気に入らない野望や陰謀は力に物を言わせて潰す

 第二試合まで消化した月詠学園闘技場は、激戦を予感させる準決勝以降の戦いを明日に預け、夜の帳に包まれた。


 月光が照らす会場にて、白髪の老人が立ち尽くす。

 母国語で綴られた手紙に呼び出されてみれば、入場ゲートはすぐさま締め切られて、今の今までそこにいなかったはずの青年が姿を現した。


 自身の解像度を倍化して、人の視力では映らないようにした、なんて解説は不要。

 ロシアからの刺客たる老人に、綾辻楓太は堂々たる覇気を纏って相対する。


「これはこれは、月詠学園の秘密兵器が満を持してのご登場ですか」


 半月の輝く夜の空を突き破り、赤髪の大男が飛来して来る。

 そのまま楓太を押し倒そうと襲い来る男の重力加速度と空気抵抗を倍。自分の手前で止めた楓太は、重力負荷を倍にして男を地面に叩き付けた。

 普段の数倍、十数倍の重力負荷が男に立ち上がるどころか顔を上げる事さえ許さない。


「アントゥフィエヴァ君を味方に付けましたか。いやはや、油断しましたよ。紛れもない彼女の筆跡だった故、まんまと誘い出されてしまいました。それで、何が目的でしょうか」

「十六夜蓮華先輩の勧誘を諦めて頂きたく、参上した次第です」

「それは私に? それとも、ロシアに?」

「出来れば、後者に」


 老人は不適に笑う。

 「何と若い考え方だ」――そんな風に笑われている気がしてならなかった。


「それはさすがに、この老骨の一存では決めかねますね。恥ずかしながら、私は祖国の遣いでしかありません。あなたのお父様のように、一国の重要事項を任せられるような存在ではないのです。なので、残念ながら……」

「なら、あなたに提唱して貰います。黒髪がどれだけ、危険な存在か」


 “過去は親愛、明日は狂気シャルル・シーズィエム・タロット”。“消極の逆位置ポジション・インバース第九列ヌヴィエム――隠者レ・エルミット”。


「何?」


 四方の入場ゲートが一斉に開く。

 灯り一つない暗闇の中、蠢く何かに気付いた老人が老眼を凝らしてみるも、何も見えない。

 だがすぐに、老人が今までに見た事もない異形の蟲がゲートを埋め尽くさんばかりに群がり、耳を汚さんとする気色の悪い音を立てながら待ち構えているのに気付いて、老人は初めて狼狽し、一歩後退る。


 その一歩で楓太の手が、老人の肩に触れた。

 同時、能力が発現する。


「何だ、何を……?!」


 鼓膜を劈かんばかりに響いて来る蟲の羽音。

 繰り広げられる共食いの咀嚼音。

 床や壁、天井を這う度掠れる足音。


 凍土ロシアではほとんど聞かれない蟲のさざめき、騒めきが、歳と共に弱った聴覚を彼の長過ぎず短くはない人生の中で最大と呼べるほどに刺激し、悪寒を誘う。

 氷を大量に掻き込む様に食べて頭痛に似た症状が起きるように、蟲の群れが発する音が老人の肌を逆撫で、実際に撫でられているかのような感覚に陥れる。


 しかし実際、それだけではなかった。

 老人は聴覚だけでなく触覚まで倍にされ、春の夜風を過敏に感じて震え上がる程にまでされた老人は実際に全身を蟲の群れが這っている幻覚に襲われ、スーツ越しに全身を掻きむしり、本当はいない蟲を追い出そうと必死にもがき始めたのだった。


わかったпонимать!!! もうやめてくれпожалуйста остановись!!! 出来る限りの努力はするПриложить все усилия!!! ロシアにも手は出さない様進言するЯ говорю России ничего не делать с тобой!!! だからТак что――!!!」


 思ったよりも簡単に音を上げたが、生憎と、ロシア語では伝わらない。

 鬼気迫る老人の言葉は、楓太にまだ足りないと思わせて、能力を解除させなかった。

 実際、その場を逃れるための口約束だったと後で返されるケースは少なくない。故に刷り込む、刻み込む。体に、脳髄に、魂に。

 軽々しく黒髪に手を出せばどうなるか。

 黒髪を手に入れるため、他を陥れようと画策しようとすればどうなるか。


 思い知らせるだけでは足りない。

 記憶に刻み付けるだけでは足りない。

 これから死ぬまで迎える夜の数だけ思い出し、戦慄し、国中に自分が味わっている恐怖と畏怖を伝え続ける様になるまで、心、魂を壊して殺す。


 もしも今のこの光景を他国の要人が見たら、一体何と言うだろう。

 日本人は野蛮と言うだろうか。ここまでする必要があるのだろうかと、酷評するだろうか。日本のMIYABIなど表向きの顔ではないかと知られてしまうかもしれない。

 が、多分、ロシアを除く他国の黒髪は、面白がってこの映像を見るだろう。ロシアの中にも、黒髪ならば同調してくれる人がいるかもしれない。


 例え他人の目があったとしても、止める気など毛頭ないのだが、見せなくて良かったと思う。

 もしも世界の目が自分にだけ注目したのならまだ良いが、観客席で隠れて能力を使う黒髪の少女に注目が逸れた場合、自分は彼女を狙う毒牙に対して、容赦など出来ないだろうから。


 実際、今だってそうだ。

 もしも二人のどちらか一方でも桔梗の存在に気付いたならば、頭を開いて脳を弄ってでも記憶を改竄し、赤子の時点まで抹消する事を厭わない。

 迷う理由など、一つもない。

 向こうにも家族がいる――それがどうした。だからと言って、自分の家族を、恋人を、妹を、妻を、差し出せる訳がない。差し出す理由にはならない。


「こ、k、kkk……ぁ、っ……!」


 最早、悲鳴すら上げられない様子。

 だがまだだ。数日間入院した程度で回復するような老後は送らせない。


「や、やめ、やべれ……!」


 赤髪の男、ボグダンに更なる重力負荷を強いる。

 単位はキロからトンへと変わり、数十トンの重力負荷がボグダンを短い悲鳴諸共圧し潰し、車に轢かれたカエルが如く、臓物と体液を撒き散らせて圧殺した。


 ここは戦域ではない現実世界。

 よって、この死は無い事にはならない。


 正真正銘本物の、本当の殺人。

 無かった事には出来ず、取り返す事も出来ない。

 蘇生は不可能。仮に叶ったとしても、一度殺した事には変わりない。


 だが、青年はまるで動じていなかった。

 動じるどころか平静で、冷静に、圧殺される男の悲鳴と人間の体が潰れる音とを老人に伝え、もがき苦しむ老人を更に追い詰め、追い込んでいた。


「人を呪わば穴二つ……意味は、わかるかな」


 彼らは毒入りクッキーで、愛美を穢した。

 それを呪いと言うならば、呪われた者と呪った者とが入る墓穴の二つが必要となると言うのが本来の意味合いであるが、今回、呪われた愛美は死んでいない。

 ならば、せっかく掘った墓穴二つ。誰か入れねば勿体ない。

 一人には本当の死を。もう一人には、精神的な死を迎え、入って貰う。


「あなたは何も見なかった。何も聞かなかった。何も知らぬまま祖国に帰る。ただ、黒髪は危険だと提唱し続ける。良いですね?」


 返事は無かった。

 老人は泡を噴き、失禁し、白目を剥いて失神しており、本当に蟲が這い寄って来ていると言うのに、気付く事無く倒れたまま動けずにいた。


 まぁ、それだけの事をされて、言う事を聞かないなんて事もあるまい。

 沈黙は是と信じて、その場を立ち去る事にする。


 おそらくロシア側が彼らの同行を把握しているだろうから、回収は任せて、楓太は軽くした体で桔梗の側まで跳び上がった。

 能力を解除し、小さく重い吐息を漏らした桔梗の隣で片膝を突いて、取った手の甲に口付けを施す。


「付き合わせてごめんね。怖くない?」

「大丈夫。今は見えないもの」


 ここに来る前から、仮にロシアからの刺客が誰かしら連れていた場合、その人を沈黙させるために連れには死んで貰うと決めていた。

 が、そんな悲惨で汚い物は見せられないし見せたくないと、楓太は桔梗の視力と聴力が限りなくゼロに近くなるまで倍化して、前以て塞いでいたのだった。


 無論、桔梗の周囲は重力負荷を倍加して見えない防壁を設置し、防壁の外側の観客席全体の酸素濃度をエベレスト山頂近い濃度にまで下げていたので、防御は万全であったが。

 最後まで彼女が無事でいられた事に、楓太は安堵して視力と聴力を元に戻す。


「飛ぶよ」

「……うん」


 静寂の夜を駆ける。

 抱き上げる少女の黒髪が夜風になびいて、甘い匂いで鼻孔をくすぐる。


 少女は青年の首に腕を回して、自分を抱き上げる青年の胸に耳を当てて、一定の間隔で打たれる鼓動を聞いて、頬を擦りつけた。


「フゥ太」

「うん?」

「私は、ずっと、ずぅっと……フゥ太が好き。フゥ太の味方だから、ね?」


 自分達の家の屋根に下りて、額に吸い付く。

 求める少女の唇にも吸い付き、濃厚な口付けを交わした。


「愛してる」

「……フゥ太。今日は、直接……頂戴」

「……うん、わかった」


 夜の帳は開け、日を跨いだ事を知らせる朝焼けの幕が上がる。


 月詠学園交流試合は、遂に激闘必死の準決勝。

 黒髪四人による別次元の戦いの幕開けを告げる。

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