第漆話 夜襲
「すまんなぁ、おれの所為で……」
人影のない、夜のあぜ道を九郎丸は辻と共に歩いていた。辻というのは九郎丸のつけた子どもの名前である。
聞けば、名前らしい名前を持たぬ子どもに、では今まで何と呼ばれていたかと尋ねれば子どもは平坦な声でこう言った。
「のらいぬ」
これには九郎丸も閉口した。呼び名が野良犬では子どもが余りに不憫に思えた。それ故、九郎丸は子どもに新たな名を与えることにしたのだ。
辻と名付けた由来はその子どもと出会った所がちょうど大通りの辻であった為だ。案外安直な理由だが、これでも九郎丸が苦心して考え付いたものだった。
子の名付けと同時に九郎丸は己の名を教えたが、このような二人ぼっちの現状では、おいお前、でこと足り、二人が互いの名を呼び合う機会にはとんと恵まれなかった。
特に辻の方は九郎丸の名を呼ぶことはこれまで一度もなく、決して口が利けぬ訳でもなかったが、別段九郎丸を厭んでいるというような様子もないので何れ時が経てばと九郎丸は気長に待つ事とした。
そんな二人が口数も少なく夜道を行く。子どもを連れての夜を行くのは危険が伴ったが、せめて木の洞でも見つけないことには野泊まりもできぬ。
辻は九郎丸の他にも掏摸を働いていたらしいのでなるだけ早くあの町から立ち去るべきかと考えたのだが、早計だったようだ。
日はもうどっぷりと暮れてしまって、上を見上げれば月が円満に浮かんでいた。これは九郎丸の失態だった。未だこの杖をつきつつのんびりと道を行くことに慣れていなかったのだ。
昼時に一度昼寝をしたものの、そこからこのような刻まで歩き通しでは子どもの体力は保つまい。辻などは孤児であって十分にものを食えないのが常であったから、それは猶更だった。疲れと眠気でつま先を引きずっている。
「おれが、負ぶってやれればいいのだが」
以前であれば痩せた子どもくらい負ぶるのは訳なかったが、足を患った今はそうもいかず、辻には己の足で歩いてもらう他なかった。
眠い子の手は温い。
己の手の中にあるその小さな温みに、こんな時でも拘らず九郎丸は微笑んだ。
きっと、おれは幸運だ。
風の音のみを供として行くには、この夜は寂しすぎる。
半分寝落ちながら歩かされた辻には悪いが。
九郎丸は幼子の眠たげな顔を見下ろした。
「おい」
突然誰もいない筈の道で声を掛けられ、九郎丸は顔を上げた。
何処に潜んでいたのか、細いあぜ道を塞ぐようにして男が三人、九郎丸らの目の前に立っていた。全員が辻と似たり寄ったりの襤褸切れに粗悪な太刀を引っ提げ、そのうちの一人が簡素な胴鎧を着ていた。
「身ぐるみ、置いてけ」
低く脅しつけるように胴鎧の男が言った。
夜盗。
そう悟り、九郎丸がその表情から笑みを消す。
九郎丸は辻を己へと引き寄せた。辻は言葉こそないものの、怯えたように九郎丸へ縋り付く。その背を安心させるようにぽんぽんと軽く叩いてあやしながら、九郎丸は目の前の男どもを鋭く刺すように睨めつけた。
「ッ……!」
その殺気に胴鎧の男の後ろに控えた二人がたじろぐ。夜に惑ったいいカモと侮っていた相手の思わぬ気配に冷や汗を流した。
「こっちは三人だ。諦めろ」
だが、二人の前に立つ胴鎧の男だけは九郎丸の威圧にも屈さなかった。男の言葉は九郎丸にというよりも後ろ二人に向けられているようだった。
こちらは三人いる。相手は足の悪い若造が一人と餓鬼が一匹。臆すな、と。
なるほど、この胴鎧の男が夜盗共の頭か。そう九郎丸が冷静に施行する内に頭の叱咤に後ろの二人が戦意を取り戻す。
それでも尚、九郎丸は強情な態度を崩さなかった。
「忠告悪いが、そちらにくれてやれるものなぞ鐚一文無い」
「……斬れ」
無駄口を叩かず、夜盗の頭はただそう言って、九郎丸を顎でしゃくった。それを合図に手下らしい二人が一斉に九郎丸に斬りかかる。
九郎丸は動かなかった。
動いていないように見えた。
「ギャッ!」
最も早く刀を振り上げた夜盗がそんな悲鳴を上げて野太刀を取りこぼす。その手には何時放ったのか、黒塗りの棒手裏剣が深々と突き刺さっていた。痛みに身を強張らせたその一瞬をつき、九郎丸の杖が夜盗の横っ面を激しく打ちすえる。ごっ、という音が鳴って夜盗はあぜ道から転がり落ち、田んぼの泥の中で動かなくなった。
間髪入れず二人目が横薙ぎに刀を振るうが、九郎丸は木製の杖でその刀身の腹を叩き上げ、弾く。身をさらけ出した夜盗の喉ぼとけに鋭い突きを一撃、更に追い打ちとして鳩尾に一発くれてやれば夜盗の目は白く裏返って泡を吹く。
倒れ行く手下の影に隠れるようにして頭が九郎丸に襲い掛かったが、九郎丸はその奇襲にさえ冷静を欠くことはなかった。
ただでさえ暗い夜、慣れぬ者ならば成す術なく餌食となったであろうが、暗闇を味方につけるには相手が悪すぎた。
足を悪くしたとはいえ元は凄腕の隠密、夜襲では九郎丸が一枚上手。これ程明るく月が照らす中だ、目まで悪くした覚えなどない。
骨をも断たんばかりの頭の斬撃に、九郎丸は杖を防御に掲げた。その愚行に頭の顔が嗤う。その杖諸共断ち斬ってくれるわッ……!
しかし、頭の太刀が九郎丸の杖に微か触れた瞬間、九郎丸はかくんと杖を傾けた。
「なにッ⁉」
刃は九郎丸の杖の表面を職人のかんなのように、向こう側が透けるほどに薄く削っただけで完全にいなされた。流れた切っ先は留めること叶わず、そのまま地面へと突き刺さる。
九郎丸は素早く杖を逆手に持ち替えると、刀の峰を打って更にその刀身を深く埋めた。刀がより強固に固定され、それを引き抜こうと頭の動きが一瞬止まる。
九郎丸に一瞬は十分すぎる。
居合の達人の如く美しい弧を描く杖の先が、頭の顎を強かにかち上げた。
天を仰ぐようにして静止、次いで頭の身体が痙攣し、その直後にどぅっという音を立てて真後ろに倒れ、沈黙した。
この間、九郎丸、一歩も動かず。
だが、支えの杖を振り上げた九郎丸もまた、身体の均衡をぐらりと崩し、地面に倒れ込んだ。
「あいたた……。これではまったく格好がつかんな……。無事か、辻」
辻は賢く、九郎丸の下敷きにならぬようにとっさに退避していたらしい。心配そうに寄ってきては、九郎丸を見下ろした。
杖と、そして辻の手も借りて漸く立ち上がった九郎丸は、マガリの者たちが用意した杖の出来に感心する。木を特殊な塗料で固めたことで木製とは思えぬ程の強度を持ち、重心の位置一つをとっても、杖としては勿論武器としての用途が前提に置かれていた。
少し削れてしまった表面を指の腹で撫でながら、九郎丸は改めて一座の者たちに感謝の念を抱いた。こんなところで不意に、かつての仲間たちの温かさを思い出す。
それから自身の周囲に転がる、気絶した夜盗たちの存在も思い出して、九郎丸はため息を吐くのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます