼だけが残った。


「無事か?」


 その言葉に彼は口をつぐんだまま頷いた。




 金髪ピアスとボロ雑巾の組み合わせは嫌でも目につく。警察に出会えば補導の対象で、買い物帰りの主婦に見つかれば通報の対象だ。二人はおのずと人気のない道を選んだ。


「なんでやり返さねぇんだよ」

「だって……」

「お前、重いんだからよ。どつけば簡単に吹っ飛ぶだろうが」

「……」

「ったく、いちいち守んのもメンドクセェんだぞ」


 閑静な住宅街に横たわる赤茶けた鉄くずの建造物。周りとは明らかに隔たりのある空間。まるで透明な膜が人の侵入を妨げているかのような、異様なまでの静けさの中、二人は足を踏み入れた。

 一翔かずとが扉に手をかけると油の切れた金属音が鼓膜を揺らした。ガラスの窓が埃にまみれ、差し込む夕日が中の鉄くずをはんに染めている。


「きったねぇなぁ」


 てのひらに付いた赤茶けた粉は服のすそぬぐっても取れるどころか広がるだけで、乾燥した血液のようなそれを見て、一翔はいっそう顔を歪めた。


 奥にはスーツ姿にワックスで髪を固めた若い男がいた。脚を組みながらソファーの真ん中に座っている。手にめた拳鍔けんつばを眺めるだけで、二人へは見向きもしない。


「調子はどう? 随分とボロボロだけど」

「こいつ絡まれてたんすよ。あ、でも、かねは大丈夫っす」

「一翔くーん、彼の身体も心配してあげないと」

「いやいや、大丈夫っすよ。ほら、こいつデブなんで」

「そっかー」


 おもむろに立ち上がった男の拳が垂れ下がった少年の腹をえぐった。服越しに伝わる固く冷たい感触。男の触れた場所が燃えるように熱くなる。


「恵まれてるねぇ」


 男はため息交じりに少年の鞄をひっくり返し、封筒を拾い上げた。


「おー、一翔くーん、お手柄だよー」

「ぜんっぜん余裕っすよ! こいつボンボンなんで!」

「そっかー。なら追加も頼めるよね?」

「もっちろんすよ」

「い、いや、あ、あいつら、ももももう、か、勘付いて」

「うっせぇなぁ!」


 起き上がった彼の鳩尾みぞおち爪先つまさきが突き刺さる。空っぽの胃がうねり、酸味のあるよだれがベタリと床を汚した。


「一翔くーん、甘いよ、それじゃあ」

「ぐあああああ」


 ありの巣を潰す無邪気な子供のように男は何度もかかとを振り下ろした。少年の右手は紫色に腫れ上がり、裂けた皮膚が赤くにじむ。

 しかし、その風体を確認することもなく、男は関節の消えた少年の手に背を向けた。


しつけはしとけって言ったよな。なぁ!」

「うっす。すいません」

「……。じゃっ、あとよろしくー」

「わかり、ました……」


 不快な金属音と共に閉まる扉。革靴が床を叩く音が響く。その音が遠く聞こえなくなるまで、一翔は頭を上げなかった。




「お前のせいで! お前のせいで!」


 彼を痛めつけなければ、次は自分だ。

 一翔の脚がしなる。

 肋骨の軋む音。胃から込み上げてくる液体。肺から絞り出される空気。圧迫される心臓。転がる度に鞭打つ場所は変わり、新たな痛みが加わった。


 永遠にも感じられる躾の時間。痛覚が熱へと変わり、それすらも感じなくなった頃、それはようやく終わりを告げた。

 錆つき、きしんだ扉が開く。ガリガリとコンクリートを擦る音が横たわる少年の鼓膜を突き抜け、脳を揺らす。ガタガタと全身を震わし、傷口を抉るような恐怖の音が鳴りやまない。

 扉から覗いたのは感情のない真っ黒な瞳。悪魔のようにつり上がった口。絡みつくようなねっとりとした、それでいて無機質な声。


「はい、これ」


 一翔が受け取ったのは鈍く光る筒状の棒。決して鋭利ではないものの、絶望を引き出すには十分すぎる凶器。

 感情を失った顔で一翔は鉄パイプを振り下ろした。

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