第弐拾話 マサの故郷



 マサはもともと明朗快活、竹を割ったようなさっぱりした質の女で、九郎丸と会話を交わすうちに罪悪感で萎んでいたその気質を取り戻していったようだった。


 町を発って数刻、たったそれだけの時間でここまで打ち解けたのは偏に、彼女のその朗らかな性格に所以するのだろう。 純朴な彼女の人柄に、誰しもが持ちうる他者に対する自然な警戒心は直ぐに解けた。


 特に彼女の故郷らしき村の話は九郎丸には大変興味深かった。

 山が近くにあるのか、猟師が猪や鹿を撃った日には村の集会所に集まっては宴会を開くのだと言う。マサの口からは飾り気のない、だが不思議と惹きつけられるような村の様子が語られた。身振り手振りを駆使し、表情をころころと変えながら情緒たっぷりに語られるそれは、九郎丸の心を慰めた。


 今はもう殆ど会話はマサが喋っている状態で、九郎丸はそれに相槌を打ったり短く言葉を返すのみであった。これは九郎丸自身が話すより聞くことを好む種類の人間であったことも要因の一つではあるが、それを苦痛には感じなかった。



 良い人と出会った。



 九郎丸はマサの話を聞きながらそうしみじみと思う。

 

 邪気のない純粋な言葉は耳に心地良い。


 よほど、故郷を好いているのだろう。それが声音から十分すぎる程にわかる。新天地への期待は否が応でも高まった。



「村ン山で育った暴れ猪はまんまるに肥えてほっぺた落っこちるほど美味ぇべな、九郎さにもたんと御馳走すっだ!」


「猪肉ですか、それは楽しみですね」


「んだ! 楽しみにしててくだせぇ、辻さにも猪肉たんと食わせてやるだよ。子どもは食わにゃあ、おっきくなれねぇ。腕が鳴るべ!」



 握り拳を固めたマサに、九郎丸が目を丸くする。



「もしや、猪を、マサさんが撃つのでしょうか?」



 マサが背に担いだ猪撃ちの鉄砲に目をやりながら、九郎丸はマサに尋ねた。



「んだべ、村ン大人はみぃんな猟師さ」


「それは凄い」



 九郎丸は素直に感心したようにマサを讃えた。

 おなごにはいささか大ぶりなその鉄砲を自在に使いこなすマサの姿を思い浮かべる。


 普通の男ならば狩りをする女に良い顔はあまりしないものだが、生憎九郎丸は普通の男ではない。彼はマガリの元頭領。マガリには少ないながらも女性は居たし、さらに少ないながらも戦闘に加わる者もいた。九郎丸の妹分などがいい例だ。


 彼女らの山猫を思わせる柔軟に鍛え上げられた肢体、そのひねりから繰り出される鞭のごとき一撃は、並みの男なら容易く昏倒させられる威力を持つ。女性はか弱く守られるべき者という考えはマガリには存在しない。


 そんな環境で過ごしてきた来歴故、女だてらに猪を狩るような強さを持ったマサを厭うどころか九郎丸は彼女に尊敬の念を抱いた。


 自ら猪を狩ると言い放ったマサもマサであるが、それを当たり前のように受け入れている九郎丸も九郎丸。どちらも丗に言う普通とどこかズレており、怪我の功名とでもいうのであろうか、妙なところで噛み合った二人であった。無論、幼い辻にそれを突っ込めとは土台無理な話である。


 しかし馬が合わぬよりは良いことだ。


 そしてもう一つ、今更ながらではあるが、双方打ち解けてきたためか、互いの呼び名に変化があった。


 九郎丸さま、貴方さまと呼んでいたマサは九郎さ、と気さくに九郎丸に呼びかけ、マサ殿と呼んでいた九郎丸はマサさん、と堅さが幾分か取れた様子である。


 辻も相変わらず九郎丸にぴったりと寄り添ってはいるが、九郎丸同様、マサに対する警戒心はもう解かれたようで、言葉こそないものの名前を呼ばれれば目を合わせてこくりと頷き、微かながら頬を緩めて表情を見せるまでになった。


 これは辻の言葉少なさを少なからず気にかけていた九郎丸にとっても良い兆しである。こうして人との関りに慣れてゆけば、何れ自然と言の葉も出てくるだろう。そう思えば嬉しかった。


 九郎丸はマガリを追われた不運の身を嘆かぬ程に冷淡な人間ではない。それでも、辻と寄り添い、こうしてマサと言葉を交わしていると心が安らぐのを感じる。

 マガリであった時の自分であれば、このような未来を想像すらしなかっただろう。


 あの場所、あの仲間たちを忘れた訳ではない。

 生涯、九郎丸は彼らのことは忘れないのだろう。過酷ながらも確かに感じていた幸福と共に、追放という苦い記憶と共に。


 未来とはわからぬもの、因果縁とは誠に奇特なものとつくづく思う。

 宿の女将が言っていた良いことがあるというのも、あながち的外れではないのかも知れないな、と九郎丸は楽観的な思考に身を委ねた。



「村の近くに山があるというのは、きっと良いものなのでしょうね……」



 マサが語る村の話に耳を傾けていた九郎丸が不意にぽつりとそう呟いた。


 猪は肥え、子らが駆け、恵が実る。


 九郎丸の脳裏にはそんな言葉が浮かんだ。しかし、そんな九郎丸の言葉をマサは笑って否定した。



「違ぇだよ九郎さ、村ン近くに山があるんでねぇよぉ。



 途端、九郎丸は浮かべていた心からの穏やかな笑みをこちん、と固まらせた。


 山の中、という言葉に疑問が浮かぶ。



「山の中とは……?」



 恐る恐ると言った様子で聞き返した九郎丸に、マサは特に疑問も感じぬ様子であっけらかんと言う。



「言葉の通りでさぁ、山ン、そうさねぇ、真ん中よりちょいと上の辺りに村があんだべ。村までの道がねぇもんで、とーんと人が来ねぇ田舎だが、食い物の美味ぇ良いとこだよぉ」



 マサは九郎丸の足が悪いことを忘れているのではなかろうか。想像していたのどかな村と現実が少しずつずれ始めたことに、九郎丸は一抹の不安を覚えた。


 いや、村があるくらいだ。きっとなだらかな山に違いない。だって普通に考えてそうだろう。


 そんな不安を抱きながらも、九郎丸は無理やりに楽観的な思考を引き戻す。



 後に、九郎丸は語る。


 あれは田舎などという生易しいものではない。

 あれは秘境である、と――。


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