逆景色の心海

@eyecon

逆景色の心海




 冷々たる、凄まじい圧迫感。そして、鞭打ちにされたような痛みの衝撃が、私を襲った。それらは、沈んでいた私の意識を呼び起こすには、十分なものだった。

 瞼が重い。酷く朦朧とする。全ての感覚が曖昧な中で、聴覚から伝わるのは篭った泡立ちの響き。途切れ途切れで不規則で掴みづらく、前衛的な実験音楽でも聞いているかのようだ。

 意識を手に入れるように、私は体を動かそうとした。しかし、肌が石膏細工のように固まり、指先一つ動かせない。どれだけ力を入れても、すんでのところで逃げていってしまうのだ。

 なんと煩わしいものか。小さな怒りに掻き立てられた私は、神経という神経へ全身全霊を込める。特にその力を、瞼の方へ集中させた。

 霞みゆく意識へ、抗う。抗う。抗う。そうして視界の暗闇を裂くように、私は瞼を開いていった。

 白い眩しさからの溶明。私は遂に光を見た。


 段々と目の前が明瞭になっていく。白は少しづつ青色に溶け込み、そこから光と影の対比をはっきりとさせた。最初に認識したのは、周囲を包む泡の群。視界に満遍なく広がるそれは、個々でバラついた動きを見せる。時に歪んだり、分裂したり、弾けたり。それぞれ不規則な動きを見せながら、無常に消えていく。

 瞼は無意識による瞬きの連続を繰り返している。その度、消失していく泡の間から、景色があらわになっていくのだ。泡は一つ、二つと数える暇もなく。いつの間にか視界から消えていた。

 辺りは一気に静寂に支配される。共に、隠されていた景色を私の視界へ映し出したのだった。


 そこに広がっていたのは、永遠に続くような壮大なる海だった。


 私はその景色を通じて、やっとのこと感覚を取り戻す。そして気づいた。最初に感じたあの痛みが、完全に消え去っていたことに。一体あの感覚はなんだったのだろう。その疑問もすぐに消え失せ、私の関心は海へ向けられる。

 忙しなく首を振り、その海を見渡した。生物の気配は全くせず、周りには物一つ浮かんでいない。海底は深い闇に包まれており、その先は見えない。この事から、私は少し無機質な印象を覚えた。

 しかし、海面から差す太陽光が、そこにアクセントを加えている。朝焼けか夕焼けか、陽の光は琥珀色を模しており、濃度の高い青色の海に動きを与えるのだ。それは確かに、美しいといえる光景だった。


 だが今ひとつ、釈然としない。姿形だけは漠然と模倣されているものの、私が知っている『海』の想像とは、決定的に違う何かがあった。

 一つは、海の中だというのに、息苦しさが全くないことだ。海水の感触や少しの浮力はあるものの、私の身体は異様なほど海中に馴染んでいる。鼻腔や喉の奥へ海水が入り込んでも、息が詰まることはなく。それどころか、嗅覚で爽やかな潮の香りを感じ、味覚で潮のしょっぱさを感じる余裕もある。言うなれば、魚にでも生まれ変わった気分だ。

 そして、特に妙なのがこの二つ目。


 海中の景色が、常に逆転しているという点だ。


 頭上には海底。足下には海面。私はその海面の上――いや、下を、足場にして佇んでいるのだ。普通なら、浮力で体勢を変えることも可能なはずだ。だが、重力のようなものが海面側から私を引っ張り、それを許そうとしない。そのせいで、常に景観が逆になってしまうのだ。


 私は海面を見下ろす。外に何か、重力を司るようなものがあるのだろうか。私はそれが気になり、足元を覗くように身を屈ませようとする。これがなかなか、思うように体が動かない。海水によって動きを抑制され、時間が遅延しているかのような鈍い感覚。一連の動作を行うだけで、数秒はかかってしまう。

 海水の動きに流され、揺れたり浮かんだりを繰り返す服や髪の毛の動きを横目に、重々しい体をなんとか屈ませた。

 海面から、外の世界を見る。そこに映っていたのは、陽光の揺らぎ、青空の虚しさ。ただそれだけ。この場所を示す鍵となるものは、一切なかった。

 私は海面を指先で触れてみる。そうしたことにより、小さな波紋が刻まれ、広がっていき、そして消えた。その様を見届けた私は、海面の奥へ奥へ、ゆっくりと指を伸ばしていく。しかし、すぐに指は止まってしまった。海面の向こう側へ、手を伸ばすことが出来なかったのだ。まるで透明な障壁が隔てられ、外の世界を遮っているようかのように。

 実に、支離滅裂な状況である。


 だが不思議と、恐怖や孤独感は感じなかった。このだだっ広い海の世界をたった一人、閉じ込められ、漂っているというのに。むしろ、温もりさえ感じるのだ。なぜかは分からない。もしかしたら、理屈を超えた海の幻想的な美しさが、その感情を和らげてるのかもしれない。

 しかし、何故私はこんな場所にいるのか。脳を活性化させるように、記憶を掘り起こしていく。

 私の名前は……桐谷美羽。良かった、名前は覚えているようだ。だが、いくら記憶を探っても、ここへたどり着いた過程が分からない。まるで海に関する記憶だけ、抜け落ちたように。

 これは夢なのか?それにしては、意識を認識しすぎている。明晰夢というよりも、現実に滲み出た白昼夢を見ているような気分だ。

 一体ここはどこなのだろう。そう思案していた時のこと。



――美羽……。



 どこからか、私を呼ぶ声がしたのだ。しかし、辺りを見渡しても人の気配はしない。私はもう一度、耳を澄ましてみる。



――美羽……僕は……。



 やはり、聞こえる。この広い海の中を、何度も何度も反響しながら、私を呼ぶ男性の声が。その声には、聞き覚えがあった。そして、その言葉にも。しかし『彼』はもう……いないはずなのに。

 聞き間違いかもしれない。幻聴かもしれない。だけどもし、もう一度彼と話せるのなら。もう一度だけ、彼に触れられるのなら。私は彼に会いたい。ここが夢だとしても関係ない。それが私の、願いだから。

 私は胸に秘めた事実を抱えながら、『彼』の声を探るように海面を歩いた。

 不意に、過去の出来事が頭によぎる。そうだ。『彼』と見たあの日の海も、美しかったような……。







 あの時、私と彼――宇宮理希うみやりきは浜辺に座り込んでいた。明けを予告する暁に包まれた、空の下で。

 その日は雲一つなく、純粋に空の色を映しこんでいた。目の前に広がる海は、その色を写すように、なんとも薄暗い印象。街灯が全く設置されてなかったため、余計にそれを際立たせた。

 辺りには、小さな風が度々吹き込んでいたのを覚えている。それは潮の囁きと香りを運び、私にはとても爽やかな心地であった。



「もうすぐかしらね」



 その風を仄かに感じながら、私は呟いた。すると彼は小さく頷き、「そうだね」と言った。

 あと数分ほどで、日の出の時間が訪れるところ。私達は水平線から覗くであろう陽の姿を、いよいよ来るかと待ちわびていたのだ。

 なぜ日の出を見たくなったのか、という理由は、自分でも曖昧だった。その時は元旦というわけでもなく、平凡な夏の一日に過ぎなかったから。しかし突然に、海を、日の出を、私はこの目に収めたくなって。

 彼はその気持ちを理解してくれて、この海へ車を走らせてくれた。不思議そうな顔こそしていたが、『日の出を見たい』という心情には同意だったようだ。私達は互いに、日の出というものを体験したことがなかった、というのが、その気持ちを強くさせたのかもしれない。



「……不思議よね」私は一言漏らすと、そのまま言葉を続ける。「海を見てると、無性にあの中へ潜り込みたくなるの」


「泳ぎたくなるってことかい?」



 彼はそう聞き返した。その質問に、私は静かに首を振る。



「そうじゃないの。なんていうか……あの海を、肌全体に感じていたいというか」



 私は自身の考えを上手く言葉に出来ず、顔を伏せて膝を両手でさすっていた。

 彼はその気持ちを察してくれたのか、私にこう言う。



「……もしかしたら、『胎内回帰願望』、って奴かな」


「胎内回帰?」



 彼の答えに、私はすぐさま聞き返す。



「そう。母親の胎内へ帰りたいと願う本能。ほら、『母なる海』って言葉もある。海に対して、親の温もりと同じものを感じてるのかもね」


「……母なる海、か」



 私は彼の言葉を繰り返して呟く。すると、彼は小さく「あっ」と言い、まずったような表情を浮かべた。



「……ごめん。君に言っていい言葉じゃなかったな」


「いや、いいの、気にしてないから」



 私は彼の言葉に、そう言った。


 突然、強い風が吹きつける。私はそれから守るように、前髪を左手でかきあげた。

 そんな私をどう受け取ったのか。彼は静かに目を伏せてしまう。明らかに落ち込みを見せているその姿に、なんだかこちらが申し訳なく感じてしまった。

 正直、気にしてはいた。だがマイナスとしての意味ではなく、単に『母』という存在がどんなものか、気になっていただけだ。なぜなら、私は母という存在に、しっかりと触れたことがなかったから。

 まだ物心もつかないうちに、母を病気で亡くした。そのために私は、父の男手ひとつで育てられてきたのだ。母の顔は写真でしか見たことがなく、人柄に関しては、父や親戚の話を通じて聞いただけ。だから私は、母の事をよく知らない。

 しかし、知らないからこそ、母という存在が特別なものに思えたのかもしれない。そして、理想的に見ていたのだろう。私自身も、母になりたかったから。



「……」



 彼へ視線を向けると、思い込んだ様子で黙っていた。どうも言葉に困っているようだ。おそらく、気を使おうとしてくれているのだろう。そんな彼の様子が、私には気の毒で。



「……知ってる?」私は咄嗟に浮かんだ事を、彼に話した。「フランス語で、海をなんていうか」


「え……あ、いや、知らないな」



 彼は少し戸惑いを見せながら、私の問いにそう言った。



「『ラ・メール』って言うの。なんだか上流階級の言葉みたいで気取ってるでしょ?」



 私が笑ってそう言うと、彼も釣られるように微笑んだ。



「ここからがまた、違う意味で面白いの。海を『ラ・メール』と呼ぶのに対して、母もまた『ラ・メール』って言うのよ」


「驚いた。発音が全く同じなのか」


「そう。ちなみに母は、こう書いて……」



 私は指で砂浜に『La mere』と書き上げる。



「そして海は、こんな綴り」



 続けてその下に、『La mer』と書いた。



「母の中に海がある、ってことか」彼は砂上に書かれた文字を見ながら、そう言った。


「ええ。そして、漢字の『海』。この字をよく思い出してみて」



 私がそう言うと、彼は少しの間考え込んだ。そして何かに気づいたような顔をすると、こう言う。



「……ああ、なるほど。海の中に『母』がある」


「そうなの。考え方は少し違うけれど、本質は同じ。要は「母と海を繋げるイメージ」が共通してるの」


「僕達と同じように、同一視してたってことか」


「だから、こういう言葉が出来上がったのも、同じようなきっかけだったかもしれない……分からないけどね?」



 私がそう言うと、彼は海を見ながら、こう告げた。



「ある音楽家が言ってた。『本物の海を見るよりも、記憶の中の海の方が、自分には合ってる』って。それはもしかしたら、母と海という存在を同一視してたからこそ、記憶の中でより強くその傾向が現れたのかもしれない。きっと僕ら人間は、誰もが無意識に、海を『母』と見ているんだろうね」



 彼の話は、とても興味深かった。私も同じようなものだろう。母の温もりをしっかり感じ取ったことがないからこそ、私の想像力がそれを掻き立てている。つまり、海に『母』のイメージを投射し、映し出している、ということなのかもしれない。


 だが私は、彼の言葉の中で、一つ気になる事があった。――記憶の中の海。その言葉が、どうにも引っかかって。



「あなたは、記憶の海と現実の海、どちらが好きなの?」



 私は彼にそう聞く。



「そうだな……」彼は思案すると、私の方へ向いてこう言った。「僕は現実の方が、好きかな。目に見えている方が、『海』だとしっかり認識できるから」



 私はその答えを聞いて、少し嬉しかった。



「……うん、私もそう」



 思わず微笑みを浮かべながら、私はそう言った。そして、話を続ける。



「確かに記憶の作り出した海は、美しいかもしれない。だけどそれは、見た目だけの話」私は海の方へ顔を向ける。「あの海を肌で触ったり、潮の香りを感じたり、小波が揺れる音を聞いたり。それを含めて初めて、『美しい海』と言えると、私は思うの」


「……ああ、僕もそう思うよ」彼は頷く。


「記憶の海は見栄えが良いだけで、感触も香りも音もない、無機質なもの。いわば加工が施された写真と同じ。どれだけ綺麗に取り繕っても、その美しさの本質は映し出してくれない。ただの幻想でしかないのよ。そこに囚われてしまったら、きっともう現実なんて……見れなくなるから」



 私はそう言った。

 憧れや理想は誰にだってある。私だってそうだ。海を介して、母という幻想を見ているのだろう。それは否定しない。

 ただ、その幻想に魅せられて現実を見なくなってしまうのは、とても恐ろしいことだ、と、私は思う。それは結局、ちっぽけな自己満足でしかないのだから。

 この世は完全ではない。なぜなら人の価値観によって、それはいくらでも捻じ曲げてしまえるから。人に心がある限り、醜さは常に存在しているし、目を背けたくなるのも事実だ。しかし、だからこそ美しいものに出会った時、人は感動をする。幸福は、苦労や努力なしでは語れないのと同じで。

 美しさと醜さは表裏一体。それを忘れてしまう事は、私にとって悲劇でしかない。



「そう、だな……」彼はそう言って、こちらを向く。「ただ、君の話を聞いて、分かったことがあるよ」


「なにかしら?」私は彼に聞いた。


「君の写真うつりが悪い理由」



 私は一瞬その言葉の意味を考える。そして理解すると「もう……」と言って、私は少し笑った。

 その後、私たちは特に何も話さなかった。しかし、それは気まずいものではなく。むしろこの沈黙は、心地よく感じていた。こうやって緩やかな時の流れを、彼と共に過ごしていくのだろう。これからも、この先も。

 その時は、そう思ったのに。



「……夜明けだ」



 彼は突然呟いた。気づくと、私たちの周りには琥珀色の光が包んでいた。私はすぐに、海の方へ視線を向ける。


 それは、見事な日の出だった。


 水平線の向こう側。そこから、太陽の頭が堂々と覗いている。その光景は、思わず息を呑んでしまうような美しさに満ちていた。



――なんて綺麗なんだろう。



 私は感動していた。私たちへ向けられた琥珀色の太陽の光は、とても暖かく、そして美しかった。その光は海へ反射して、水面に真珠をまぶしたように輝かせる。まさか日の出が、こんなにも素晴らしいものだったとは。

 彼も、その景色に魅せられたように、海を眺めている。もしかしたら、私と同じ事を考えているのかもしれない。今まで、日の出の時を見逃していた事を、深く後悔して。

 私の手は自然と、砂浜の上に置かれていた彼の手へ、触れていた。どうしてそうしたのかは分からない。ただ、この瞬間。彼に触れたくなって。


 すると彼は、私の手を見つめてこう言った。



「君の手は、冷たいね」



 その言葉は予想していたものと違っていて、私は少しむっとした。



「……そこは『暖かいね』って言うべきじゃない?」


「はは、まぁね……でも本質を見ろって言ったのは君だろ?」彼は私の手を優しく握りしめると、こちらへ瞳を向ける。「海は冷たいけれど、君にとっては温もりを感じる場所。それと同じだよ」



 その言葉を告げた彼の視線が、とても真剣で。なんだか気恥ずかしくなった私は、目を逸らしてこう言った。



「……上手く誤魔化して」


「バレたか」



 彼はそう言って、無邪気に笑っていた。

 確かに彼の手は暖かかった。それはまるで、私たちを照らしている陽光のように。おそらくこの景色は、この温もりは、一生忘れることはないだろう。それほど私の心に、深く染み渡るものがあったから。







 私が記憶を思い返しているうちに、この海をどれだけ歩いたのだろう。かなりの距離を進んだはずなのに、景色は一向に変わらなかった。そこにあるのは、真っ逆さまの海の世界。

 彼はやはり……いないのか。そう思っていた、一瞬のこと。遠くの方に、人影が見えた。

 人影はこちらをずっと見つめて、ただ佇んでいる。私は目を凝らして、その人影をよく見てみる。そうすると、その姿はより明確に私の瞳に写っていった。

 そして私はその姿を、はっきりと認識した。ああ、あの目、あの姿、あの佇まいは。私が生涯、唯一愛を語り合った男性。


 彼は宇宮理希、その人だった。



――美羽……。



ㅤ彼は私を呼んでいる。彼が私を必要としている。そして、私も彼を必要としている。だから私は、彼の元へ行かなければ。

ㅤその時だった。突然、上から引っ張られるように、私の体が海の底へ落ちていく。彼の人影も同じように、沈んでいく。待って、私は彼を……。

ㅤ海の景色は、また逆に――いや、正規の景色へ戻っていく。しかし、海の青は段々と黒ずんでいく。まるで、意識を奪われていくような感覚。

ㅤその光景を見て、私は悟った。そうか、元々無意味なはずだ。この場所がどこかも、本当は分かっているはずだ。意識が消え、死にゆく私の体がそれを証明してるじゃないか。

ㅤ彼を追って、海に身を投げたのだから。


ㅤ走馬灯の中でも、私は彼の生前の記憶を蘇らせて、生に執着しようとしている。彼が生きていたら、幸せな暮らしをしていたら、と。結局、私が一番、幻想にすがりついていたのだ。



――美羽……。



ㅤ遠くから聞こえる、私を呼ぶ声は、 彼の声ではなかった。いつか昔に聞いた、私の母の声。ああ、この声が、私をきっと癒してくれる。落ちていけば、もっと近くで声を聞ける。そうだ。私が本当に求めていたのは……。


ㅤ私を癒してくれる、温もりだったんだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

逆景色の心海 @eyecon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ