55

 貴族家の総数が二十しかなく、しかも上から順に周るのであれば、わたしたちのところへ王子とその婚約者がやってくるのはそう時間がかからなかった。

 王子たちがこちらへくると、どこからともなく、わたしの横から従者らしき人が、低い腰ですっと手を出してきた。わたしはそれを見て、持っていたグラスを渡す。

 この人に渡して、彼らがグラスの中身が空であることを王子たちに見せ、そのまま回収していくのだ。


 わたしはその従者らしき男性がグラスを手にしたのを確認すると手を離し――同時に、何故か男性側も手を離した。

 手を滑らせた、と言えばそれまでのような行動。どうして、と思うより、落としたら割れる、という焦りが先行する。王族の婚約発表で使われるようなグラスだ。安物なんてあり得ない。平民出身のわたしからしたら、それこそ目が飛び出るような値段に違いない。

 それこそ、マルルセーヌの女の生涯年収分、とか――。


「――っ!」


 わたしは、ほとんど反射で、ディルミックの腕を振りほどき、男性の手ごと掴むように両手でグラスをキャッチした。爪を立てた様で、引っ掻いてしまった感触が指先に残るが、今はそれどころではない。

 グラスが落ちて割れなくてよかった。


 しかし、ほっとしたのもつかの間である。ぴりついた空気と、肌を刺すような視線に気が付く。


「あ――」


 やらかした、と思っても、もう遅い。わたし以外だと、角度的にディルミック、そしておそらくは王子やその婚約者のご令嬢からは、男性側も手を離した、もしくは、手を滑らせたところが見えていただろう。

 でも、遠目から見ていた貴族からしたら、急にわたしが両手で彼の手を握りこんだようにしか見えないはずだ。しかも、爪まで立てて、引っ掻いて。


 どうしよう。どうしたらいい。


 他国の平民が、めでたい席で何かやらかした。声こそ上がらないが、周りの視線が、そう言っているように聞こえる。

 わたしの体は硬直して、手を握ったまま、何もすることが出来ない。ほんの少し、指を伸ばせば手を離せるのに、そんな簡単なことも、どうやればいいのか分からないほど、頭の中は真っ白だった。

 そんな中、わたしと従者の男性の手の前に、すっと腕が伸びてきた。


「失礼」


 いつの間にか音楽も止み、誰一人喋らない中で、その声はとても響いた。


「そのグラスを貸して貰えるか。『落ちそうになった』グラスに傷が付いていないか、確認しないといけないのでね」


 『落ちそうになった』とことさら強調して、ディルミックは言った。彼が手を伸ばすと、従者の男の眉が、一瞬だけ動いた気がする。

 見間違いかもしれない、と思ったが、ディルミックが手をひっこめる素振りを見せたので、わたしの勘違いじゃないようだ。


「……僕なんかに触れられたくないのなら、一度手を離せ。ロディナ、グラスを持っていられるね?」


 グラスを持つ。

 ディルミックに言われたことを実行しようとして、ようやく指が動いた。

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