第拾壱話 或る町にて
共同の井戸から汲み上げた水で手ぬぐいを濡らし、九郎丸は辻の汚れた手や顔、髪を拭ってやった。無論、それだけで汚れが落ちることは無いのだが、それでも少しは見られるようになる。
だが、辻の着る捨てられた襤褸切れ同然の着物はどうしようもない。大人の着物を拾ったのか、大きさも全くあっていなかった。
この町での主な目的は辻の身なりを整えることだ。子どもの着物を買い求め、少々値は張るが風呂のある宿に泊まって綺麗にしてやるのだ。九郎丸はそんな事を考えながら辻の頬に付いた汚れを手ぬぐいでごしごしと擦った。
「むぅ」
「良し、綺麗になった」
井戸の縁に手をつき、折った膝を伸ばす。立ち上がるにも支えが必要な状況に不自由を感じながら、立てかけた杖を片手に、もう片方で求めるように伸ばされた辻の手を握る。
この不自由な脚が無ければこの子とも出会わなかったのだと思えば、どこか不思議な心地がした。
九郎丸は辻の手を引いてまたぶらりと町を歩くこととした。といっても意味もなく歩く訳ではなく辻の新しい着物を買ってやるつもりだ。
ただ困ったことに、孤児であった辻は当然のことながら九郎丸さえもそれほど身なりに頓着する質ではなかった。清潔で丈夫な仕立てであればいいとだけ思っているので、柄や色合いなんかは全く分からず、結局手に取ったのはよりにもよって毒々しい紫の着物であった。
「店主」
「そりゃあ、やめとけ」
これを貰おう、という前に不愛想な古着屋の店主がそう告げた。
「売り物ではないのか? 何故売れないものをおいている」
「店の中がスカスカじゃあ、恰好がつかねぇだろう。その二つ付いた目をきちんと開いてよく見てみろ、そんなもの着せたら子どもの具合が悪くなる」
「それをそちらが言うか?」
九郎丸は大いに呆れながらも、今度は無難な色の着物を二つ三つ選び出し、店主がうんと頷いて服選びはなんとか無事に終わった。
「これから風呂に入れてやるからな」
そう辻に語り掛けるが、辻は風呂とは何であるのかいまいちぴんとこないらしく、わからないままにこくんと頷いた。
「そうしたら、また美味いものでも二人で食べよう」
この世にはみたらし団子以外にも美味いものが両手で数え切れないほどあるのだと、九郎丸は辻に教えてやりたかったのだ。
宿に着くと女将が奉公人二人に足濯ぎ用の湯を溜めた桶と手拭いを用意させていた。ここで足を洗って宿に上がるのである。 ちらりと女将は辻に目をやったが、そこは流石というものでその如何にも孤児といったいで立ちの辻の姿にも顔色を変えることなく九郎丸に笑いかけた。
「磐見殿から聞き及んでおります。お待ちしておりました」
思いがけぬ名を聞いて、九郎丸は少しばかり驚いた。しかし思い返してみれば、磐見という男はあのような見かけをしていて中々に気配り上手である。恐ろし気な顔と堅物すぎる態度に皆は誤解をしているだけであるのだ。
おれが何処へ立ち寄るかも、全てお見通しか……。
九郎丸がまだ少年であったときから世話になっているだけはある。
感謝申し上げます、磐見殿。
心の中で九郎丸はそう、磐見に礼を述べた。
この宿は一座にまだ身を置いていた頃に何度か使ったことがある。所謂御用達というものだ。マガリは命の危険がある分実入りが良い。こうして丁寧にもてなされているのもマガリ一座を良い客としてみているからだろう。磐見の言付け故である。マガリを抜けて根無し草となった九郎丸は女将の笑みに曖昧に笑うしかなかった。
「代金は既に頂いております故」
さらりと告げられた言葉に、最早足を向けては寝られぬなと九郎丸は苦笑した。あれで、情に厚い男なのだ。
「女将、風呂の準備をお願いしたい。上乗せして払っても構わないから」
「承知いたしました。直ぐに用意させましょう」
了承の意を示すと女将は傍の奉公人にてきぱきと指示を出す。九郎丸は一度お辞儀をしてその場から去る奉公人の背中を見送った。
辻はもう一人の奉公人に任せて、九郎丸は自分の脚絆を解く。相も変わらず鈍い痺れを伴う右足を桶の中に持ち上げて入れれば湯の温かさをほんのりと感じた。九郎丸は感慨深げに自身の足に走った傷跡を撫でる。ざらりとした感触、微かな錆の匂い。
「みぇー……」
ふと、そんなみょうちきりんな猫のような声に横を見やると、汚れた足をごしごしとやられながら、辻が湯の温かさに目を細めていた。少しくすぐったそうに口をむにゃむにゃとしているが、不快には思っていないようだった。むしろ、心地良く感じているのだろう。これは風呂に入れてやったならさぞ喜ぶだろうと思えば自然、九郎丸の頬は緩んだ。
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