第2話

本家での生活はあまり良いものではなかった。

 生活の質自体は良かった。なんせ大名士なんだから。

 親父は厳しい人だった。

 いつも眉間にしわを寄せていて、笑った顔なんて見たことなかったし、実際のところ、会話だってあまりできなかった。

 お袋は優しい人だった。

 親父とは正反対で、いつも遊んでくれたし、いつも一緒にいてくれた。

 そんなお袋が親父のことを「ああ見えて悪い人じゃないのよー」なんて言うから、俺は親父のことを最後まで嫌いになれなかったんだと思う。

 妹は、気弱な奴だった。

 親父に怒られたりすると、いつも泣いていて、その度に俺やお袋に甘えてきたものだ。

 そんな妹の方が才能に恵まれていたことを、俺は薄々感じ取っていた。

 次第に親父は俺よりも妹を優先するようになり、俺はだんだん居場所を無くしていった。

 それでもどこか、親父に認めてもらいたくて、兄貴でいたくて、必死になって努力した。

けれど、十五歳の時。

―――家督は天華に継がせる―――

 そう言われて、自分の世界が崩れた音がした。

 必死にやってきて、必死にやらされてきて、そんなことを言われたのだ。

 親父とは、それっきりだった。

 妹のことも、心のどこかで突き放していたのは確かだ。

 そんな生活に耐えかねて、家を出た。

 そして俺は、ただの久条七緒になった。

 

六月十五日 月曜日

 重い足取りで登校して、内履きに履き替えながら、七緒は今朝見た夢のことを考えていた。

 本家でのことを夢に見たのは、当主然とした天華を見たせいだろうか。

 思い出したくも無いことを見せつけられたみたいで七緒は朝からテンション低めだった。

「おーす」

 とぼとぼと教室に向かっていると、不意に背後から肩を組まれた。

 松枝だった。

「あぁ」

 自分でも驚くくらいテンションが上がらなかった。

「おいおい、何かひでー面してんなぁ。姉御に振られたのか?」

「へ?」

 自分でも驚くくらい、呆けた声が出た。

 そう言えば、どうなんだろう。

 昨夜は何かいい雰囲気になっていたような気がするが、天華の介入があったおかげでいろいろとうやむやになってしまった。

(改めて聞くか? いやこの状況でそれは無理だろ……)

 腕を組んで唸る七緒を見て、松枝は気まずそうに口を開いた。

「あ……もしかしてマジに?」

「いや、どうなんだろうな。よく分からない」

 正直な感想だった。

「なんだそりゃ。煮え切らねぇなぁ」

 ふと、七緒は思った。

「祭りの時さ、何かあったか?」

 そう。祭りの横で派手な戦闘を繰り広げていたのだ。もしかしたらもしかしているかもしれない。

「何かって何だよ」

「いや、事件とか事故とか……とにかく何でも」

 松枝は不思議そうに首をかしげてから答えた。

「いんや、何もなかったと思うぜ。予定通り終わってたみたいだしな」

 それを聞いて安心した。普通にばれていないということもあるだろうが、問題があってもおそらく本家が何とかするだろう。

 とにかく、何も無かったということで、七緒は胸を撫で下ろした。

「って、おいおい、あれ見ろよ」

 教室にたどりつき、いざ入ろうというところで、急に松枝が立ち止まった。

 早く席についてぐったりしたいというのに、襟を掴まれて足止めされる。

「何だよ……」

 渋々そこに目をやると、そこにはお嬢スマイルを浮かべた天華が立っていた。

 ひどく、嫌な予感がした。

「おはようございます、松枝さん。いつも兄さんと仲良くしてくださってありがとうございます」

 お淑やかな今の天華と、昨夜の冷たい天華のギャップのせいで、頭がくらくらする。

「いえいえ。天華さんも、相変わらずお美しいですね」

「まぁ、お上手ですね」

 頭痛のする状況に七緒は頭を抱え、大きなため息をついてから口を開いた。

「わざわざ教室の前で待ちやがって。何の用だよ」

 ちょっと気まずい。何しろ昨夜、啖呵を切ったばかりだ。

 しかし、天華はお嬢様のノリで続けた。

「用事がないと会いに来てはいけないんですか? 私たち兄妹なのに……」

 口元を抑えてうつむく天華。

 周囲の敵意溢れる視線が七緒に突き刺さる。

(悲しむふりをするな、周りのやつら殺気立ってるから!)

 得体の知れないファンクラブを敵に回すのは、さすがの七緒も避けたいところだった。

「あ、あー! 会いに来てくれて嬉しいなー!」

 やけくそ気味にそう言うと、天華はそれはそれは幸せそうに笑った。

 周りの連中も幸せそうな顔をしていた。

 俺何やってんだろ、と七緒は思う。

「って、いいから。とっとと本題に入れよ」

 横でにこにこしていた松枝を教室に叩き込んで、天華と二人で向き合う。

 瞬間、天華の表情が冷たくなる。当主モードだ。

「昨日も言いましたけど、身を引く気はありませんか」

 鋭く、冷たく言い放つ。

「またそれか。しつこいぞ」

「私は兄さんのためを思って言っているんですよ」

 天華は七緒の右手の紋章を指差す。

昨夜、右手に現れたそれは、痣のようにうっすらと残っていた。

「そんな力を手に入れたからと言って、兄さんは素人です。あんなのと戦うなんて危険すぎます。ましてや、兄さんが狙われているなんて」

 それは何だか、昨夜よりいくらか優しい口調に思えた。

「心配してくれてるのか」

「当たり前です!」

 そうまっすぐ言われると、七緒も強くは出にくかった。

「兄さんごときでは、足手まといだと言うのが分かりませんか」

 その言葉は、重く響く。

「兄さんさえ良ければ、事が終わるまで屋敷に匿うことだってできます。屋敷が嫌なら、街の外にいてもらうこともできます」

 その言葉は、優しい選択肢。

「久条の当主の全霊を持って、兄さんを守ります。ですから」 

 心配されるのは、ありがたい。思ってくれてるのは、嬉しい。

「そうか。でも、悪い」

 しかし、七緒もそう簡単には揺るがない。

 自分が弱いことは分かっている。

 天華の言うことが正しいことも分かっている。

 けれど。

「俺にだって、守りたいものがある」

 応えたい想いが、ある。

 天華は俯き気味に口を開いた。

「そんなに、あの人が大切ですか」

「あぁ」

 少しだけ、天華が後ずさったような気がした。

 悪いとは、思っている。それでも、大切な人を放ってはおけない。

 正面切って目を合わせて、数秒。

やがて、天華は吹っ切れたような、呆れたような表情をした。

「分かりました。なら、こちらも相応の行動をとらせてもらいます」

 それだけ言って、天華は去っていった。

 辺りの人だかりが散らばっていく。

 ホームルームのチャイムが鳴った。

 

(相応の行動か……)

 その言葉がずっと引っかかったまま放課後になり、ぼんやりと天華が言っていたことを思い返しながら校舎を出て、七緒はそれを目にした。

 何やら校門のあたりに人だかりができていた。

 遠目から察するに、何やら珍しいものを見ているようだ。

 特に興味も湧かず、それどころではないと無視しようとした七緒だったが。

「とんでもねー金髪の美人さんがいるらしいぜー!」

 真横を走り抜けていった生徒の口からそんな言葉が聞こえ、まさかという予感が芽生える。

(おいおいおいおい……)

足早に校門まで行くと、案の定というかなんというか、フラウがいた。

予想通りの展開に思わずため息が漏れる。

対するフラウは、七緒を見つけるなり「おーい」と暢気に手を振る。

周囲の視線に気まずさを感じながら、フラウの元へ。

「何か用事?」

「うん。まぁ用事といえば用事なんだけどね」

 あーだの、うーんだの、口をまごつかせるフラウ。

 ここまで歯切れの悪いフラウを七緒は初めて見たような気がした。いつものんびりしているとはいえ、言うことはいうタイプだと思っていたからだ。

「本当はね、七緒くんの家の前で待っていようかとも思ったんだけど、学校っていうのが気になって来ちゃった。日本の学校って大きいんだね」

 確かに周囲のそれと比べて七緒の通う黄明学園の校舎は立派なものであるが本題はそうではなくて。

「俺の家?」

「いやぁ、そういう気分だったのさ。七緒くんに会いたかったし、いろいろと話したいこともあるしね。端的に言うと作戦会議というやつさ」

 どことなくフラウはウキウキしているように見える。

 七緒も、会いたかったという言葉に少し鼓動が跳ねていた。

「あー、とにかく行こう。こんなところじゃ人目につく。ただでさえフラウさんは目立つんだから」

 

 二人で歩く。

 商店街の辺りを二人で歩くことはそれなりにあったが、住宅街の方を二人で歩くのは初めてだった。

「平和だねぇ」

「ん? まぁ、平和っちゃ平和だけど」

 確かに、街を歩いている分には、あんなバケモノの存在は到底信じられないが。

「いや、こっちの話。私ね、昨日の夜は久しぶりにぐっすり眠れたよ」

「どういうこと?」

 少し苦笑いを浮かべてから、フラウは口にした。

「私、夜は大体探索に出てたから、いつもは昼に寝てたんだ」

 そう言われて、七緒はふと思い出した。

「店に行くといつも寝てるのはそういうことだったのか」

「まぁ、それだけが理由ってわけじゃないんだけどね」

 少しだけ、フラウは目を伏せた。

「ずっとね、寂しかったんだ。あいつをずっと追い続けて、気の休まる時はほとんど無かった。でもね、七緒くんが助けてくれて、肩の荷が下りたというかなんというか」

 フラウが一人で戦い続けた苦労は計り知れない。七緒はそれを知る由もない。

 それでも。一人ぼっちが辛いことは、七緒は良く知っている。

「それで? 俺を頼ってくれるのかい?」

 自信満々の七緒の顔を見て、フラウは苦笑交じりのため息をついた。

「どうせ、駄目って言っても君は来るだろうし、あいつのターゲットも君みたいだし。確かに一緒に行動した方が良いかもね。囮として、せいぜいこき使わせてもらうよ」

 そう言われて、無意識に七緒の頬が緩む。

囮だろうが何だろうが、心底嬉しい。

「それと、もう一つ」

 少し頬を赤らめて、フラウは咳払いをした。

「ありがとう、ね」

 そう言われて、七緒の心臓がどきりと跳ねた。

(あぁ、やっぱり。この人のことがどうしようもなく好きなんだな、俺は)

 それを改めて自覚し、真っ赤になった顔をフラウに見られないように、七緒はそっぽを向いた。

 そして、不意にそれが目に入った。

 話しているうちに大分歩が進んでいたようで、気づけばすでに自宅の前まで来ていた。

 問題はそこ。家の前。でかいトラックが止まっている。

 七緒には心当たりが無かった。

 トラックをよく見ると、どうやら引っ越し業者のものらしい。

(あー……)

 そこはかとなく、嫌な予感がした。

 現在進行形で、やたらと立派な家具を運んでいる業者と、それを見て「力持ちだねぇ」なんて暢気な声を上げているフラウをとりあえず置いといて、七緒は家の中へと飛び込んだ。

 靴を脱ぎ捨て、居間へ。

 そこに。

「あら、兄さん。おかえりなさい」

 ちゃぶ台で優雅に紅茶を嗜む天華がいた。

「おい、どういうことだ」

「何って、引っ越しですよ」

 頭を抱える七緒に、天華はけろっと答えた。

「引っ越しって、何で」

「言ったでしょう、相応の行動と。あれが兄さんを狙っている以上、放っておくわけにはいきません。だからこうして、つきっきりで護衛するために引っ越してきたんですよ」

「屋敷はどうした?」

「もともと、あんな大きな屋敷持て余していたんです。学校も遠いですし」

 こんな自由な当主がいて良いのか、と七緒は思う。

 天華がそばにいてくれるのは心強い。しかし、急すぎるというか、いろいろ気まずいというか。

「七緒くん、上がるよー」

 不意に玄関からフラウの声。

「お客人ですか。妹としてちゃんと挨拶しなければなりませんね」

 なんて言って、立ち上がる天華。

(これは非常にまずい! この状況で二人を会わせるのは絶対にまずい!)

 ただでさえ険悪なムードの二人が顔を合わせたらどうなるか。

(フラウさんはともかくとして、天華は絶対にやばい!)

 とはいえ、時すでに遅し。

『あっ』

 鉢合わせた二人が発した声は、それはそれはきれいに重なり。

 瞬間、空気が凍った。


 二人を一端離れさせ、個別に状況を説明した七緒。

 天華は言わずもがなブチ切れ、フラウは天華が越してきたと説明するや否や「私も!」なんて言って店からいろいろ詰め込んだスーツケースを持ってきて。

ちなみに、業者が運び入れていた家具はというと、二階の一室に運び込まれ、一般的な一軒家の一室とは思えないほどブルジョワな部屋が出来上がっていた。屋敷は大きいと言いつつも、感性はしっかり金持ちになっているのか。

かくかくしかじか。

結局、居間でちゃぶ台を囲むことになった。

 久条の当主として話は聞いてやる、といった感じの天華と、七緒と天華がガヤガヤやっているのを眺めて何だかにやついているフラウ。

 とにかく、状況が落ち着いたところで、話が始まったのだった。

「さて、どこから説明してもらいましょうか」

 静かな威圧感と風格を感じさせる佇まいで、天華が口を開いた。

「私たちはともかくとして、七緒くんはほとんど現状を分かっていないんじゃないかな」

「あぁ。全然分かってない。あいつが何なのかとか」

 案外反りが合っているように見える二人に内心びくびくしつつ、七緒はそう答える。

「それは私よりもそちらの方の方が詳しいと思いますので一任します。というか、私もあれに関してはほとんど分かりません」

フラウは一つ頷いた。

「あいつは邪神ヴァロル。魔眼のヴァロルとも、もうしんヴァロルとも言われているね」

「もうしん?」

 聞きなじみのない言葉に七緒は首をかしげる。

「盲目の盲に、神で盲神。とにかく、目にゆかりのある存在だってことが言い伝えられてる。目玉を儀式に使うだとかね」

「それにしては、眼なんか無いように思えたけど」

 そうだ。七緒が相対したのは人型に闇を捏ねたようなやつで、顔面には目どころか何もなく、盲神というのはともかく、魔眼という話は少し理解しがたかった。

「あぁ、あれはただの使い魔、というか分身だよ」

「分身って、俺使い魔にボコボコにされたのか」

 少し凹む七緒。

「分身とはいえ、分身も本体もそれ自体はそう強くない。一番厄介なのは、名前の通り本体が持つ魔眼だよ。四元素の並列使用、分身、結界、監視、使い魔。なんでもござれのとんでもないやつさ。術式が宿った魔眼をいくつも保有しているんだ」

 いまいち凄さがわかりづらかったが、フラウが言うのならとんでもないのだろう、と七緒は何となく説明を呑みこんだ。

 ふと、天華が手を挙げた。

「確かに、対策を考えるのは大切ですが。私が知りたいのはなぜあれがこの街にいるのか、ということです。この街がバケモノと縁もゆかりもないとは言いませんが、あれは明らかに異常な存在です。よりにもよって邪神だなんて」

 それもごもっともだと、七緒は思った。なぜ自分が狙われているのか、なぜこの街なのか、なぜフラウがヴァロルとかいう奴を追っているのか。よく考えてみれば分からないことだらけだった。

「それに、あなたのことも百パーセント信用したというわけではありませんからね」

 釘を刺すように告げる天華。

 確かに、天華からしてみれば自分の家の庭で見知らぬ連中が喧嘩をしているようなものなのだ。信用も何もあったものではないだろう。

「そう、だね。それは確かに説明しないといけないね」

 先ほどまでとは打って変わって、歯切れが悪くなるフラウ。

「事の発端は、私の故郷で起きたの」

 嫌な思い出を語るように、ゆっくりと口を開いた。

「私の故郷は、アイルランドの小さな村だった。その村には、私たち一族を始めとした魔術師の家系が世間から隠れてひっそり暮らしていたの」

「自然魔術の権威、テレサドール、ですか。めっきり姿を消したと聞いていましたが」

「そうだね。確かに落ちぶれたっていう話は聞いた。といっても、魔術師一族ならそう珍しいことじゃない」

「あー、悪いんだけど、」七緒は気まずそうに口を開いて、「その、フラウさんの家は凄いのか?」

 長いこと魔術から離れていた七緒だ。アイルランドという国に魔術的価値があることは何となく分かっていても、それでも、魔術師の一般常識や家計には疎い。

「凄かった、というのが正解でしょうね」

 天華の言葉に、フラウは苦笑いしながら頷いた。

「とはいっても、一時は魔術界のトップに名を連ねていた一族です。まだ牙を隠しているかもしれません。そう言った意味でも、私はあなたを信用していません」

 要するに、素性の知れないよそ者である、と天華は言いたいのだろう。それもごもっともではあるが。

「ふふ、久条の当主にそこまで言われるなんて光栄だね」

 睨みつけるような天華と、それを受け流すように微笑むフラウ。

 やっぱり機嫌の悪そうな天華に一触即発の気配を感じて、七緒は慌てて口を開いた。

「それで。村が何て話だっけ」

 そう言うと、天華は睨むのをやめ、フラウもまた、真剣な顔で再び語りだした。

「結論から言うと、ヴァロルは村に、テレサドールに封印されていた魔導書なんだ。何で解き放たれたのかは、私にも分からない。気付いたら村は火の海になっていて、私は魔導書と一緒に封印されていたあの槍、アラドヴァルを手にして、何とか生き残ることができた」

 何も言わずに、七緒は耳を傾けていた。

「それからはいろいろあってね、あいつを追っていたらこの街にたどり着いたってわけさ。それがちょうど一年くらい前。あいつがこの街で活動を始めたのは最近のことだね」

 淡々と語り、フラウはまた微笑んだ。けれどその表情は、何かを後悔しているような、抱えているものを重々と感じさせるような、俯いた微笑みだった。

 七緒は何かを言おうとして、それでもやはり言葉が見つからなかった。フラウを助けるとは口にしても、彼女が背負っているものに口を出すことは、下手な同情をするようで憚られたからだ。

「まぁでも、あいつのことはそれなりに割り切っているんだ。七緒くんのおかげでね」

 言葉の意味は分かりかねたが、そう言ってくれるのは七緒としては嬉しいことだった。

「とにかく、あいつは放っておけない。もう、何も失いたくはないから」

 フラウは続けた。

「巻き込んで、ごめん」

 落ち込んだ表情のフラウに、その陰りを吹き飛ばすように七緒は笑った。

「何をいまさら。恥ずかしいから何度も言わせないでほしいな」

 そう言うと、フラウも笑った。

 目が合い、心が通じ合うような、そんな雰囲気が流れて。

「だから、良い雰囲気にならないでください」

 それを断ち切るように、天華が口を開いた。

 ハッと我に返り、慌てて目を逸らす七緒とフラウ。

「はぁ……まったく」

 呆れたようにため息をついて、天華はフラウを見た。

「あなたの事情は大体わかりました」

 その目つきは、声音は、先ほどと比べていくらか優しいように思えた。

「結局のところ、利害は一致していますからね。ですが勘違いしないでください。あれを退治するまでの関係ですから、馴れ合うつもりはありません。それに……」

 少し頬を赤く染めて、こう続けた。

「兄さんが狙われているのでは、おちおち夜も眠れませんから」

 それだけ言って、天華はそっぽを向いた。

(妹に心配されてちゃ世話ねぇな)

 そうは思いつつも、なんだかんだ天華がフラウを認めてくれたことが嬉しい七緒。

 そしてフラウもまた、心なしか嬉しそうに微笑んでいる。

 なんだかいい雰囲気。

「話もまとまったことだし、飯にでもするか。適当に作るから、くつろいでいてくれ」

 そう言って七緒が立ち上がると、不意に天華が口を開いた。

「そう言えば、何でこの人までこの家に住むことになっているんですかーーー?」

 静かな、しかしそれ故に凄みのある声音に、ぎくりと七緒の背筋が跳ねた。

「えー、いいじゃないか。よろしくね、天華ちゃんっ」

 やたらと上機嫌なフラウの口調に、今度は天華の眉がピクリと動いた。

「気安く呼ばないでくださいっ! あなたのことを認めたわけじゃないんですから!」

 ぎゃあぎゃあ。

(あー、騒がしくなりそうだ)

 不思議と微笑ましい状況に頬を緩ませつつ、七緒は台所へと向かった。


 なんだかんだでフラウが住むことを天華に納得させることには成功し、食後の方針会議が終わるころにはとうに夜になっていた。

 とにかく探索に出るということで三人でぞろぞろと夜の街へ出た。

 ふと、七緒は口を開いた。

「そう言えば、例の事件もヴァロルってやつの仕業なのか?」

 そう。松枝から話を聞いた時はまさかと思考を振り払ったが、いざこの状況に巻き込まれたのだ。そう思わざるを得ない。

「例の事件?」

 意外なことに、フラウは首を傾げていた。

「いや、衰弱死体がどうのっていうさ。俺も最近新聞を見せられて知ったんだが」

「悪いね、新聞は取ってないし、世事には疎くてね。それより、ヴァロル、というか魔術が関わっているなら久条か管理局が情報規制してるんじゃ?」

 情報規制という言葉には少しばかり驚いたが、確かに魔術が関わっているなら大っぴらに公表するべきではないというのは、七緒も思うところだった。

「えぇ、確かにあの事件はあれの仕業です。情報規制も多少はしていますよ。ですが、危険だということはしっかり伝えなくては。実際、人は出歩いていないでしょう?」

 天華の言う通り、街には人の気配が無く、不気味なほどに静まり返っていた。

 夜中に活動するというヴァロルの対策ということだろう。

「まぁ、本当は人払いをかけておければいいんですが、さすがに全域ともなると手が回りませんから。仕方なくニュースにしているんです。それに、見張りは置いてあるので、何かあればすぐ分かるでしょう」

 手際が良いというか、いろいろ考えているというか。

「凄く当主っぽいな、天華」

 感心した七緒だったが、天華は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「犠牲が出ている時点で、その言葉は嬉しくありません。これ以上犠牲者を増やさないためにも、早く何とかしなければ」

 その言葉ももっともだった。

 当主としての計り知れない責任感がきっと天華にはあるのだろう。

 一方のフラウもまた、天華と同じような顔をしていた。

 見知らぬ人々を巻き込んでしまったことに、やはり思うところがあるのだろう。

責任感と罪悪感に苛まれる二人に挟まれて、七緒はふと自分が場違いなのではないかと思ったが。

ふいに、フラウと天華が立ち止ったのに気づいた。

「天華ちゃん」

「はい」

 何かを感じ取っているのか、目を合わせている二人。

「どうした、何かあったのか?」

 そう聞くが早いか、二人は走り出し、七緒も慌てて二人の後を追った。

「探知に引っかかりました! すぐそこです!」

「ヴァロルともう一つ、多分一般人だ! 急がないと!」

 塀や民家の屋根を軽々と行く二人になんとか追いすがり、七緒はふと嫌な予感を感じる。

(こっちの方は……商店街じゃねぇか!)

 湧いてくる最悪のイメージを振り払い、たどり着いたのはいかにもな路地裏だった。

 建物と建物の隙間にぽっかりと空いたそこに、それはいた。

 気配こそ同じではあったが、最初に出くわしたアレとはだいぶイメージがかけ離れていた。

 悪魔の姿ではなかった。闇のローブが全身を覆い、顔の部分はフードの深い洞に隠れている。その姿は、いかにも魔術師というイメージそのまま。それに何より、周囲を歪めるほどの瘴気が如き魔力が、その輪郭をぼやかすようにローブの内側から溢れだしており、濃密な闇がそこに渦巻いているようだった。

「やぁ、あと少し遅れていたらこの娘の魂を吸い上げていたところだ」

 姿がぼやけているように、その声もまた、妙な声だった。様々な人間の声をサンプリングして、それらを雑に重ね合わせたような、耳障りな声。

(この―――娘?)

 輪郭のぼやけるヴァロルを直視できないまま、それにピントが合った。

人。ヴァロルが人を抱きかかえていた。そして、その顔には、その制服姿には見覚えがあった。

「憂木っ!」

 それを目にした瞬間、七緒は切れていた。

「て―――めぇッ!」

 目の前の敵がどれだけ強大かは分かっている。それでも、足が前に出ていた。

「七緒くん!」

「兄さん!」

 制止の声など歯牙にもかけず、怒りを爆発させる。

 前へ駆けながら、一発ぶん殴ってやろうと拳を振りかぶる。しかし。

「おぉ、怖い怖い……。ほうら受け取れ」

「なっ!?」

 途端、ヴァロルは後退し、憂木の身体を前方へ放った。

 不意の出来事に一瞬焦った七緒だったが、憂木の身体をしっかりと抱きとめることには成功する。

 呼吸の音に少し安堵するが、完全に力が抜けている憂木の身体に少し血の気が引く。

 そっと、憂木の身体を横にする。

「あ……?」

 恐る恐る、憂木の顔を見る。

 それを直視することは、怖かった。しかし、見なければいけない。少しでも最悪を払拭するために。

かすかな、しかし乱れた呼吸。青ざめた顔。

それを目にした瞬間、ノイズのような頭痛とともに、ぐらりと頭が揺れた。

(何で憂木が、何で憂木なんだ、何で……)

 怒りや焦り、恐怖が積み重なり、疑問が思考を覆うにつれ、最悪のイメージが思考にまとわりついていく。

 視界が歪み、世界が遠のく。血の気が、感覚が、自我が、失われていく。

「……! あ……っ!」

身体から抜けていくそれを手放さないように、必死に喉を震わせるが、何かが詰まっているかのように、締め付けられているかのように、声が出ない。

そして。

「七緒くん」

 その声と、肩に置かれた温かい感触に、悪夢から目覚めたかのようにドクンと鼓動が高鳴る。

 半ば反射的に振り向くと、後ろに立っていたフラウと目が合う。

 背中を強く叩かれたような感覚に呼吸が詰まったが、しかし、そのおかげで飛びかけていたものがかちりと嵌る。

「落ち着くんだ」

 静かな、諭すような声。

芯から震えていた肉体に次第に熱が戻り、歪んでいた視界が元に戻る。

もう一度、憂木の顔を見る。

変わらず苦しそうだ。しかし、七緒の心に動揺は訪れなかった。

七緒が確かに認識したのは、静かな怒り。

「この子、大丈夫か」

 隣に膝をついたフラウにそう問いかける。

 フラウは一通り憂木の身体を見て、一つ頷いた。

「外傷は見受けられないし、魔術の類も感じ取れない。大丈夫、気を失っているだけ。あいつの魔力に当てられたんだと思う」

 それを聞いて、七緒が安堵しかけたところでフラウは続ける。

「でも、あれの魔力はそれだけで常人を狂わせる。一応、私の魔力で打ち消しておこう」

 フラウは憂木の額に手を当てると、その手がほのかに光を放つ。

 温かみを感じるような、滲むような光が憂木の身体に流れ、苦しげなその表情が和らぎ、呼吸も落ち着きを取り戻す。

 今度こそ七緒は安堵し、深く息をついた。

 憂木の身体を抱き上げ、建物の壁にもたれさせるように置き、最後に憂木の顔を一瞥し、静かに呟いた。

「もう、大丈夫だ」

 それは、憂木に、フラウに、そして自分に向けた言葉だった。

七緒は目を瞑り、まだ少し震えている手を強く握り、一つ深呼吸をする。

ふつふつと、はらわたが煮えくり返る。

ニュースで見る分には実感が湧かなかった。危険な存在であることは、よく分かっていた。フラウの敵であることは分かっていた。しかしそれらは、直接的に自身とヴァロルとは結びつけるものではなかった。

 だが、たった今。身近な人間が傷つきそうになったという実感が、こいつは悪なのだと、いてはならない存在だと、七緒にそう判断させた。

 震えはとうに止まり、確固たる足取りで七緒は歩み、それと対峙する。

「そう怖い顔で見るなよ、久条七緒。そっちのお嬢さんもな」

 気づくと、七緒の横に天華が立っていた。それどころか、天華は七緒より半歩分前に出た。

「おい天―――」

「少し、下がっていてくれますか」

「あっ、はい」

 制止しようとする七緒だったが、天華の睨むような視線に射抜かれ、すごすご身を引いた。

(あーもう、啖呵切ってやろうとしたのに、カッコつかねぇなぁ)

 妙な気まずさ。けれど、程よく緊張が解けたような雰囲気に少し気が緩んだ。

ため息交じりに頭を掻く七緒をよそに、腕を組んだ仁王立ちで敢然と対峙する天華。

「ヴァロル、とかいいましたか」

「いかにも。そういう君は御当主様だったか。お初にお目にかかる」

 仰々しく礼をするヴァロル。動作こそ丁寧だが、言葉の端々に交じる笑いに慇懃無礼が滲み出ている。

「なぜ、この街に」

「理由などない。偶然だ」

「なぜ、人を」

「答えるまでもない、が。あえて言うなら食事、だな」

 あまりに平然と言い放ったそれに、七緒は無性に腹が立った。

 しかし、七緒より先に天華が口を開く。

「そうですか」

 それだけ。しかし、たったそれだけの言葉に、七緒は息が詰まるほどの迫力を感じていた。

 一つ、大きな深呼吸をして、天華は言い放った。

「さすがに、頭に来ました」

 ぱちり、と。電流が走るような感覚。

 地面に手を置き、何かを呟く天華。

 次の瞬間、轟! と突風が巻き起こり、七緒は反射的に腕で顔を覆った。

 風に交じって肌にひしひしと伝わる魔力の感覚。それは憂木を癒したような暖かなものではなく、明確に敵意の籠った棘のような魔力。

「もっと下がっていてください。巻き込んでしまうかもしれません」

 言われるがままに七緒はいくらか身を引く。

「ほう。地主というだけあって、地脈から直接魔力を抽出しているのか」

  愉しそうにそう言って、ヴァロルは片腕を突き出した。

 そこに一瞬、闇が渦巻き、その手には何かが現われていた。

 一見して、それは書物に思えた。重厚な、年季の入った書物。

 しかし、それを直視して、ぞくりと七緒に悪寒が走る。

 その表紙の、ぎょろりと剥いた目玉。

異様で、異質で、狂気的だった。

「だが、生憎遊んでいる暇はない。この場は撤退させてもらう」

 本を掲げ、呪文を唱えるヴァロル。それは、まるで何かを呪うような言霊だった。

 瘴気が渦巻き、それらは数頭の獣に変質する。

「さらばだ。また会おう」

 ローブが翻り、瘴気に紛れて姿を消すヴァロル。

「待ちなさい!」

「おいっ!」

 七緒の制止も聞かず、魔力を火花のように散らしながら天華はそれを追う。


 闇夜を駆け、瘴気の霧を追う天華。

 天華にとって街に流れる魔力や地脈は外部感覚と言える。そこに異物が紛れ込めば、否応なしに察知することができるのだ。

「はっ!」

 数メートル前方の瘴気の渦に対し、天華は魔力を弾丸として放つ。

 初歩の技術ではあるが、天華ほどの腕ともなれば、それは散弾銃にも機関銃にもなりえる。

 それに対し、ヴァロルは障壁を張るが、降り注ぐ魔弾の雨を受けて容易く砕け散る。

「さすがに今の状態では分が悪いか」

 焦り気味に言うヴァロルに天華は内心ほくそ笑んだ。

(行ける! 倒せる!)

 ヴァロルは魔神とまで言われる存在だ。いかに三対一と言えど、一介の魔術師が敵うわけもない。天華がいくら頭一つ抜けているとしても、それもあくまで魔術師として。魔神とは比べるべくも無いのだ。

 しかし、そのヴァロルは現状逃げの一手。

(出力では敵わなくても!)

 土地に根差した久条の当主であるからこそできる芸当。地脈から無尽蔵に魔力を引きだし、叩きつける。

「ちいっ!」

 先ほどまでの余裕な態度とは打って変わって焦りを見せるヴァロル。

 その様が天華の攻勢に拍車を掛ける。

「くらいなさい!」

 今度はただの魔力の塊ではない。正真正銘、魔術の一撃。

 振りかぶった魔力が龍を成す。久条の地に残る龍神の伝承。それを形にするのが久条の魔術。

「龍燕ッ!」

 圧倒的な質量が周囲を歪ませるようにうねり、唸り、尾を引いて放たれる。

 魔弾程度も防げないヴァロルに、それを防御することは不可能。

 ところが。

 龍の一撃はその瘴気をすり抜けた。

「ふん、戦闘経験が浅いと見た」

「!?」

 気が付けば、ヴァロルが目前に現れていた。

 二の矢を放とうとする天華。しかし。

 もう一度振りかぶろうとした腕が、いや全身がピクリとも動かなくなり、それに伴って、全身の血の気が引いていくように、悪寒が天華を襲う。

 そして、天華はそれに気づく。

 辺りに漂う奇妙な球体。それは、いつか標本で見た。

 目玉。

(これが魔眼……!?)

 ぎょろぎょろと動き、そしてそれは、天華を見据える。」

「魔術の腕は確かなようだが、この程度の罠にも気づかないとは。何より、動揺が見て取れたぞ」

 その一言に、ぞくりと総毛立つ。

「黙りなさい……!」

「どうやら図星のようだな」

にやりと、嗤ったような気がした。

「どれ。その心、覗いてやるか」

 黒い手が伸び、天華の意識は消失した。


「おい、天華っ!」

 その呼びかけで、天華は目を覚ました。

 星空が見える。星の位置からして、さほど時間は経っていないようだった。

「兄……さん」

 体は少しばかり重かったが、動けないというほどではない。

 七緒に支えられていた身体を起こす。

「天華っ。よかった……!」

 近くには憂木を抱きかかえたフラウが立っている。

立ち上がって、天華は立ちくらみを感じた。

ひどい悪夢を、見たような気がした。

何より、負けたことが悔しかった。

それが、天華を苛立たせる。

「大丈夫なの? あいつと戦ったんだろう?」

 心配げに聞いてくるフラウ。しかし、その心配すらもやけに癇に障る。

「なんともないです。向こうには、完全に遊ばれたようですし」

半ば投げやりにそう言って、天華は七緒たちに背を向けた。

「先に、帰りますね」

 その場から逃げ出すように、速足で、天華は姿を消した。

 最後の言葉は、震えていた。


六月十六日 火曜日


授業を受けながら、七緒は昨日のことを思い出していた。

(なんというか、昨日だけでめちゃくちゃいろんなことがあったような……)

 フラウと天華が家に住み着いたり、ヴァロルとかいうバケモノを改めて認識したり。

 何より、七緒の気にかかっていたのは天華のことだった。

 昨夜のこと。そして今朝は、何も言葉を交わさずに別々に家を出てきた。

気丈な天華が、バケモノに負けたくらいで凹むとは、考えにくい。何か、悩みごとでもあるのか。

(だが、俺はそれを聞けるのか……?)

 長いこと天華と離れていて、ここ最近急に距離が近くなって。

 七緒は改めて、兄妹の距離感を掴みかねていた。

(俺なんかより、天華はよっぽど立派だ。今更、俺があいつにしてやれることがあるんだろうか)

 それが、妙に心に引っかかっていた。

 そんなことを考えているうちに、気付くと学校が終わっていた。

 ため息交じりに学校を出ると、天華が待ち構えていた。

「よう。ちょっと商店街に行こうと思うんだが、一緒に行くか?」

 天華は何も言わず頷いて、二人で歩きはじめる。

 会話は無く、やけに静か。

商店街にたどり着いて、七緒がようやく口を開こうとしたとき。

「あれ、久条くん」

 買い物袋を持った憂木と出会った。

 確かに商店街に来たのは憂木の様子を見るためだったのだが、不意に出くわすとなると少しばかり驚く。

「お、おう。意外と元気みたいだな」

 昨夜。気を失っていた憂木を、フラウの力を借りて憂木家に自然な感じで置いてきた。

 憂木の様子を見に来たのはアフターケアというやつだ。

今日、憂木は学校を欠席していた。まぁ、昨夜のことを考えれば当たり前といえば当たり前なのだが、七緒はそれに責任を感じずにはいられない。

「体調はどうだ?」

 原因は分かっているが、あくまで自然な感じで。

「あぁ、それでわざわざ来てくれたんだ。うん、何ともないよ。少し気怠いくらいかな」

「そうか。よかった」

「それだけ?」

「それだけと言えばそれだけだな」

 そこで、憂木が天華を見ていることに気付く。

「こんにちは。私、憂木明。よろしくねっ」

 これでもかとふわっとした挨拶だった。とても優しげな、それだけで男が落ちそうな。

 それに対して、天華はまるで借りてきた猫のように俯いている。いつもの天華なら上品に挨拶でもするところだろうに。

「おい、挨拶くらい返せって」

 七緒がそう言って、ようやく天華はぺこりとお辞儀をした。

「悪い。何だか調子が悪いみたいだ」

「ううん、気にしないで。それより、二人でいるのって珍しいね。学校で話してるのはこの間見たけど」

「あー、いろいろあってな」

 そう、いろいろ。

「でも、兄妹で一緒にいるのは良いことだよね」

「ん、あぁ。そうだな」

 兄妹という言葉が少し引っかかる。

 七緒が言葉に詰まっていると。

「よー、青春してるかー?」

「ちゃおちゃおー」

 不意に、魚田とぐるみんが現れた。

「明ちゃん体調崩したんだって? 今から見舞いに行くとこだったんだよ」

 そう言って魚田はりんごやらなにやらが入った袋を見せる。

「わざわざありがとうございます。そうだ、折角ですし、うちでお茶でもしていきませんか?」

「いいの? わーい!」

 呑気に喜ぶぐるみん。

「よかったら久条くんも……あれ?」

「どうかしたか?」

「えっと、妹さんは?」

 言われて気付く。隣にいたはずの天華の姿が消えていた。

 辺りを見渡して、来た道を戻っている天華の背中を見つける。

「っと、悪い。お茶は今度な」

 そう告げて、ばたばたと天華を追う。

「待てって」

 早足で歩く天華は、まるで逃げ出すような素振りだった。

「兄さんは、お知り合いが多いんですね」

「はぁ?」

 急にそんなことを言う天華に、少し驚く。

「なんだよそれ。今関係あるのか?」

 不意に、天華が向き直る。

「私は……!」

 拒絶するように。けれど、その先は言わず。

 走り去る天華。

「おい!」

 その背中は、ひどく遠くにあるように思えた。

 

 重い足取りで帰宅したものの、天華は家にいなかった。

「へぇ、そんなことがねぇ」

 諸々の事情を聞いたフラウは、困ったような顔をした。

「多分、あいつは俺を恨んでるんだと、思う」

 静かに、七緒はそう口にした。

「あいつが当主になったのは、俺に才能がなかったせいだ。それに託けて、俺は親父のことも、天華のことも、心のどこか恨んでいたんだ」

 本家でのことを思い出す。早々に見切りをつけられ、ひとりぼっちになった七緒。

 天華に嫉妬し、飛び出し、そして今に至る。

「だから、あいつもきっと俺のことを恨んでいるん」

 天華もきっと、一人ぼっちだったんだろう。そうさせてしまったのは、七緒自身のせい。 

「割り切ったつもりだったんだけどな。結局、直視するのが怖くて、そのツケが回って来たんだ」

 天華があまりにも立派になっていたからこそ、天華の思いに気づけなかった。

(何が兄貴だ……馬鹿野郎!)

 七緒は、深く息をついた。

 少しの間、沈黙が流れ、フラウが口を開いた。

「七緒くんのことは、まだよく知らないし。天華ちゃんにも、まだ会ったばかりだけど」

 優しげな、口調だった。

「二人がいい子なのは、よく分かるよ」

 フラウはそっと、七緒の頭に手を置いてなでる。

「きっと天華ちゃんは、離れていた分、七緒くんと一緒にいたいだけなんだよ。それがたまたますれ違っただけ」

 七緒の後悔を受け入れるように、その心を励ますように

「きっと、分かり合えるよ」

 静かに、フラウは続ける。

「二人は、兄妹なんだから」

 その言葉は、やけに心に響いた。

兄妹だからこそ、正面からぶつからなければ。

 それがわかったなら、くよくよしていられない。

 そっと拳を握り、覚悟を決める。

「探すの、手伝ってくれないか?」

「しょうがないなぁ。私も、天華ちゃんのことは気に入ってるからね」

 

 とうに日は暮れていたが、天華は家に帰れずにいた。

 街をとぼとぼと歩きながら、兄のことを考える。

(きっと、兄さんは今でも恨んでいる。兄さんの居場所を奪ったのは私なんだから)

 だからせめて、今の兄の居場所を傷つけないように、当主として力を尽くしてきた。

 遠くから平和に暮らす兄を見ているだけで満足だった。

 それが、突然現れたバケモノのせいで狂った。

距離が縮まったからこそ、見たくないものを目にし、兄を思わざるを得なくなった。

 そして。

「やぁ、当主様」

 不意に嫌な声が聞こえ、天華は身構える。

「ヴァロル……!」

「そう怖い顔をするな。お前が恨むべきは本当に俺か?」

「何ですって?」

「お前、本当は久条七緒が憎いんじゃないか? 家督を押し付けられ、なりたくもない当主にさせられ。だと言うのに、あまつさえお前は久条七緒を思っている。そこまでする義理があるのか? 久条七緒はお前を鬱陶しがっているんじゃないか?」

 捲し立てられ、天華は頭を抱える。

「ほら。お前は迷っている」

 ゆっくりと瘴気が天華を包む。

(私は……兄さんを……)

 次第に意識が薄れていく。

「さぁ! 解き放つがいい」

 周囲に瘴気が満ち、そして。


目前のそれを、七緒は認識できなかった。

 それを認識することを、意識が拒んでいた。

「天華……なのか?」

 瘴気に包まれているせいで判別しづらいが、虚ろな様子の天華に動揺を隠せない。 

「気分はどうだ? 久条七緒」

どこからともなくヴァロルの声が聞こえてくる。

「ヴァロル! テメェの仕業か!」

「なに、少しばかり心の隙をついてやっただけだ」

 平然と、そんなことを言い放つ。

それが、頭にくる。

踏み出す七緒を、フラウが静止する。

「フラウさん、悪いけど止めないでくれ」

 七緒は至って冷静だった。

 ヴァロルは確かに憎い。けれど、天華の心に隙ができていたと言うならそれはきっと俺の責任だ。

 だからこそ。

「天華は俺がなんとかする。俺が、なんとかしなきゃいけない」

 確固たる意思を持って、七緒はそう口にした。

 それに対し、フラウは一つ頷いて、そっと七緒の背を押した。

「そっか。なら、私は止めないよ。助けてあげて、お兄ちゃん」

 その言葉に、七緒は笑って応える。 

 天華を見据え、ゆっくりと、歩を進める

天華は虚ろに腕を掲げ、魔弾を放つ。

飛来する魔弾を七緒は避けない。

 避けようと思えば避けられる。だが避けない。

(これは、俺の罪だ。天華を一人ぼっちにした、俺の罪)

 天華のことを、どこかで避けていた。

 それでも、まだ兄さんと呼んでくれるなら。

 拳を振りかぶり、駆ける。

 金色の光が尾を引く。

「うおおっ!」

 天華との間を阻む、その分厚い障壁へと、渾身の力を込めて叩き込む。

『兄さんなんか!』

 それに触れた瞬間、頭の中に天華の言葉が響く。

(これは、あの時の……)

 本家を出ると決めた時、まだ気弱な女の子だった天華が言った言葉。

 あの時は、何も返せなかった。

(それでも!)

 幾度となくその障壁に拳を叩きつける。

 その度に、呪いの如き瘴気が七緒を襲い、膝が挫けそうになる。

「天華ァァッ!」

 その思いが届いたのか、障壁にわずかにひびが入り、そこを掘るように、次々と拳を重ねる。

 そして。

 広がったその亀裂に腕を突き込む。

 すぐそこに、天華がいる。

「天華!」

あたりをまさぐるが、それらしいものには触れられない。

「兄……さん?」

 壁の向こうからかすかに天華の声が聞こえる。

 七緒は叫ぶ。

「こんなのに負けるな!」

 天華を信じる。

「お前がいなくなったら誰がこの街を守るんだ! 久条天華は強い女の子だろ! 兄貴が言ってんだ、意地を見せやがれッ!」

 今更兄貴面をするのが、虫がいいことだっていうのは分かっている。

「苦しいなら、俺が助ける! 一人が嫌なら、俺がいてやる!」

 ずっと一人にしておいて、自分でもふざけるなと思う。

 それでも。それを改めて認識したからこそ、天華を放っておくわけにはいかない。

「だから来い! 天華!」

 その言葉に、天華は頷き、手を伸ばす。

 その小さな手を、掴む。

「おおおおっ!」

 その闇から救い出すように、強く手を引く。

天華を引き抜くと、瘴気は霧散した。

「大丈夫か? 天華」

 天華と向き合い、七緒はそう言った。

 静かに、天華は頷く。

「私は……」

 震えた声。

「私は、兄さんのそばにいたい……」

 天華は大粒の涙を浮かべて、口にした。

 震える天華の体を温めるように、守るように、七緒はその体を抱きしめる。

「あぁ、いてくれ。一人ぼっちにして悪かった」

 それに何度も頷いて、天華もまた抱きしめ返す。

 静かに、強く、離さないように。

 

「お取り込み中のところ悪いけど、ちょっとまずいよ」

 不意にフラウの声が聞こえて、二人はまるで磁石の反発の如き勢いで離れた。

 気づけば、そこにヴァロルが現れていた。

 ふらふらとした、足取りのおぼつかない様子は、今まで以上の不気味さを感じさせる。

「なぜ……、また……俺は……」

 ぶつぶつと何かを呟いているようだが、うっすらとしか聞き取れない。

 突然、ヴァロルを中心に瘴気の渦が巻き起こり、分厚い層がヴァロルを包んだ。

「俺は俺はおれは俺はオレハッ!」

 その中で、狂気の声をあげるヴァロル。

 脳髄の奥に響くようなその声に少し後ずさる七緒。

 そして。

 瘴気の層の向こうにいたのは、それまでのヴァロルとは姿が変わっていた。

 瘴気の洞に隠れていたその顔が、露わになっていた。

 闇の中にあってなお、輝いて見える金髪が特徴的だった。日本人離れした整った目鼻立ち。そして何より、その静かな佇まいから、七緒は何かの面影を感じていた。

「兄さん……?」

 不意に、隣に立っていたフラウが呟いた。

(兄さん……だと?)

 それを飲み込むのに、少し時間がかかった。

「兄さんなの? ねぇ! どうして!?」

 声を荒げるフラウ。

 それに対して、ヴァロル(?)は静かに口を開いた。

「久しぶりだな、フラウ」

 最悪の魔神であることを忘れさせるような、優しげな一言。

「どうして……?」

 今にも泣き出しそうなフラウ。

「どうして、か。分からないのか、フラウ」

 一転、フラウを睨みつけるヴァロル。

「お前は昔からそうだ。立派で、優秀で、天才で……!」

 静かに声を荒げて。

「お前が、俺の居場所を奪った! だから、今度は俺が全部壊してやる!」

 掌を突き出すヴァロル。そこに魔眼が集まり、巨大な陣を展開する。

 赤黒い光を放ちながら、それに魔力が溜まっていくのがわかる。

その圧に、七緒の膝が揺れる。

「消え失せろッ!」

 圧倒的なまでの魔力の塊が、光線となって放たれる。

 七緒は動けない。天華も足が竦んでいる。

 フラウが槍を突き出していた。

 槍の先端から展開されている障壁が光線を防いでいる。

 だが、それも辛うじて。次第にひびが入っていく。

「うあああぁ!」

 フラウのその声は、悲鳴のようにも聞こえた。

 とうとう耐えきれず、障壁が砕け散る。

 だが、光線が七緒たちを襲うことはなかった。

 ヴァロルの陣は次第に光を失って、その形を消失していく。

「魔力切れ、か。仕方ない」

 ヴァロルがそう呟くと、あたりに瘴気が立ち込める。

「終わりは、近い。邪魔立てするならば、次こそ容赦はしない」

 それだけ言って、ヴァロルは姿を消した。

「待って! 何で……何で!」

 息を切らしながら、フラウは言う。

 返答は、ない。


 一度帰宅し、三人でちゃぶ台を囲む。

 空気はひどく重い。

 七緒と天華は時折顔を合わせて何か話そうとするが、やはり空気のせいで口が開かない。

 ずっと俯いたままのフラウに耐えかねて、七緒が口を開く。

「あいつ、本当に兄貴なのか?」

 それを聞くのは少し憚られたが、それでも聞くべきだと七緒は判断した。

「ニール・テレサドール」

 静かに頷いて、フラウは口を開いた。

「あれは紛れもなく、私の兄だった。でも、あんな……」

 それに対して何を言えばいいのか、七緒には分からなかった。

「何が何だか分からない……!」

 頭を抱えて、一層俯くフラウ。

 ずっと追っていた敵の正体が兄だったのだ。その心境は計り知れない。

「フラウさん」

 口を開いたのは、天華だった。

「あれを、倒せますか」

 それを聞くのか、と七緒は少しゾッとした。

 フラウは何も言わずに、居間を飛び出していき、玄関から音が聞こえてくる。

「何であんなことを」

 静かに、けれど明確な反意を持って七緒は天華に問う。

 それはあまりにも、酷なんじゃないか。

 はっきりと、天華は口にした。

「私なら、できないからです」

 その声は、少し震えていた。

その言葉が、七緒の心に刺さる。

「そう……だな」

 洗脳などではなく、正真正銘の敵。それが、実の兄。

 その事実は、あまりにも辛い。

「少し、疲れました。今日はもう休みます」

 天華が立ち上がり、居間を出て行く。

 一人残った七緒は、静かに拳を握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る