ソラに奏でる君のオト

1〉

 矢が、耳朶を掠めてシエロを追い抜いた。

 鏃は、乾いた音を響かせ、盾にしようとしていた幹に刺さった。急な方向転換もできない。そのまま太い幹を回りこむと今度は、逆の肩先を、矢が追い越していった。

 胸が苦しい。ぜい鳴が強くなった。持病の喘息の発作だ。一度咳をすれば、容易に止まらないだろう。座り込めば、迫る山賊に殺されてしまう。こみ上げた咳を、無理やり飲み込んだ。

 落ち葉を踏んで、足が滑った。抱えた荷物が、幹にぶつかりそうになった。慌てて荷物を引き寄せ、側の岩に手を突いた。手首に痛みが走った。

 大事そうに抱え込んでいるから、山賊に、金目のものと思われたのだろうか。荷物の中は、愛用の竪琴だ。喘息のため、踊ることも笛を吹くこともできないシエロが、楽師として唯一まともに奏でられる楽器だった。

 価値のあるものは、全て渡した。首に連なる飾りにしても、宝石としての価値より、護符の意味合いが強いものばかりだ。

 それなのに、王都を出てすぐの街道で鉢合わせた一介の青年楽師であるシエロを、山賊は執拗に追い回す。

 自分を追う足音とは違う方向から、檄を飛ばすだみ声がした。旅を共にしてくれた鳥人のファラも、まだ捕まっていないようだ。どうにか、逃げ切ってほしい。

 シエロは、渇いた口に辛うじて残った唾を飲んだ。笛のように鳴る喉を少しでも潤そうとした。とにかく、ここで殺されるわけにいかない。

「こっちだ」

 背後から声が上がった。近い。金属が触れ合う音も近付く。

 さっき潜ったばかりの蔦が切り落とされた。青臭さが広がった。

「くらえっ」

 刃が空を切る音。

 不意に、宙へ投げ出された。

 悲鳴をあげる間もなかった。

 シエロの身体は、まっさかさまに、崖下の川へ落ちていった。


 唄が聞こえる。瞼を通して、明るさを感じた。

 ぼんやりと、母の背中が見えた。いつもの鼻歌を歌いながら、寝具を片付けている。

 起きなくては。寒いし、身体のあちらこちらが痛い。それでも起きて、準備をしなくては。

 技芸団の朝は早い。特に、喘息のため、笛も舞も出来ない、見た目で客を呼ぶこともできないシエロは、その分誰よりも早く支度をして、みんなの楽器や衣装の準備をしなくてはいけない。

 身を起こそうともがいても、身体は動かなかった。

 胸が苦しい。

 必死に瞼をこじ開けた。

 目の前に、凄惨な光景が広がっていた。

 なぎ倒された天幕。刃物で斬りつけられた楽器、衣装。いつも陽気な団員が、血を流して呻いている。甲冑を着けた騎士が、血塗られた剣を片手に、母の腕を掴んだ。

 ハッとして、本当に目覚めた。

 吸い込んだ吸気が肺を刺激する。仰向けのまま、激しく咳き込んだ。

 跳ね上がっては寝具に打ち付けられる背中が痛んだ。喉の奥から、ヒュウっと音が漏れる。

「おや、喘息だね」

 頭を持ち上げられ、唇に水の器をあてがわれた。喉の渇きに耐えかねて、口に含む。

 飲み込んだ次の瞬間、苦しかった呼吸が、嘘のように楽になった。驚いて、シエロは顔を上げた。

 傍らでシエロの身体を支えてくれていた、長い黒髪の男性が微笑んだ。知らない人だ。

「気分はどうだい? 熱は、下がったようだね」

 額に手を当てられ、シエロは身を竦めた。介抱してくれるから、山賊の一味や騎士ではないだろう。しかし、何者か分からない恐ろしさがあった。

 男性は、シエロの頭を枕へ下ろすと、毛布を引き上げてくれた。そのまま、枕元で薬草をすりつぶす音が聞こえた。様々な草の香りが漂う。

 ここはどこで、この人は誰なのか。どうして自分は、技芸団の天幕ではないところに寝かされているのか。

 ぼんやりと考えるうちに、重い頭に、ようやく記憶が戻ってきた。

 さっき夢に見た恐ろしい光景は、夢でなかった。

 吐き気がした。呻くと、男性に慌てて顔を覗き込まれた。

 歯を食いしばり、シエロは枕に頭をつけたまま、首を振った。

「ごめんなさい。だいじょうぶ、です」

「とにかく、ゆっくり休むんだよ。主も許してくださっているから」

 主とはなんだろう。にこやかな男性に尋ねる前に、柔らかな声がした。

「ノクターン。どうですか、容態は」

 ノクターンと呼ばれた黒髪の男性は、笑顔のまま振り返った。

「目を覚ましました。先程、薬も飲めましたから、もう少し休めば大丈夫でしょう」

「それなら、良かった」

 顎を引いたシエロの視野に、煌く銀色の髪が見えた。さらりと長い髪には、大小の珠飾りがつけられていた。それらを辿ると、ほっそりとした、男性とも女性ともいえない顔があった。色の白さを際立てているのは、真紅の双眼だ。

 この人が、主、なのだろうか。

 見とれるシエロに、その人は脇に抱えていた物を差し出した。

「木枠は無事でしたが、弦が何本か切れていました。ありあわせのもので修理しましたが、元の音が出るでしょうか」

 シエロの竪琴と、荷物だった。柔らかい中性的な声に問われ、シエロは身を起こした。さっきまで鉛のように重かった身体が、愛用の竪琴を目前にすると、軽くなった。どこから湧いてきたのか知らない力がみなぎった。

 すべすべとした木枠を、一通り撫でる。言われたように、傷もへこみもなさそうだ。

 そっと爪弾いた。張り具合を調整すれば、弦は昨日までと同じ音で鳴った。

「良かった」

 物心ついたときからの相棒を胸に、ようやくシエロは安堵の息をついた。そして、彼らにまだ、礼を言っていなかったことに気が付いた。

 慌てて竪琴を寝具に起き、居ずまいを正して額づいた。

「助けてくださり、竪琴まで直していただいて、感謝いたします」

「ああ、いいよ。そんなに気を遣わないで。楽にして」

 ノクターンが大らかに肩を叩いてくれた。主と思しき銀髪の者も、口元から微笑を絶やさない。

「運が良かったですね。意識を失って、水も飲んでいませんでしたし」

 本当に、運が良かった。崖がなければ、追いついた山賊に斬られていただろう。崖の下が地面なら、助からなかったかもしれない。高さのない崖なら、やはり山刀の餌食になっていた。

 それでも手放しで喜べない。共に追われたファラは、無事だろうか。シエロを守る必要がなくなれば、ひとりなら、きっと逃げおおせると信じたい。

 しかし、と銀髪が揺れた。

「川上に街道はありませんし、あなたの服装からして、猟師とも樵とも思えません。何故、このようなところに?」

 シエロは口ごもった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る