56
わたしは従者の男性からグラスをしっかり受け取り、ディルミックに渡す。わたしからグラスが離れる一瞬、先ほどのことが思い出されて変に力が入ってしまったが、ディルミックは取りこぼすことなく、そのグラスを受け取った。
しばらく検分したのち、「問題ない」とディルミックは、自身のグラスと一緒に、別の従者へとグラスを渡す。その従者は、ディルミックから直接グラスを受け取ることはなく、お盆ごしであったが、しっかりそのグラスを受け取り、それを王子の前に差し出す。
王子もまた、そのグラスを見て、軽く頷いた。
「確かに、確認させて貰った」
「グラスを割るまいと咄嗟に手を出した彼女の行動が報われたようでなによりです」
ディルミックは、やはりことさらそれを強調して言った。表面上は穏やかに聞こえるが、やはり、依然として会場には緊張の空気が漂っている。
「騒がせて申し訳ない」
ディルミックが頭を下げた。わたしもそれに続くべきではと、とにかく頭を下げようとしたが、王子はそれを軽く手で制する。
「いや、謝らないでいい。『手を滑らすこと』など、誰にでもある」
そう言って、彼は手を軽く上げた。それに反応して、再び音楽が流れ出す。
ようやく会場の空気が緩んだというか、ざわざわという話し声が徐々に戻ってくる。わたしたちに集中していた視線も、まばらになるのを感じた。よかった。
それにしても、手を滑らす、という言い方が、どうにもわざとらしかった。王子からも、従者の男がわざと手を離した様に見えたのだろうか。
しかし、顔色を伺ってみても、王子は軽く口角を上げていて読みにくい表情を浮かべているし、従者の男はしれっと無表情を貫いている。彼らが何を思い、この状況をどう受け取っているのか、わたしにはさっぱり分からなかった。
義叔母様からは、貴族に絡まれたときのあしらい方は教えてもらったが、表情の読み方は教わっていない。あれはどうにも実践で培うスキルで、言葉で表現したところで分からないだろう、と、焼き付け刃にすらならないと言われてしまったのだ。
こうして、『貴族の作った表情』を見ると、確かにそうだと思う。全く分からない。
それでも、厳しい顔をしていないし、本当はどう思っているかは置いておいて、許してくれるようなことを言ったのであれば、これ以上言及されることはない……のか?
「改めまして、この度はご婚約、おめでとうございます」
ディルミックが場を切り替える様に言う。わたしはその言葉を聞いて、慌ててカーテシーで挨拶をした。
「祝いの言葉、ありがたく受けよるよ、ディルミック」
その言葉に、わたしは頭を上げる。ディルミックが祝いの言葉を述べたらわたしは黙って頭を下げ、王子が言葉を受け取ったら頭を上げるように、と義叔母様から言われていたからだが――頭を上げ、わたしは違和感に見舞われていた。なんだろう、これ。
王子の方をちらりと見て、その隣のご令嬢の表情が目に入り、ピンと来た。
ディルミックに対して嫌悪を隠しきれていないご令嬢に比べて、王子のディルミックへの視線が、柔らかいのである。王族だと表情を作るのが上手いのだろうか。
いや、なんとなくだが、それだけではないような気がした。貴族の表情が読めないわたしからしたら、なんとなくの勘になってしまうのだが。
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