鬼の恩返し

渡瀬 富文

第1話

 男の名は与吉よきち。昨年、老いた母を亡くし、今はひとり暮らしです。

 そろそろ嫁を迎えたいのですが、残念ながら、与吉に嫁ぎたいと言ってくれる娘がおりません。


 ひとりになって、初めての節分の日。

 与吉は、節分のことなどスッカリ忘れ、いつも通り仕事に出かけました。今まで、行事に関しては、母に任せきりだったからです。

 しばらく歩いていると、近所の家々から「鬼は外、福は内」の声が聞こえてきます。


(しまった! 今日は節分だったか!)


 やっと気づいた与吉ですが、何の準備もしていません。今から家へ戻ったところで、豆の用意もしていないのです。

 与吉は早々に諦め、仕事に向かいました。


 その晩、与吉は、仕事終わりの晩酌を楽しんでいました。漬物をポリポリかじりつつ、ちびちびと酒を舐めるのが、与吉にとって何より幸せな時間です。

 そんな、ささやかな贅沢を堪能していた与吉の耳に、誰かの来訪を告げる音が届きました。トントンと、家の戸が叩かれています。


(こんな時間に、誰だろう?)


 不思議に思いながら、与吉は戸を開けてみました。

 すると、とても美しい娘が立っています。


「どうか一晩、泊めていただけませんか?」


 何かに怯えるように、か細い声で娘は言いました。

 与吉が娘に見とれて返事をしないので、娘は不安そうに首を傾げます。はっと我に返り、与吉は口を開きました。


「俺は構わんが、この家にいるのは俺ひとりだ。年頃の娘さんに、おかしな噂が立っても不憫だろう。大家さんに話してやるから、そこに泊めてもらうといい」


 世間体を考え、与吉は正直に話しました。

 この娘が噂になるのを、可哀そうだと思う気持ちも本当です。けれどそれよりも、与吉は保身を考えていました。あらぬ疑いがかけられては、結婚がますます遠のいてしまいます。

 ところが娘は、潤む瞳で縋るように与吉を見つめ、震える声で言い募ります。


「ここでなければ、だめなのです。お願いです。何でもします。どうか一晩、ここへ置いてください」


 ここまで言われては、断ることもできません。

 与吉は娘を家へ迎え、茶を淹れてやりました。


「娘さんは、どこから来たんだい? 名前は?」

「サキと申します。三に鬼と書いて、三鬼サキです。実は私、鬼なのです。節分で追い出され、みんなと逃げる途中で、はぐれてしまいました。ですから、豆まきをした家には、入れないのです」


 そこまで言うと、鬼の娘、サキは、深々と頭を下げました。額を床にこすりつけるようにして、続けます。


「黙っていて申し訳ありません。このご恩は、必ず返します。ですから、どうか、追い出さないでください」

「わかった、わかった。そう懇願せずとも、泊めてやるから」

「ありがとうございます!」


 それから、与吉はサキにも酒を注いでやり、ふたりは雑談をしながら過ごしました。楽しい時間は、あっという間に過ぎていきます。

 やがて夜も更け、与吉はサキのために、母の使っていた布団を出してやりました。


 翌朝、与吉が目を覚ますと、サキが朝食を拵えています。与吉にとって、しばらくぶりの、他人に作ってもらった料理です。

 与吉は、いつも以上にガツガツと飯を搔き込みました。はち切れそうな腹をさすり、茶を淹れるサキを眺めます。


「こんな嫁さんがいてくれたらなあ」


 それは、思わず出てしまった言葉でした。驚いたように顔を上げたサキに、与吉は慌てて首を横に振ります。


「いや、深い意味はないんだ。忘れてくれ」


 恥ずかしさをごまかすように、与吉は仕事へ行くべく家を飛び出しました。


 翌日も、その翌日も、サキは与吉の家にいました。いつの間にか、近所では与吉が嫁を迎えたと言われています。

 サキは、鬼ではありますが、とても美しい娘です。与吉も、悪い気はしません。


 もう、このまま、サキに本当の嫁になってもらおうかと考えていた、ある日。

 いつもより早い時間に目が覚めた与吉は、隣の布団に、大きな赤鬼が寝ているのを見ました。与吉より大きな体、額には小振りな三本の角、指先には長い爪まで備えています。

 驚いた与吉が思わず叫ぶと、鬼が飛び起きました。


「どうしました、与吉さん」

「お、鬼!」

「何を今更。あっ!」


 何かに気付いたように、鬼が、パッと立ち上がります。それから、その場でクルリと回ると、そこにはサキが立っていました。


「ごめんなさい。寝ている間は、変化が解けてしまうのです」

「お、お前、今まで化けていたのか!」


 しょんぼりと俯くサキは、いつも通りの儚げな美人です。

 けれど、その正体を知ってしまった与吉には、化け物にしか見えません。


「で、出ていけ!」

「そんなっ」


 泣きそうな顔をしたサキは、唇を噛み締め、深々と一礼して去っていきました。


 その夜。

 与吉が仕事から帰ってくると、夕飯が用意されていました。あの鬼の手料理です。

 恐ろしくなった与吉は、近くの神社で厄除け札を書いてもらいました。これを玄関に貼っておくと、悪いものが入れなくなるのです。


 次の日から、夕飯が用意されていることはなくなりました。代わりに、玄関前に様々な食材が置かれています。

 野菜に米に魚、卵が置かれていた日もあります。けれど弥吉は、それを自分では食べず、みんな近所へ配ってしまいました。


 すると今度は、若い娘が与吉の家を訪ねてくるようになりました。与吉の嫁にしてくれというのです。

 あの鬼が化けているのかと疑った与吉ですが、どうやら、人間のようです。しかし、鬼の仕業であることは、間違いありません。

 弥吉が断ると、二、三日後には別の娘がやってきます。見知った娘、見知らぬ娘、隣村の娘、町の娘、親同伴でやってくる娘もいました。


 仕事の帰り道、どうしたものかと悩んでいた与吉は、注意が散漫になっていました。うわの空で歩いていたために、階段を踏み外してしまいます。

 あっと思った時には、もう手遅れ。体勢を崩した与吉の体は、階段を転げ落ちていく、はずだったのですが。


 倒れていく与吉の体が、ぐいと引っ張られました。

 ぺたんと座り込んだ与吉の代わりに、ゴロゴロと階段を転がっていくものがあります。


 階段の下まで落ちたのは、大きな赤鬼でした。


 しばし呆然と、与吉は、その光景を見つめていました。

 あんなに邪険に扱った与吉を、サキは身を挺して助けてくれたのです。


「お前、なんで……」


 その言葉に返る、いらえはありません。




―了―

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鬼の恩返し 渡瀬 富文 @tofumi

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