第肆話 旅立ち



 支度を整え、髪を編み、有言実行。九郎丸は言葉の通り、歩く頼りの杖が届けられると同時にマガリの屋敷を出た。丈夫でしっかりとした造りではあれど簡素な杖一本に随分時間がかかったものだが、その意味がわからぬ程九郎丸は鈍くはなかった。


 皆の手前、厳しいことを言わざるを得なかった翁に感謝しながら、慣れぬ歩みで九郎丸は屋敷を後にした。



「お、隠密頭っ!」



 屋敷を囲う塀の門を出たところで、九郎丸は声を掛けられた。まだあどけなさの残る声には覚えがある。



「もうおれは隠密頭ではない。それはお前だろう黒縫。自覚が足らんぞ」



 少し冗談めかして九郎丸は黒縫と呼んだ声の主を叱る。


 九郎丸が視線を向けた先、屋敷を囲う白塀の上、丁度傍に立つ木の枝が影を作る場所に紛れるようにして人影がある。九郎丸に声を掛けたのは、黒装束に身を包んだ少年だった。癖のある髪と団栗のような目元が特徴的である。



「でもっ……!」



 黒縫は否定の言葉を詰まらせ、代わりに小さくはい、と頷いた。



「九郎丸殿、これを。その足では何かと不便でしょう、生活の足しにして下さい」



 塀の上から飛び降り、九郎丸に駆け寄った黒縫が差し出した巾着を受け取り中を見れば、当分は生活に困らないだけの銀が入っていた。



「黒縫、これは……?」


「おれたち隠密からの餞別です。みんなで少しずつ出し合って集めました。受け取って下さい。そうじゃないとあいつ、きっと気を病みます」



 あいつ、というのは九郎丸が助けた隠密の者だろう。名は確か葛西と言ったか。少し気弱だがその気質は隠密に向いていると九郎丸が目を掛けていた者だ。生存者共々無事とは聞かされていたが、思えばあれから遂に顔を会わせることなく今日この日が来てしまった。



「葛西は息災か? 怪我の具合はどうだ」


「はい、骨を痛めたようですが治ればまた動けるようになると」


「そうか、それは行幸だ。しっかり支えてやれ」



 九郎丸の脚はもう元には戻らない。前のように走ることはおろか、支え無しで歩くこともままならなかった。しかしどうやら葛西の方は休めば完治するらしい。訓練された隠密は貴重な人材だ。それならば九郎丸のように追い出されるようなこともないだろう。


 よかったと喜ぶ九郎丸を前にして黒縫は複雑な表情を浮かべた。



「なんで、九郎丸殿が……」


「言うな黒縫。翁もさぞ心苦しかろう。餞別、有難く受け取っておく」



 素直に巾着を懐にしまった九郎丸に。黒縫は安堵したように表情を緩めた。

そこへ突然、水を差すようにやけに厭味ったらしい声が割り込んだ。



「あァ? テメェ、まだ居やがったのか」



 途端に黒縫の表情が曇る。



「何の用です、薊丸殿」



 声のした方を振り返りながら、嫌悪感を隠そうともしない声音で黒縫が問う。



「繰り上がりで頭領になった癖して、随分と生意気な口ィ利くじゃねぇか黒縫ィ。もう俺に並んだつもりか?」


「見送りか、薊」



 不愉快な笑みを湛えながら、薊丸は九郎丸のつま先から頭のてっぺんまでをじろじろと無遠慮に眺めた。



「見送りィ? 素寒貧で追い出される哀れなテメェの湿気た面ァ拝んでやろうと思ってなァ。偽善者ぶってあげく、追放される気分はどうよォ、卑怯者の大将」



 卑怯者、とは薊丸が隠密たちを指して呼ぶ蔑称である。あからさまな薊丸の挑発に黒縫は殺気を放つ。だが当の本人の九郎丸はまるで涼しい顔をしていた。



「そうだな、中々に忙しい半生であったし、残りの生は何処か人里で質素に暮らすも良し。身空の内に隠居するのも悪くない」



 煽る薊丸に対し、微笑みさえ浮かべながら至極穏やかに答えた九郎丸であったが、相手にとってそれは気に入らない返答であったらしい。薊丸の眦がつり上がった。



「強がってんじゃねぇぞ。癖して、テメェに行くところなんざ何処にもねぇだろォがよォ!」


「貴様、薊丸ッ! それ以上の愚弄は許さんぞ、口を慎めッ……!」


「やるってか糞餓鬼ィッ!」



 薊丸の言葉に逆上したのは九郎丸ではなく黒縫だった。双方が各々の得物に手を伸ばす。棒手裏剣と大小対の二刀が同時に抜き放たれる。



「止せ! 一座の者同士での死闘は御法度だ。お前たちまで破門になるぞッ!」



 九郎丸が鋭く吠え、片手で黒縫を制しながら薊丸に睨みを利かす。既に鯉口を切っていた薊丸は舌打ちを一つ打つと、刃を鞘の中に乱暴に落とし込んだ。


 ぎりぎりと歯を軋ませ、鬼の形相で九郎丸を睨めつけるもその落ち着きらった表情を崩すには至らず、何事かを吐き捨てようにも薊丸に言葉は浮かんでこないらしかった。そのまま薊丸は踵を返して立ち去っていった。


 九郎丸は密かに胸を撫でおろす。万が一にも二人が戦闘になっていれば、脚を悪くした九郎丸にそれを止める術はない。双方頭に血は登っていたものの、九郎丸の警告を受け入れるだけの理性が残っていて幸いだった。



「済みません。貴方の門出にケチがついてしまった……」


「門出というほど大層なものでもあるまい。達者でな」


「九郎丸殿も、一座の皆が、……薊丸以外の皆が同じ気持ちです」



 薊丸の名を口に出す時のみ器用に苦虫を噛み潰したように顔を顰め、彼が立ち去っていった方向を睨む黒縫。すっかり薊丸に殿をつける気を失くしてしまったらしい黒縫に苦笑しながら、その日九郎丸は旅立った。



 風の如く大地を駆けるのも清々しいが、こうして牛歩の如くのんびりと道を行くのも悪くない。


 日はまだ高く、九郎丸に急ぐ理由などもう無いのだから。



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