第参話 語らい
ふと物音を聞いて、磐見は襖を開けた。月の出ている夜であった。
左右に視線をやるが無人の廊下が伸びているのみで人影はない。
「……」
無言のままに右へつま先を向ける。年季の入った床板は巨躯の磐見が一歩踏み出すごとにきしきしと音を立てた。
「そこで何をしている」
突き当りの角に向けて磐見は問いかけた。
誰も居らぬ筈、しかしその問いに応える声があった。
「相変わらず、隠密顔負けの気配察知ですね。己の未熟さを痛感します」
曲がり角の死角の、思いのほか低い位置から九郎丸が顔を覗かせた。病人着のままで床に腰を下ろし、壁に背を預けている。
「よく言う。お前が隠れようと思えば、このマガリにそれを見つけられる者は居るまい」
皮肉を感じさせぬ声音で磐見が返す。
己を未熟と謙遜する九郎丸は愛想の良い微笑みを浮かべていた。そこに居るだけで皆が背筋を伸ばし顔をこわばらせる磐見に対し、ここまで柔和な笑顔を向ける者はこの男の他には居まい。
九郎丸という男は頭領としての威厳を求められる場合を除き、誰に対してもこのような分け隔てのない微笑を向ける。それが彼が多くの人間に慕われる所以であり、薊丸が嫌悪する性質の一つであった。
「何をしている」
分け隔てのないという意味では同様の磐見は常たる厳格な態度を貫き、九郎丸にもう一度問いかけた。
「いえ、最後にこの屋敷を一通り見て回りたくなったのです。もう足を踏み入れる機会はないでしょうから。と思い立ってみたは良いのですが、ここで動けなくなってしまいまして、全く情けない話です」
そう言って笑う九郎丸は額に薄っすらと汗を浮かべていた。
「昼間にすればよかろう。お前を慕う者ならば喜んで手を貸すだろう」
「昼は皆、仕事や鍛錬がありますから。手を煩わせるのは忍びない」
らしい、と思う。
磐見を厳格が服が着たような人間と称すならば、九郎丸は品行方正を絵にかいたような男であった。
常に他人を気にかけ、思慮深く聡明で慎みもある。おおよそ感情に任せた行動をとらず、理性と思いやりでもって人と接し、度重なる規律違反を除けば頭領としていつ何時も正しい判断を下す。
九郎丸はいつも正しかった。それこそ絵に描いたように。
「……何故追放を受け入れた。お前が声を上げれば、それに賛同する者も多く居よう。翁とて考えを変えたかも知れぬ」
「意外ですね。貴方がそのような事を聞くなど」
九郎丸は一瞬微笑みを消し、少し驚いたような表情でそう言った。しかし己の言葉に驚いたのは磐見も同じである。あたかも追放を受け入れた九郎丸を非難するような言い草だ。九郎丸の判断が正しいことは、磐見自身理解している筈であるのに。
「……何故……そうですね。もしかしたら、そのような可能性もあったかもしれません。けれど、例え皆の恩情でここに残ったとしてそれは続かぬでしょう。何れ不満は膿のように溜まり、一座を蝕む。かつてそうであったように……」
磐見が予想した通りの正しい見解、非の打ちどころのない答え、それを真剣な表情で語った九郎丸はしかし、そこで不意に笑顔を戻した。
「と言うのは建前で、実際はみんなに尊敬される隠密頭領九郎丸のままでいたかっただけかも知れません。ただのつまらぬ矜持です」
アハハと笑う九郎丸に対し、磐見はただ静かにその姿を見つめた。
「お前も、人の子だったのだな」
「魔物とでもお思いで?」
九郎丸はほんの冗談のつもりであったのだろうが、魔物とは言い得て妙と磐見は思った。
「……部屋まで送ろう」
「かたじけない」
磐見が腕を掴みその身体を引き上げると、九郎丸は眉尻を少し下げてそう詫びた。
「詫びることなどなかろう。お前はマガリの頭として立派に一座を支えてきた。それを我らは忘れぬ。敬意を表そう、ご苦労であった」
相変わらず厳格で堅苦しい磐見の言葉に、九郎丸の表情は見えなかった。
「……はい。それで十分です」
ただ、声だけがいつもと変わらぬように聞こえた。
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