第拾参話 紅の髪、翡翠



「いいですか九郎丸さん、女にとって髪とは命に等しいものです。不用意に切るなんて言語道断ですよ。痛んだ髪だって、油を塗って櫛できちんと梳いてあげれば綺麗になりますからね」


「はい……」



 場所は宿の一角、今宵限りの仮の住まい。ぱちんぱちんと髪を切る小気味良い音を聞きながら、九郎丸はしおらしく頷いた。


 というのも無理からぬ話で、綺麗に洗われて戻ってきた辻の髪をこともあろうに糸切り鋏で切ろうとしたところを女将に発見され、こっぴどく説教されたのである。なんせ九郎丸、痛んでいたからと男児のようなざんばらに切ろうとしていたものだから、それを見た女将は悲鳴を上げそうになったと後に語った。


 当然、すぐさま九郎丸の手から鋏は取り上げられ、意外や意外、昔は髪結いを目指していたという女将に再び辻は任されたというのが事の顛末である。


 いい年をして子どものように叱られた九郎丸は、語る際には必ずあのと頭に付けられるマガリ一座の元頭領である風格すら失って、雨に打たれた子犬のように肩身を狭そうにして畳の間にちょこんと鎮座していた。


 しかしまぁ女将の小言ももっともではあるが、九郎丸は幼少の頃、貧しさに喘いだ寒村から紗綾共々マガリに売られた身。その時より翁に才を買われ、隠密としての修練に明け暮れ、ほんのつい最近までは魔物退治などという人並ならざる生業に就いていた。多少の世間知らずも無理からぬ話といえよう。殊、女のこととなれば、命の証のなき者たち故、その存在すら貴重で、その中で女らしい女など居よう筈もない。邪魔と断じれば魔物の血で濡れた己の得物で髪を落とすのがマキリの女である。責めるのも酷というものだが、女将にそんな言い訳は通じない。彼女は女の味方である。


 とほほ、と九郎丸は肩を落とした。



「さぁて、できました。ほら、べっぴんさんになったでしょう」



 髪を切り終わり、女将の私物であるのか年季ものだが椿油の染み込んで見事な飴色の光沢を持つつげの櫛で辻の髪を梳いてやれば、成程女将の言う通り、辻の髪は子ども特融の柔っこく艶のある髪本来の姿を幾何かとりもどした。


 その出来栄えに満足そうに頷くと、女将は買ってもらった折角の着物が髪の屑だらけにならぬよう、辻の首から下を覆っていた布を取り払った。


 汚れがひどかった所為でわからなかったのだが、辻の髪色は珍しく、強く赤味を帯びたものをしていた。伸び放題のそれを肩に触れる程の長さに整えてやると、髪に隠れていた顔が露わになる。少し三白眼気味の辻の瞳は美しい翡翠の色であった。


 異人の子。


 外津國から来たとされる言葉の違う人々。その血が辻には混じっているのだろう。



「おお、随分とすっきりした」


 そう言って九郎丸は微笑んだ。

 風呂に入れられ、古着ではあるがきちんと丈のあった清潔な着物を着、髪を切って整えた辻は見違えていた。もはや誰も、辻を汚らしいみなしごとは見ないだろう。邪見に扱われ、理不尽を被ることもあるまい。



「こういう時は、見目を褒めるものですよ」



 感心する九郎丸へ女将の駄目出しが入る。これにも大人しくはいと九郎丸は頷く。女将は自分の髪切りの腕前と辻の可愛らしい出来栄えに惚れ惚れとしたようで、僅かばかり頬を少女のように紅に染めた。


 九郎丸も女将もその奇異な色味を気味悪がるようなそぶりはみせなかった。片や常日頃から異形の恐ろしい魔物を相手取っていた集団の元頭領で、片や人間相手には海千山千の宿屋の女将である。今更髪や目の色程度で騒いだりするはずもない。


 だが、辻は違った。


 泥を塗って汚した髪の色、隠した目を露わにすることに、少なからずの恐怖があった。九郎丸がその程度で辻を見限る訳がないとわかっていた。わかっていても、投げつけられた石の痛みや怒鳴り声がそれを許さなかった。


 漸く、辻は完全な安堵を得たのである。



「辻……?」



 九郎丸が疑問の声を上げる。



「ぅう……ぁ……」



 辻は声を発した。何を伝えればよいのかまるでわからなかったが、それでも伝えたい思いが、そんな声となって零れ出た。


 それは辻が九郎丸と出会って、初めて自ずと口に出した声だった。

 辻は九郎丸を求めるように短い手を伸ばし、ぱたぱたと九郎丸に駆け寄ってその胸に飛び込んだ。九郎丸は後ろに倒れそうになったのをどうにか堪え、辻を受け止める。



「あらあら、寂しかったのかしら」



 女将が頬に手を当てて微笑ましそうに九郎丸らを見る。辻の声に少し驚いた九郎丸であったが、その表情も次第に柔らかく変化する。九郎丸も悪い気はしなかった。


 九郎丸は懐にうずくまる辻の鮮やかな朱の髪を愛おし気に撫でた。いつの間にかすよすよと穏やかな寝息が聞こえ始めていて、女将と九郎丸は互いに顔を見合わせて微笑んだ。


 温かな湯につかって、髪を切るうちに身体が冷めれば眠くなるのは当然だ。

 これから何か美味いものでも食わせてやろうと思っていた九郎丸だったが、揺すり起こすのも忍びなく、またこれからは何度でもその機会はあるだろうと今はしばし眠らせてやることとした。


 蒲団代わりに自分の着ていた羽織を脱いで、膝を枕に頬をつけて眠る辻の背にそっとかけてやる。


 女将はその間にそくさくと髪切りの後片付けを行っていた。斬った髪が畳に散らばらぬようにと下に敷いた風呂敷に、切り落とした髪も全て纏めて包む。



「済まないな、何から何まで」


「いいえ、手間賃はきっちり頂きますから、お気になさらず」



 にっこり笑った女将の顔に九郎丸は頬を引きつらせた。手持ちの銭を思い浮かべ、頭の中で素早く算盤を弾く。大丈夫、まだ余裕はあった筈だ。でも辻にあれやこれやを食わせてやりたいし……。贅沢は禁物であると今度は苦く笑う。


 まったく流石と言うべきか、しっかりというかちゃっかりしている女将がごゆっくりと言って頭を下げ、すすす、とん、と静かに襖が閉まった。



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