小指に絹の糸

梅谷理花

高校生編

クロスステッチ

 開け放されて春の風が流れる教室の窓から、運動部の昼練習の掛け声が聞こえてくる。霧島結人は欠けた視界の代わりと言わんばかりにやけによく聞こえるその音を遮るように、左手で耳を覆って机に肘をついた。机の上には二週間ぶんのプリントでちょっとした山ができていて、その一番上には退部届があり、部活名の欄には結人にしては下手な方の字で「サッカー部」と書いてある。


 担任にサインをもらって顧問に提出しに行かないといけないんだよな、と結人はどこか他人事のように考える。結人は入学早々交通事故に遭い、身体は無事だったものの左目の視力を失った。片目では遠近感が不明瞭になるので、小学生の頃から続けてきたサッカーを諦めなければならなくなり、結人の心にはぽっかりと穴が空いたようになっていた。


「ねえねえ、ゆいとだよね?」


 物思いにふけっていた結人を引き戻したのは、少し高い少年の声だった。結人が顔を上げると、声を映したような童顔の少年が横に立っているのが目に入る。光の加減で緑っぽく見える髪はふわふわと風に揺れ、同じ色の瞳はじっと結人を見つめている。まだクラスメイトの顔と名前も一致しない結人が返事に窮していると、少年は自分の鼻先を指さした。


「おれ、ナオだよ。覚えてる?」


 ナオ、と聞いて結人の脳裏にひらめいたのは、小学校の頃親しくしていたひとりの少年だった。たしか私立の中高一貫校に進学したらしかったが、それがこの男子校だったのだろうか。


「……古賀、直太朗?」


「うん!」


 半信半疑で結人が名前を口にすると、少年――直太朗は大きく頷く。どこか所在なげだった彼の表情が一気に喜色に満ちた。一方の結人は突然の再会に素直に喜べる気分ではなく、ただその顔を見上げるしかない。


「クラス名簿を見て小学校で仲良しだったゆいとが入ってきたってわかって、おれすっごく嬉しかったんだ。すぐにでも話しかけたかったんだけど、でも……」


 心から嬉しそうにまくしたてていた直太朗はしかし困ったように口ごもる。結人は苦笑して代わりに続きを口にした。


「事故で入院したからタイミングを逃した?」


「う、うん。あの、もう全部治ったの?」


「左目以外は。もともと身体の方はたいした怪我でもなくて、頭をあれだけ強く打ったにしては片目の視力で済んでまだマシらしい」


「片目の視力……」


 直太朗がまるで自分がそう宣告されたように深刻な調子で呟いたので、結人は気まずくなって少し視線を逸らした。別に日常生活にはさほど支障はないのだ。見慣れた場所をゆっくり動く、日常生活には。


「ゆいと、サッカーしてたよね? 大丈夫なの……?」


 ああ、そういうことか、と結人は視線を逸らしたまま納得した。小学校の頃結人がサッカーをしていたのを直太朗は覚えていて、だからこんなに心配そうな声をしているのだ。まだ少し狭く感じる結人の視界の隅に、声そのままに瞳を潤ませている直太朗の顔が映っている。結人はつとめて淡々と答えた。


「サッカーはもうできない。サッカー部は退部する予定」


「退部……。マネージャーとかで続けたりはしないの?」


 結人は直太朗の顔を再び見上げる。思わず皮肉に口角が上がった。


「羨ましくて、とてもじゃないけどやってられないな」


「そっか、そう、だよね」


 直太朗はしおれたように眉を下げる。さすがに口調がきつかっただろうかと結人は思わず考えて、今度は顔ごと直太朗から目を逸らした。しばし沈黙が落ちる。


「……そうだ!」


 突然直太朗が結人の机に両手を突いて大きな声を上げたので、結人は思わず直太朗を振り返った。さっきとは一転して瞳がキラキラと輝いて、星が見えそうだ。


「ゆいと、手芸部に入ってよ!」


「手芸部?」


 結人はあっけにとられておうむ返しに応じた。直太朗は満面の笑みで頷く。


「正確には今は手芸同好会なんだけどね、おれは手芸部に昇格させたいって思ってるんだ。みんな好きに活動してるし、ゆいとが入ってくれたらもっと楽しくなると思う!」


「いや、ちょっと待ってくれ」


 結人は両手を軽く挙げてひらひらと振った。前のめりで話していた直太朗はきょとんとした表情で口を閉ざす。


「俺はそんなに手芸に興味ないし、手先も不器用」


「やってみればきっと楽しくなるし、みんな最初は不器用だよ」


「そうか?」


「そうだよ!」


 結人は直太朗の勢いに少しのけぞった。本気で手芸部――今は同好会らしい――に結人を勧誘したいようだ。悪い気もしないがそこまで気乗りもしない、どうしたものか、と結人が悩んでいると、直太朗が首をことりと傾けた。


「帰宅部よりいいと思うんだけどなぁ……。裁縫、楽しいよ?」


 そのとき、結人の脳裏に小学生の頃の直太朗が蘇った。ある雨の日の休み時間、退屈していた結人が直太朗の席に向かうと、一生懸命何かを縫っていた直太朗が同じように結人を誘ったことがあったのだ。


「……そういや、ナオ、は小学生の頃から裁縫が好きだったな」


 ぽろりと結人がこぼした言葉に直太朗は大きく目を見開き、次いで、ふわりとはにかむように笑んだ。


「覚えてたんだぁ……嬉しい……」


 頬をほんのり染めた中性的な直太朗の無邪気な表情に、結人の心臓はとくりと小さく鳴った。

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