第弐拾壱話 獄山



 獄山ひとややまというのがある。読んで字の如く、一度足を踏み入れれば進むも地獄戻るも地獄の何人をも拒む山岳である。


 あるいは直立する巨大な岩に苔のむした様のようにも見える。苔は山に茂る木々だ。


 その余りの嶮しさ故、霊山の名を頂くその山にはとある逸話がある。

 

 曰く、その頂上には水災に纏わる五頭ごずの龍が封じられているとか……いないとか。

 故に獄山とはつまり牢獄山であり、あるいは牢獄を示す人屋ひとややまであるのだと……。



「龍さ閉じ込めとるんに、人屋ぁなんておっかしな話だぁ」



 十九年住んでいるが、龍なん見たこともない。頂上にはなぁんにもなかっただ、とマサは言う。



「きっと、そんくれぇ嶮しいってことだべなぁ」



 そう言って、何の疑問もないような顔でからからと笑うマサの横で九郎丸は引き攣った笑みを浮かべた。



 住んでるって言ったのか、今ッ……?



 獄山と言えば人の立ち入れない秘境中の秘境である。そんな場所に、よもや人の村があるなどと誰が思おうか。仕事柄、地理にはそれなりに通じているつもりでいた九郎丸さえも初めて耳にしたことだった。


 目の前にそそり立つ断崖絶壁を見上げながら、九郎丸は冷や汗を流す。もし足を踏み外して転がり落ちたら、そのまま地面に真っ逆さま。ただでは済まない。恐ろしいのは以前の彼ならいざ知らず、今の九郎丸の足ではその可能性が非常に高いことだ。



「あ、あの、マサさん? まさか、村のある山ってこの……」


「ん? 言ってなかったけぇね? そだよぉ、こん山ンちょっと登ったとこに、村さあるだ」


「えぇ……」



 全然大丈夫じゃなかったと九郎丸は戦慄する。

 その九郎丸の内心を感じ取ったのか、顔を青くする九郎丸の袖を辻がきゅっと握りしめる。



「ん」


「辻……」



 あぁ自分がしっかりしなくては、と九郎丸は何とか気持ちを持ち直した。ここで九郎丸が折れていては、辻が不安がる。



「九郎さ……?」


「いえ、大丈夫です。大丈夫……」



 マサに応えると言うよりは自分に言い聞かせるように九郎丸は大丈夫と繰り返した。


 断崖絶壁なんて、今まで相手にしてきた魔物たちと比べれば可愛いものではないか。何せこの山、というにはいささか傾斜がおかしい気もするが、この山は牙を剥きだして襲い掛かってきたりも爪に掠っただけで死ぬ猛毒を持っていたりも、あるいは姿が見えなくなったり炎を吐いたり雷を操ったり幻を見せたりなどといったことはしないのだから。



「九郎さは足が悪いけぇ、村まではおらが抱えていくだ」



 ……それはある意味、魔物を相手取るよりも厄介なことではなかろうかッ?



「大丈夫だ! おら、九郎さよりもでけぇ猪担いで山ぁ下りたことあるだよ。九郎さは細っこいけぇ、なぁんも心配はいらねぇだ!」



 九郎丸の沈黙をどういう意味でとったのか、マサはどんと拳で胸を打ち、自信満々でそう言った。


 この状況にあっても、九郎丸は張り付けた笑顔を浮かべる他なかったのだった。


 後に九郎丸が語るところによれば曰く、隠密とは速さと小回り、機密性が命である故に比較的細身で身軽、小柄な人物が良しとされ、それに即した身体の作り方鍛え方があるし、マサに負担を掛けないに越したことはないのだが、それでももう少し体格が良ければよかったなぁと後悔したのは後にも先にもあの時だけだ、いやはや慣れといものは恐ろしい、と遠い目で語ったとかなんとか。


 背中に辻を背負い、軽々と胸の前に九郎丸を横抱きに抱えたマサの言葉に嘘はなく、いつか見た天狗の如く、最早反り立った壁と言うべき山道をひょいひょいと登っていった。



 道中の景色を九郎丸は見ていない。何せ、色んな羞恥心から終始、両手で顔を覆っていたのである。


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