29.5

 扉を一枚隔てた先に、ロディナがいる。

 一度意識してしまえば、気になり、意識してしまって、ガラスペンを動かす手を止めては、ちらりと隣の扉を見てしまい、ハッとなってまた書類に目を通す。


「――あ」


 ぼたり、と、ガラスペンからインクが落ちたようで、無様な染みが出来ている。この書類はもう駄目だな、書き直さないと。

 僕は溜息を吐き、紙を横へとのける。これは気軽にごみ箱へ捨てられるような類の書類ではないので、後で他の書き損じとまとめて燃やさなければならない。


 こんなこと、つい最近もあったような……。

 いつだったか、と思い返そうとして、また扉を見てしまった。そしてまた、思い出したように、書類へ戻る。

 そうだ、ロディナが街に出かけたときだ。


 母様や姉様、妹といった、カノルーヴァ家の女性たちは、茶会や夜会、たまにあった家族での旅行くらいしか、家を出なかった。だから、『暇だから街に遊びに行きたい』というのは建前で、逃げ出したいと思っているのでは、と、本当に帰ってくるのかと、気になって気になって、何度も外を見てしまったのだ。


 結局、気になるのは彼女だからなのか。

 彼女はただ、純銀貨五枚で買った女性だ。確かに、貴族としても、純銀貨五枚は『はした金』と切って捨てられるような金額ではない。でも、すぐに取り戻せる金額だ。

 仮にこの結婚が失敗に終わったとしても、いつまでも引きずるような金ではない。


 ――それなのに、どうしてこんなにも、彼女がいなくならいか、そこにいるのか、気になってしまうのだろうか。


 あれやこれやと買い与えたから? ――別に、狭い部屋でもあるまい、ミニキッチンがあったところで邪魔にもならない。

 彼女のための講師を手配してしまったから? ――必要なくなったのなら、解雇すればいいだけだ。講師の彼女には悪いが。

 彼女と、寝たから? ――寝台に上がって相手をしてくれた『妻』は彼女だけだったが、初めてを捧げたのは彼女ではなく指南役の女だ。


 もし、次の女が来れば、ミニキッチンを使うだろうし、手配した講師をそのままあてがえばいい。次以降にも、しっかり『務め』を果たしてくれる女が来れば、彼女だけが相手をしてくれる特別じゃなくなる――。そんなことを考えて、ゾッとしている自分に気が付いた。

 しかも、動揺のあまり、インク瓶の底にガラスペンを勢いよくぶつけてしまった。間違いなくペン先が欠けた気がする。インク瓶から引き抜いてみれば、案の定欠けていた。これはもう駄目だ、修理に出さないと。


 僕はガラスペンを置き――再び、扉を見た。

 どうやら自分で思っていた以上に、彼女のことを意識しているらしい。三人目の『妻』までは、諦めからか、どこか頭の片隅で次の女性のことを考えてしまっていたのに、彼女相手だと、どうにも『次』を考えることが出来なかった。

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