110 美少女が目を瞑る
リビングに戻った俺は、新しく淹れたレモンティーをテーブルに置くや否や、すぐに理華に捕まった。
両手で左手を握られて、クイクイと引っ張ってくる。
「遅いですよ。彼女を一人にして」
「……ホント、どうしたんだよ、今日は……」
「……どうもしていません、べつに」
理華は俺の手を掴んだまま、さっきと同じ場所に座った。
俺も釣られてもとの場所に腰を降ろす。
するとすぐにまた二の腕を抱き締められて、逃げられない形になった。
「……嫌なら、そう言えばいいんです。私は、廉さんの嫌がることはしませんから」
理華は拗ねたような口調で言って、しがみつく力を弱めた。
もったいない気持ちと罪悪感に襲われて、俺も慌てて答える。
「嫌じゃないって……! ただ……ちょっと戸惑ってて……」
「……」
「その……いいのかなって。理華は」
「わ、私は……! いいに決まってます。……私はあなたのこと、好きなんですから」
「い、いや……そうなんだけどさ」
自分でも、何が言いたいのかわからなかった。
もちろん、理華にも俺の考えていることなんて伝わっていないだろう。
紅茶を飲んで、ふぅっと一息ついてみた。
その熱さに反して、ゆっくり頭が冷えていく。
その間にも、理華はずっと俺の腕に抱きついていた。
一般的に見れば、きっと仲良く見えるんだろう。
俺だって、理華からの好意を強く感じられて、ドキドキもするし、幸せでもあった。
「……」
「……」
けれどこの雰囲気は、やっぱり俺には少し、窮屈だった。
浮かれてしまいそうになる自分の心を、無理やりに押さえつけて、言った。
「理華」
「……はい」
俺の異変に気がついたのだろうか。
理華はそれまでの酔ったような声音から、いつもの調子に戻っていた。
驚いたような、それから少しだけ、不安そうな顔だった。
「……今、何考えてるんだ?」
「え……」
「何かあったか? いつもと様子、違うだろ」
隣にいる理華は、目を見開いて俺を見た。
それからだんだんと暗い顔になっていって、恥ずかしそうに俯いてしまった。
「いいんだ、俺も嬉しいから。会いたいと思ってくれるのも、くっつきたがってくれるのも」
「……」
「……でも、理華がなに考えてるかわからないと、不安になるんだ。だから、ちゃんと話してほしい」
普通のカップルは、こんなこと言わないのかもしれない。
理華の気持ちを態度で察してやるっていうのが、正しいのかもしれない。
けれど。
「俺は……理華のことが本当に好きだし、もっと触れ合いたいって思う。でも、あんまり急だとちょっと……怖いというか、驚いちゃうんだ。どうしていいか、理華がどうされたいのか、わからないから……」
けれど俺たちには、こっちの方が合っているような気がした。
不器用で、ムードもロマンもないけれど、それですれ違って気まずくなるより、ずっと良いんじゃないかと思った。
俺の言葉を聞く理華の顔は、少し心配になるくらい真剣だった。
俺がなにを言おうとしているのか、なにを考えているのか、余さず読み取ろうとしてくれているようだった。
「……無粋なのかもしれないけど、関係を進めたい時とか、いつもより……なんだ? い、イチャつきたい時は、その……ちゃんと、そう言ってくれると、俺も安心だから……」
言っているうちにどんどん恥ずかしくなってしまって、最後の方は消え入りそうな声になる。
だけどそれが、俺の正直な気持ちだった。
「こういうときはこうするべき」とか、「今はこういう雰囲気だから」とか、世のリア充たちは言うのかもしれない。
でもそんなのは、俺にはわからない。
たとえわかったって、もしかしたら理華はそんなつもりじゃないかもしれない。
そういう不確実な、綱渡りみたいなのは、嫌だった。
「もし万が一でも、俺の思い込みや独りよがりで、理華を傷つけたくないんだ……。理華とすれ違って、お互いの気持ちがわからなくなるのが嫌なんだ……。だから……」
それは、俺の言葉が終わるのと同時だった。
隣にいた理華が中腰になって、前に伸ばしていた俺の両足を跨いだ。
俺の太ももの上に座った理華は、しばらく潤んだ瞳で俺を見つめたあと、突然勢いよく、そして力強く、抱きついてきたのだった。
「うぇっ!? り、理華! こら!」
「……」
「そ、そういうのが不安になるって言ってるんだぞ……!」
俺は完全に不意を突かれて、見事に動転していた。
心臓が好き勝手に暴れ出して、身体中が一気に熱くなった。
抱き合ったことは今までにもあった。
けれど、こんなに密着度の高いハグは初めてだった。
「り、理華ぁ……」
思わず情けない声が出る。
「廉さん、好きです」
しかし、俺の胸の中で話し始めた理華の声は、驚くほどはっきりしていた。
「……本当に好きです。大好きです。廉さんにもっと触れたいです。廉さんにもっと、触れて欲しいです」
「……理華」
「用がなくても会いたいです。もっと長い時間、一緒にいたいです。同じ部屋にいたら、ちょっとでも離れたくないんです」
そこまで言って、理華はゆっくり顔を上げた。
上目遣いに涙を滲ませて、頬を染めている。
俺はいてもたってもいられなくて、目の前の女の子がどうしようもなく愛しくて、理華の頬を両手で包んだ。
「……ちょっと前から、そんなことばかり思ってしまうんです。だけど、廉さんがどう思っているのかわからなくて。どうすればいいか、わからなくて……」
それは、全部理華の言葉だった。
理華が俺に言えずにいた、でも俺にわかって欲しかった、理華の思いだった。
「……そして今日、冴月に言われました。強引にくっつけば、きっと廉さんもその気になるって……」
「……なるほど、雛田か」
「だけど……やっぱりうまくできなくて、廉さんを困らせてしまって。……でも、廉さんが頑張って受け入れてくれようとしているのが嬉しくて……。ごめんなさい、廉さん。私が、自分勝手でした……」
そう言った理華の身体が、少しだけ震えていた。
「……はしたない女の子だと思われるかもしれません。我慢のできない、だらしない人間だと思われるかもしれません。でも私は、それほど廉さんが好きなんです。知らないうちに、そうなってしまったんです。あなたとの距離を……もっと縮めたいと思ってしまうんです。だから、廉さ……」
「理華」
気づけば、俺は理華の身体をかき抱くように引き寄せていた。
右手を当てた理華の頭に顎を乗せると、嗚咽するような途切れた息が漏れた。
理華が抱きしめる力を強めるのを感じる。
だんだんと、身体の震えが止まるのがわかる。
愛しくて愛しくて、もうどうにかなりそうだった。
ある衝動が、俺の頭を埋め尽くしていく。
けれどあんなことを言った手前、なにも言わないわけにはいかなかった。
「理華」
「……なんですか」
「……キスしよう」
息を飲んで黙った理華は、それでもゆっくり頷いてくれた。
また両手で理華の頬を包む。
目をつぶって、覆いかぶさるようにくちびるを重ねる。
理華の匂いがする。
熱を帯びた息がかかる。
五感の全てが、理華のものでいっぱいになる。
距離が、ゼロになる。
溺れそうなほど苦しくて、信じられないほどドキドキして、今までにないくらい幸せだった。
理華も、そう思ってくれていたら。
もしそうなら、どれほどいいだろう。
でも、もしそうじゃなかったとしても。
「理華」
今日だけ。
いや、今だけは。
俺の勝手を、許して欲しかった。
「好きだ」
離れたくちびるが、物足りなさそうに緩んでいる。
うっとりした顔の理華は、信じられないくらいに可愛いかった。
「理華」
「……はい」
「こうやって……ときどき距離を無くしていこう。ずっとくっついていることはできなくても、こうしてたまには、限界まで近づいてみよう。離れてないとわからないことも、くっつかないと感じられないことも、どっちもあるはずだから……」
「……はい。はい」
何度も頷く理華に、もう一度キスをした。
両手の指を絡ませて、お互いを引き寄せながら、さっきよりちょっとだけ長いキスをした。
「ふ、ふぁぁあ……!」
「な、なんだよ……」
「だって……ほぁぁ……」
「……」
近すぎると、見えないから。
でも離れすぎると、感じられないから。
「……キス、してしまいました」
「だっ! ……だって……頷くから」
「でも、二回もされました……」
「い、いや……それは……悪い」
「いっ、いいんです! でも……ほぁぁ……」
きっとこうやって、近づいたり離れたりしながら、俺たちは一緒に歩いていく。
「……もう一回」
「ええっ!? いや……今日は、もう……な?」
「いやです。もう一回」
「お、おい! あ、こらっ! やめ」
「やめません」
けれどやっぱり、ちゃんと考えないといけないらしい。
この美少女と、距離を置く方法を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます