第拾弐話 風呂のある宿屋
「……貴方が、そのような表情を妹御さま以外に向けるところなど、初めてみましたよ」
不意にそんな声が降りかかり、見れば傍に控えていた女将があの笑顔の崩れぬ顔を微かな驚きに染めて九郎丸を見つめている。
「その子は?」
伝え聞かぬ童の存在に、女将は僅かばかり戸惑っている様子だった。なるほど、さしもの磐見殿と言えど、辻の存在は予見できまい、と九郎丸は独り言ちた。
「辻という。縁あって拾った子だ」
答えてから、九郎丸は少し考え込んで女将に聞いた。
「……おれは、それほど仏頂面だったろうか?」
「仏頂面という訳ではありませんがね、人形のように笑う方だと思っておりましたよ……。あら、私としたことが、とんだ失礼を」
「いい、気にしていない」
両足と、ついでに杖の先に付いた泥を落として九郎丸は宿に上がった。女将の計らいで、宿の床を気付つけぬよう杖の先には布が巻かれ、九郎丸が歩く度に柔らかな音を立てた。
と、そこに先程の奉公人が現れる。
「お風呂のご用意ができました」
「あぁ、それはご苦労。女将、直ぐに使わせて貰ってもよいだろうか。この子を綺麗にしてやりたい」
そう言いながら九郎丸は横を寄り添うように歩く辻の頭を撫でた。辻の髪は痛みが酷く伸び放題で、ごわごわと堅い感触だった。風呂の後で切ってやらねば。
「あの、つかぬ事をお伺いいたしますが、貴方が洗ってやるおつもりで?」
その問いに何か違和感を覚えた様子で女将が九郎丸に尋ねる。
「何か問題でも?」
何の気兼ねも無しにそう答えた九郎丸を、先導していた女将は振り返り、信じられないものを見るような目を向けた。
「いえ、この子、女の子でしょう?」
女将の言葉に九郎丸は辻を見下ろす。
「ん? 辻お前、おなごだったのか、そうか」
ただですら子どもの性差は判別がつきにくい。辻の場合、伸び放題の髪ややせ細った身体もそれに拍車をかけていた。しかしだからと言って九郎丸の頓着が無さ過ぎるのは問題である。
「いやしかし、まだ子どもだろう?」
「まぁ、なんてこと」
女将はけろり答えた九郎丸の返答にそのように言ってから、表情を固めて九郎丸を見た。
「いいですか九郎丸さん、子どもといえどこの子は女ですよ」
「おんな……」
自分にとっては幼子でしかない辻に、思いもしなかった言葉がひっ付いて九郎丸は困惑した。
「そうです。それが一緒に風呂に入ってあまつさえ洗ってやるだなんて。前々から思っていましたがね、貴方は女性の方との関わり合いが無遠慮すぎます」
「はぁ……」
「その子は女の私が責任をもって綺麗にして差し上げますので。いいですね」
「はぁ……」
九郎丸、最早気の抜けたような返事しかできず。女の、という部分を強調する女将の気迫に押され、釈然としないながらも彼女の提案を受け入れた。
九郎丸から許可をもぎ取った女将は近くを通った奉公人に九郎丸の案内をするようにと指示し、辻に向き直った。
「さ、辻さん。こちらへいらっしゃいな。お風呂はとても気持ちがいいですよ」
女将は辻に優しく笑いかけたが、本人はその目をじっと見つめるのみで動こうとはしない。
「いっておいでなさい。案ずることはない。怖いことなど何もないから」
そう言って九郎丸が軽く辻の背を押してやって、漸く辻は女将に一歩歩み寄る。
そうして一度確かめるように九郎丸を見上げ、それに頷き返してやると漸く、辻は大人しく女将に風呂へと連れられていった。
「ささ、こちらへ」
ぽつんと残された九郎丸を案内を頼まれた奉公人が促す。
「あぁ」
九郎丸はそのような生返事をして、どことなく寂しくなった自身の左手に目をやった。いつの間にか、杖を持たぬ九郎丸の左手は辻の手と繋がれることが常となっていた。
「あの……」
少し困ったような声に九郎丸は我に返る。
「悪い」
不安げにこちらをみる奉公人にそう短く返して、九郎丸は案内に従った。
辻の傍らに居らぬ今暫し、九郎丸はいままで誤魔化されてきた孤独というものを改めて噛みしめるのだった。
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