アリシアの決意
「ただいま」
「おかえり」
帰宅したアイリスをアリシアが出迎える。
エプロンを身に付け、優しい笑みを浮かべている。
「早かったわね」
「そうかな? もう暗いよ」
「てっきり朝帰りかと」
「ぶへっ!」
さらっと放り込まれた爆弾発言に、アイリスは飲み物を盛大に吹き出してしまう。
机の上で良かったものの、びしょ濡れだ。
「お、お姉ちゃん……!」
「ふふっ、台ふき持ってこないと」
気管に入ったのかせき込みながら姉を睨む。目の端に涙が浮かんでいた。
だが、当の本人であるアリシアは楽しそうに台ふきを取りに台所へと移動する。
「もう……」
姉の様子から言っても聞かないことを理解したアイリスはため息をつき、椅子へと腰を下ろす。
思ったより疲弊していたのか、自然と背もたれに体重をかける。
「それで、どうだった?」
「……何が?」
撒き散らされた液体の処理をしつつ、アリシアが尋ねる。
何がが指し示す内容はわかっていたが、せめてもの抵抗として素直には答えない。
「デート」
「デートじゃなくて、ただのお出かけ」
「あら、男女二人で出かければ立派なデートよ」
姉の主張にアイリスは吹き出してしまう。
雄也とのやり取りで同じ台詞を聞いたからだ。
「残念無念また来世~」
綺麗になった机に上半身を預け、力なく雄也に言った台詞をアリシアへも送る。
もちろん、アリシアは意味が分からず頭上に疑問符を浮かべている。
「楽しかったよ」
心地よい眠気を感じながら、アイリスは一日を振り返る。
普段通りの馬鹿らしくも楽しいやり取りもできたし、少しだけ距離が縮まった。クレープも食べられた。
風変わりなお店へ行ったりもしたが、総じて楽しかった。多少感情的になってしまったが。
「そう」
一言に込められた感情を正確に読み取ったアリシアは満足げにつぶやく。
色々な思惑はあったが、何より妹が楽しんでくれることが一番の目的であった。
アイリスがこれほど穏やかに、かつ無防備な声を出すことがあっただろうか。あったとしても数えるほどしかない。
(ありがとう、ユーヤ君)
実家での扱いを身近で見てきたアリシアは心の中で雄也に感謝する。
「お姉ちゃん」
「どうしたの?」
名前を呼ばれ、眼を開けると妹が満面の笑みを浮かべていた。
幸せとか嬉しいとかの一瞬の感情が表面へと出てきたのではない。もっと奥からあふれ出してくる感情が透けて見えた。
「ありがとう」
頭の回転が速いアリシアだが、見たことのない妹の姿に反応が遅れる。
ありがとう。感謝の言葉だ。心の中ではあるが、先ほど自分自身が雄也へと送った言葉。
だからこそ、理由がわからなかった。今日の一件の事かとも思ったが、それではないことはわかった。
「いつも僕の事を考えてくれて」
「あ……」
続けて紡がれた音により、意味を理解した。それに伴って喉が静かに揺れる。
胸の奥から暖かい物が流れ出してきた。それは水分となって眼から溢れ出る。
「お姉ちゃんのおかげで僕は楽しく暮らせてる。レイナやフィオ君、もちろんユーヤ。みんなと出会えたのだってお姉ちゃんがいてくれたからだよ」
「……アイ……リス…………」
涙が顔を覆う。言葉が上手くでない。
ただ彼女にできたのは名前を呼ぶことだけだった。
「ユーヤと話しててね、気づいたんだ。わかってるつもりだったんだけど、わかってなかったなって。僕ね、どこかで自分が不幸な子だと思ってた」
アイリスの境遇はそれなりの人に不幸だと共感、同情してもらえる程度には悲しみが彩っている。
本人が不幸だと考えるのは自然であった。
「でも、違った。……別に僕より不幸な人がいるからとか、誰かと比べての事じゃないよ」
相対的な話となってしまえば、彼女より幸せな人も不幸な人ももちろんいる。
だが、アイリスの気持ちの変化は他者との比較で生まれたものではなかった。
「だって、僕にはお姉ちゃんがいる」
椅子に座り、ぼんやりと姉の背中を眺めていたら、ふと雄也と交わされた会話が、その内容が腑に落ちた。
切っ掛けは些細なことだったかもしれないし、さまざまな要因が絡み合った複雑なことだったのかもしれない。
ただ、アイリスはアリシアがいてくれる、いてくれた幸せを改めて自覚したのだ。
「ごめんなさい。僕がいたからお姉ちゃんに余計な苦労をかけさせてる」
「そんなこと……!」
「ありがとう。僕のお姉ちゃんに生まれてくれて」
否定しようとするアリシアの言葉を遮る様にアイリスは感謝をもう一度伝える。
感謝と申し訳なさ。アイリスがこれからも抱えていく二つの想いをはっきりと伝えた。
「そんな……こと……」
アリシアの視界は歪んでいた。
胸を満たす暖かさと締め付けられる苦しみが共存する。両方ともアイリスを想って生まれる気持ちであった。
上手く言葉が纏まらない。ただ、最愛の妹に言っておかなければならないことがある。
「当たり前に、決まってるじゃない……!」
「お姉ちゃん……」
初めて目の当たりにするアリシアの姿にアイリスがつぶやく。
「そう、よ……。だって、私は、お姉ちゃんなんだから」
アイリスが自分に向けたような心の底からの笑顔を届ける。
「おねえ、ちゃん……!」
「アイリス」
雨模様な姉の笑顔に、アイリスも込み上げてくるものを抑えられない。
アリシアはそんな彼女をまるで母の様に優しく、誰にも傷つけさせまいと抱きしめる。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん……!」
姉の服を強く掴み、湧き出てくる感情に任せて悲しみを吐き出す。
「僕はいる! ここにいるの!」
「アイリスはここにいる」
「無視しないで! 僕を見て!」
「ずっと見てるわ」
「魔法も勉強も頑張るから……頑張るから……!」
「アイリスは頑張ってるわ」
肉親への情を既に捨てきったアリシアとは違い、アイリスは未だに愛を求めていた。
諦めきれないのは今まで一度も味わったことがないからかもしれない。
自分では埋めきれないアイリスの心の隙間。妹は気を使って自分にはそんなことを漏らしたことがなかった。
「お母さん……お父さん……」
腕の中で全身を震わせ、幻想を追い求める妹をアリシアはただただ見守っていた。
初めて溜めていたものを吐露してくれたことに安堵し、やはり逃れられない寂しさに憤りを覚える。
(アイリスは私が守る)
改めて決意を固める。
アイリスの幸せがアリシアの幸せだった。
あの日の夜も、そしてこれからも。彼女が産まれ、お姉ちゃんとなった日に決意したこと。
呪縛から逃れられないのならば、いっそ消した方が良いのかもしれない。
生きているから希望を持ってしまうのだ。過去にしてしまえばこれ以上傷つくことはない。
(だめ。私が手を下したと知られたらアイリスが……)
――をすることにためらいはない。だが、そのせいでアイリスが罪の意識に苛まれてしまったら意味がない。それは彼女の求めるアイリスの幸せを壊してしまう。
何度と繰り返した問答だった。無力な自分に腹が立つ。
(今はそれよりも)
元凶を断つ方法は一旦頭の片隅に追いやる。
今は先に片づけなければならないことがあった。
アイリスの机の引き出しに丁寧に保管されている一通の手紙。彼女が初めて両親からもらった手紙。
いや、おそらく両親は書いていない。使用人の誰かしらに代筆させたのだろう。
けれど、万が一、億が一の可能性を捨てきれず、大事に保管してしまっているのだ。
たとえ、その内容がアイリスの意思を無視した一方的な命令だとしても……。
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