光海のエーテリオン

シキドクロ

第1話

 闇夜を駆ける金色が一つ。

 たなびく金髪。その手に持つは金色の槍。

 ビルからビルを駆け抜けて、目下追うのは悪しき魔物。

 追いかけっこを始めてからかれこれ数分。獲物は小さい上にすばしっこい。いくら闇に目が慣れているといっても、さすがに限度がある。何度も見失いそうになるせいで、結局のところ魔力感知に頼らざるを得ない。

 しかし向こうも向こうだ。魔力感知に感づいたのかは分からないが、今度はあちこちに残滓を飛ばして撹乱してきた。能無しの眷属にしては頭は使えるようだ。

 その上、残滓一つ取り残して、街の人々に何かしらの影響がでてしまう可能性を考えれば、それらもまた、全て潰さざるを得なかった。

 追いかけ、残滓を潰し、また追いかけ、その繰り返し。

 流石に埒が明かないと考えたのか、魔術師はポケットから不思議な紋様が刻まれた小さなガラス玉を取り出して、それを魔物に向かって放り投げる。

 しかし、直接当てることが目的ではない。

 魔力を込めて投げつけ、数秒後、それは効力を発揮する。

 ルーン文字。古代文字の一種であり、儀式や占いに使用される二十四の神秘文字。そのあり方は魔術というよりおまじないのイメージが強いが、本職に使わせれば効果は十分である。

 その文字はシグル。その意味は太陽。

 瞬間。眩い光が周囲を包んだ。

 その光は魔にとっては天敵。陽の光であるからだ。

「!」

 ビルの影に身を隠そうとする魔物だったが、光を見てから反射するなど不可能。

 光を浴び、魔物の動きが止まる。

 魔術師は槍を構え、鋒を魔物へと向け、一つ息をついて跳んだ。それはまさしく閃光が如き。

 数十メートルの距離を瞬時に詰め、閃光は魔物を穿った。魔物は塵と化して霧散する。

 再びビルの屋上へと舞い降り、魔術師は一つ息をついた。

 魔物を刺し貫いた感触を確かめながら、街を見下ろす。

 その目に映るのは、覚悟か、迷いか。



一章


 俺の大切な人。

 その人は古本屋さんで。

 マイペースで、気高くて、優しくて。

 全てを投げ出した俺を救い上げてくれた。

 俺の、大切な人。


六月十二日 金曜日


(夢に見るとかよぉ、ロマンチックにもほどがあるってんだよなぁ……)

 一つため息をついて、久条七緒は学校の制服に袖を通した。

 一応、彼の自室であるその部屋には極端に物が少なかった。

 ベッドに、座り机、制服用の服掛け、そして小さな本棚。

 普段使わない物は大体押入れに仕舞ってあり、部屋は整然としている。

 彼の悩みは趣味が無いことだった。

いや、あるにはある。強いて言えばトレーニングか読書だが、前者は日課のようなものであり、趣味という感じではない。後者も後者で、憧れの人と話を合わせるために始めたものであり、そこまでの読書家というわけでもない。

そもそも、物事にこだわるという性質でもなかった。

 合理主義、と言えば聞こえはいいが、そこまで非情になれないのもまた久条七緒という人物だった。

 結局のところ、彼にとっての悩みというのは「あー、まぁいいか」で済むものなのである。

 とかなんとか言ったところで、彼の興味のキャパシティはある一人の人物にほとんど割かれているのだが。


 住宅街に並ぶ特に珍しくもなんともない、こぢんまりとした普通の一軒家が久条七緒の自宅だった。

 朝食を済ませ、支度をして七緒は家を出た。

「いってきます」

 返事は無い。

 ここで誰かが見送ってくれれば、一日頑張ろうという気にもなろうというのに。

 とはいえ、それも仕方の無いこと。この家に住んでいるのは七緒一人だけなのだから。

 家族がいないわけではない。確かに家族はいる。顔だって分かる。同じ街に住んでいる。

 それでも、彼が一人で暮らしているのには、とある事情があった。

 家々が並ぶ何の変哲もない住宅街をぶらりと歩く。

 天気も良い。心地の良い朝。

 時刻は七時五〇分過ぎ。学校までは歩いて二〇分ほど、ホームルームは八時半。

 時間には余裕を持って生活するのが七緒のライフスタイルだった。

余裕の無さ、落ち着きの無さは実のある生活の妨げとなる、というのは、ある人の受け売りではあるが。

住宅街を抜けると、広い大通りに出る。この辺りまで来ると、ちらほら人影も増えてくる。

学生だったり、社会人だったり。街行く人を眺めたところで何の感想も無いのだが。

と、信号に差し掛かったところで、それを目にした。

横断歩道に子猫が二匹。行儀の良い野良猫だなー、と感想を抱くよりも先に、七緒の背中に悪寒が走った。

信号は点滅している。子猫たちはまだ横断歩道の中ほどだ。どうやら、怪我をしている片方の猫をもう片方が引っ張ってあげているらしい。

そこに、真横から突っ込んでくるのは大型トラック。

(こいつは、まずいんじゃないか!?)

あまりにもあまりなこの状況にため息をつく暇もなく、七緒は無意識のうちに飛び込んでいた。

(駆ける――!)

七緒が心の中でそれを唱えた瞬間。

踏みしめた脚が異常なほどの力を発揮して、さながら縮地の如く、七緒の身体は前方に跳んでいた。

十メートルはあろうかという大通りの横断歩道を一息に詰めて子猫たちを拾い上げ、何とか危機を脱する。

 後方では何事もなかったかのようにトラックは走り去っていく。

 一息つこうとしたのも束の間、周囲の視線が七緒に刺さる。それもそうだろう。目にもとまらぬ速度で子猫を助けたのだから。

(さすがにまずいか、退散退散っと)

 七緒はそそくさとその場を後にした。

 

 魔術。七緒はそれを使うことはできても、その原理は良く知らなかった。

 マナがどうの、魔力がどうのだとは教わったが、ほとんど忘れたのだ。

 彼にとっての魔術は困ったときに使えるおまじないのようなもので、使うとちょっと疲れる、といった物だった。

 とはいえ、誰も彼もが使えるわけでもなく、その存在もまた、秘匿されるものであるという考えは、七緒自身にもあった。というか、その一点だけは脳裏に刻みついていて、忘れようもなかった。

当然だ。あんなものを誰も彼もが使えたら、それはそれで漫画みたいで面白そうではあるが、やっぱりいろいろと問題があるのだろう。

このご時世に魔術だ何だというのは、やっぱりおかしなものだ。

だから、七緒自身、魔術が使えるなんてことは内緒にしているのである。


人目を避けるべく、七緒は子猫たちを抱えて裏路地に潜り込んだ。

 子猫たちを地面に置くと、怪我をした白猫に寄り添うように黒猫が白猫をぺろぺろと舐めた。

 白猫の怪我はというと、挫いたのか、それとも轢かれたのか、前足から血が出ていた。白い体に赤い血が目立って少し気が滅入る。しかし、白猫が苦しそうに呼吸しているのを見たら、やはり放ってはおけない。

「ごめんな、俺がもう少し凄かったらパパッと治してやれるんだろうけど」

 いつか、木から落ちた時の怪我を、魔術で治してくれた母親のことを思い出す。けれど、七緒には怪我を治せるような魔術は使えない。七緒に使えるのは身体能力を向上させるだけの、思い込みのおまじないだけ。

 だから、七緒にできるのは。

「よし、保健室に連れて行こう」

この辺りの動物病院なんて知らないし、探すのも手間だ。それならさっさと保健室に連れて行った方が早い。

 助けたからには、責任を持つ。子猫に死なれたら、一か月は引きずりそうだから。苦しんでいる子猫を放ってはおけないから。

 ハンカチを包帯代わりに白猫の前足に巻いて抱きかかえ、置いて行くのは忍びないので黒猫も抱えて走り出す。

「少しだけ辛抱してくれよな」

 幸い、学校まではあと十分もかからない。

 猫を抱えて走るのを人々に見られるのは、少し恥ずかしい。

余裕とは程遠く、額に汗をかいて走るのは、少し面倒だ。

けれど、それでも。久条七緒は良い人でありたいのだ。


養護教諭に白猫と黒猫を預けて、七緒は保健室を出た。

養護教諭によれば、そこまでの怪我ではないとのことで、七緒は胸を撫で下ろした。

走ったおかげで時間にも大分余裕があり、猫助けをして気分よく教室へ向かおうとしたところで。

「あっ」

 なぜかそこに妹が待ち構えていた。

「兄さん、子猫はどうでしたか?」

「なんだ天華。見てたのか?」

 久条天華。七緒の一つ下の妹。

 齢十五にして大名士、久条の当主となったお嬢様。

 絹のような黒髪に、きりりと整った目鼻立ち。気品漂う高嶺の花。

 学内でも天華に憧れる生徒は少なくない。男女問わず。それを証明するように、遠巻きに天華を見ている学生が大勢いる。七緒としては居たたまれないが。

そして、天華のその気の強そうな目つきが七緒はどうも苦手だった。

「えぇまぁ。―――魔術を使っていたのも」

 見透かされたように言われ、一瞬、心臓が跳ね上がった。魔術を使ったのを見られたからではない、公衆の面前で天華が平然と魔術なんて口にしたからだ。

 七緒は周囲を見渡すが、特に生徒たちが不審がる様子はない。聞かれていなかったのか。

「大丈夫ですよ、兄さん。周りからは仲良くおしゃべりしているように見えるはずですから」

「それも、魔術か」

 天華は「えぇ」と答えた。

 ばれなければ何でもいいのか、と七緒はため息をついた。それはそれとして、後々、天華ファンに殺されないかも心配だった。

「心配ありませんよ、周りからはただの男女の逢瀬に見えるはずですから」

「心を読むな! ってかそっちの方が心配だ!」

 つくづく底の知れない妹にペースを乱される。

「それもこれも、兄さんが帰ってきてくれれば万事解決ですよ。兄さんは久条家の長男なんですから」

 その話をされると、七緒は言葉に詰まる。

 本家との問題も過ぎたことだし、今ではそれなりに割り切ってもいる。

 けれど、だからと言って今更戻るというのも、ありと言えばありなのだが、それでも七緒は本家に対する後ろめたさのせいか、首を縦に振ることができなかった。

「いや。屋敷には戻らない。俺は今の生活で満足している」

 天華を突き放すようで悪い気もしたが、それでも、七緒はきっぱりと口にした。

「そう、ですか」

 天華は目つきを一段と鋭くして七緒を見据える。いや、睨む。

(まったく、親父に似てきたなぁ、その目。いや怖い怖い)

 兄として情けないとは思いつつも、それでも、自分ではどうしようもないのだ。

「とにかく! 魔術なんて使わないでください! 兄さんはもう普通の人なんですから! 言いたいことはそれだけです!」

 まくしたてるだけまくしたて、そっぽを向いて去ろうとする天華。

「天華」

 その背中を呼び止める。

「何ですか」

 そっぽを向いたまま応答する天華。

明らかにイライラしている声音に恐怖を感じつつも、七緒は口にする。

「子猫。大事ないってよ」

 そう。きっと天華だって子猫が心配なだけなのだ。

「そうですかっ! よかったですねっ!」

 語尾の跳ね上がりから察するに、きっと天華は喜んでいただろう。


 やっとのことで教室へたどり着いた。

 教室はざわついている。まぁいつものことだ。クラスの面々に挨拶をしながら自分の席に着く。

「よー七緒」

 間の抜けたような声を上げながら近づいてきたのは不良少年、松枝友輔だった。

 校則違反上等な見た目の割に、案外いい奴。クラスメイトの評判も良い。教師からの評判はあまり良くない。

「なんだそのにやけ面。面白いことでもあったか」

「面白いも何もよ、見たぜ、お前と天華譲が仲良く話してるところ」

「あー……」

 あの場にいたのか、それとも馳せ参じたのか。いずれにせよ、松枝もまた天華ファンの一人であるということだろう。

「まったく、仲睦まじくって羨ましいぜ。うちの妹なんか、中学入ってからは反抗期だか知らねぇが愛想悪くなってよぉ、お兄ちゃん寂しいぜ」

 天華の話となると、七緒は少し悩む。確かに兄妹ではあるのだが、少し前まで離れていた身だ。兄貴面されるのも天華はきっと迷惑だろう。それでも、実の妹がどこの馬の骨とも知れない男どもに見られていると思うと、やっぱりむかつくのだった。

「天華に手ぇ出すなよ」

「確かに天華譲は別嬪だが、高嶺の花過ぎて俺なんかは釣り合わねぇよ。だからファンクラブなんてもんがあんだからな」

 松枝はポケットから何やらカードを取り出す。ファンクラブカードのようだ。

「あ? 天華のファンクラブだぁ? いつの間にこんなもんが」

「ちょうどこの間な」

 入学から一か月そこらでファンクラブが作られる妹にある種の恐怖を抱く七緒。それも久条の当主足り得るカリスマが成せる技なのか。

「手は出さねぇ。ただ遠くから眺めるだけ。天華譲相手にはそれがちょうどいいのさ」

「カッコつけてんじゃねぇ。カードへし折るぞ」

 二人でやいのやいのしていると、近くに別の気配が。

「おはよう。久条くん、松枝くん。相変わらず仲良しだねぇ」

 ふわりとした優しげな声音と柔和な笑みで声をかけてきたのは憂木明という女生徒だ。

 今時の女の子にしては化粧っ気のない見た目をしているが、それは決して地味というわけではなく、逆に天然由来の彼女の魅力を引き出していて、天華ほどではないにせよ男子生徒からの人気も厚い。

「仲良しって……、コメントに困るぞ。悪い意味で」

「なんだよ、仲良し良いじゃねぇか。拳で語り合った仲だろ」

 ため息混じりに七緒と、何が面白いのか、やたらと楽しそうに笑う松枝。

「喧嘩で仲良くなるなんて本当にあるんだね」

 わぁ、なんて言って驚く憂木。

 あれやこれやと三人でくっちゃべった後、憂木が何やら用事で席を外し。

「ところでよ」

 急に声を潜める松枝。

「巷で噂のあの事件、知ってるか?」

「事件? いや、テレビも新聞も見ないからな。世事には疎いんだ」

「たくよー、お前みたいなやつがいの一番に襲われそうだよなぁ」

「で、事件って何だよ」

 松枝は教室の隅にある新聞紙コーナーから今日の朝刊を持ってくると、何枚かめくって七緒の机に叩きつけ、一か所を指差した。

 そこには『痕跡なき衰弱死体!』という見出しの事件が載っていた。

「痕跡なき衰弱死体ってどういうことだよ。ただの餓死とかじゃないのか?」

「いいや。なんでも、朝はバリバリ元気だった人が急に衰弱死体になって街中で発見されてるんだと。しかも、外傷とかも一切なくて、死因が分からないんだってさ」

「なんだそりゃ。まるでオカ……」

 ルト、と言いかけて、やめた。もし本当にオカルトが関わっていたらと考えて。自分が口にすると、本当にその通りになってしまいそうで。なまじ魔術なんてものを知っているからこそ、口にはできなかった。

だが、本当にオカルト方面の事件なら、きっと久条本家が動いているはずだ。なら、自分が気にすることではない。そう考えて七緒は思考を振り払った。

「この調子じゃあ、明日の祭りも中止かな」

「っておい。それは困る」

 この街では毎年六月に山でお祭りがあるのだ。夏祭りにしては季節外れだが、その理由は七緒はよく知らない。

「何だ、行くつもりなのか」

「まだ決まったわけじゃないけどな」

「誰かと一緒か?」

「まぁ、そんなところだ」

 すると、松枝は急ににやにやとし始めた。

「あぁ、見えたぜ。あの本屋の姉御だろ」

「うっ……」

 言い当てられて、七緒はドキッとした。互いのことを良く知っているのも考えものだ。

「あの姉御も美人だよなぁ。どっちかっていうと、天華譲より好みだぜ」

「手ェ出すなよ……?」

「天華譲の時よりも怖ぇ……。分かってるっての。一途だねぇ、七緒は」


 例の事件のこともあり、早めに帰宅するようにとのお達しがあり、帰りのホームルームは終わった。

松枝なんかは「午前授業になるんじゃね」とうきうきしていたようだが、そんなことは無かった。七緒も少しは期待していたが。

「早めに帰るっつってもなぁ」

 校門前に立ち、腕に抱えた白猫黒猫を見て、一つため息をつく。

 ホームルームが終わってから、猫たちの様子を見に保健室へと訪れたところ、猫たちに妙に懐かれてしまったようで、止むを得ず預かってきたのだ。

 こんなことなら様子なんて見に行かなきゃよかったと思ったが、猫たちのかわいさに免じて腹をくくることにした。

 せっかく懐いてくれているのに保健所送りにするのも、それはそれで気が引けた。

 ペットを飼う。良い趣味になりそうで、七緒はるんるん気分だった。

 しかし、ペットを飼うのに手間暇がかかるのもまた事実。

 今日の内にペットショップに行っておきたいと考えて、七緒は散歩がてら街を歩くことにした。

 黄明市。東京の海沿いにある街。

大名士久条の名を取った久条山も観光名所としては有名。

海と山に囲まれた、自然豊かな風土。

 その街並みはしばしば海側と山側というふうに言われることが多い。

 比率で言えば海側六、山側三、真ん中一くらいの割合だ。

海側は近代風の港街で、大きな建物が並ぶおしゃれな感じの街並みだ。七緒の家や学校なんかも海側ではあるが、海沿いに比べれば質素なものだ。

逆に山側の方は久条山を中心に広がる昔ながらの洋館や平屋が残る風情溢れる街並みになっている。

そして真ん中。黄明市のちょうど中心にあるのが、ここ、三日月商店街だ。

 昔ながらのようでどこかいまどきな。古ぼけているようでハイカラな。そんな感じのとんちんかんな商店街だ。

 さすがにベルリンの壁というほどではないが、それでも、この商店街が海側と山側の境目だと考えるのは、この街の住人のほとんどが抱くイメージだった。

 ごちゃごちゃした感じの印象はもしかすると、二つの文化圏の衝突からきているのかもしれない。

 とはいえ、そのごちゃごちゃしたようで妙に居心地の良い感じが、七緒は好きだった。

 中学の時に家から離れて海側に降りてきてから、多くの出来事があったのだ。荒れていた時期。商店街だけが七緒の居場所だった。この商店街の雑な感じが、きっと七緒の性に合っているのだろう。

 顔なじみに挨拶をしながら、目的の場所へと向かう。

 喫茶店にバー、家具屋、昔ながらの八百屋だったりと味のある店が並んでいるかと思いきや、チェーン店のファミレスやカラオケがあったり、その雑多さは枚挙に暇がない。

 そして、その店にたどり着く。ペットショップ「ワニ」。

その名前のせいでてっきりワニ専門かと思われがちだが、実際はただのペットショップ。店の名前の由来は店主がワニ好きだからである。

「ってあれ?」

 七緒が首をかしげたのは、店先に置いてある、二本足で直立する等身大ワニのフィギュア通称「ゲイツくん」の首に「店主外出中 商店街のどこかにいます ワニが目印」なんて看板がぶら下げてあったからだ。

 まぁ、いつものことと言えばいつものことなのだが、この看板は初めて見た。ペットショップなんてあんまり来ないから。

こうなってしまったら自分で見つけるしかない。

 とはいえ、商店街はほぼほぼ一本道。ローラー作戦で行けばすぐ見つけられるはず。

 実際、目的の人物は数分で見つかった。

 商店街の途中にまるで異物のように存在している公園に、そいつらはいた。

「いや、だからよワニで一番かっこいいところっつったらよ、やっぱあのフォルムなわけ、あのどしどしと地を這っていく感じ、たまらんよな」

「それはサメにも通じるところがあるんじゃない? あのシュッとしたフォルムで海の中をびゅんびゅん泳ぐんだよ、サメとワニって似てない?」

「確かに似ている、横向きだからな」

「もしかすると」

「もしかすると」

『サメとワニを合成したら最強の生物が生まれるんじゃない!?』

 くだらない話をしていた。

「あれ、七緒じゃないの」

「わーい、七緒くんだー!」

 方や、ペットショップの店主。リーゼントヘアに目玉代わりのピンポン玉を添えた珍妙強面サングラスお兄さんの魚田。頭のそれをワニと判断するのに悩むが、本人が言い張るのだから、それはワニなのだ。

 方や、着ぐるみ大魔神。手作りの着ぐるみを着ては、あっちこっちを練り歩く黄明市のマスコット的存在、ぐるみん。今日はサメの着ぐるみを着ている。

「猫ちゃんだー、どうしたの?」

 ぐるみんが尾ひれをパタパタと揺らしながら近づいてきて猫を覗き込む。

「あぁ、ちょっといろいろあってね。飼うことにしたんだ」

「へぇ、七緒がペットをねぇ」

「それで、いろいろ必要なものを買おうと思って魚田さんに会いに来たわけ」

「おう、ペットのことなら俺に任せな」

 店に戻るため、三人で歩く。サングラスのお兄さんと、着ぐるみに囲まれているのは一見異様な光景に見えるが、三日月商店街では当たり前のことだった。

「あっそうだ。ぐるみんって確か祭りのマスコットやってたよな」

「うん? そうだけど」

 ぐるみんは着ぐるみであることを活かしてあちこちで宣伝役を買って出るという仕事をしているのだ。ある時はヒーローショーに出演したり、ある時は看板片手に街を練り歩いたりしている。

 それは祭りにおいても例外ではなく、龍神を祀る神社の祭りということで龍の格好で当日は祭りに出るらしい。とはいえ、七緒はここ数年、山の祭りには行っていなかったため、その姿を見たことが無かった。

「明日の祭りって中止になったりしないよな?」

 七緒はそれだけが心配だった。どうしてもあの人を祭りに誘いたいのだ。

「うーん、今のところは何も連絡が来てないから、多分普通にやると思うよ。急に中止になってもあれだしね」

 それを聞いて七緒は胸を撫で下ろす。

「なるほどね。フラウさんでも誘うのか」

「げふっ!」

 魚田に図星を突かれた。そうまで分かりやすいのかと、七緒はため息をつく。

「さっき様子見に行ったけど、店にはいたぜ。早めに誘うんだな」

「言われなくたってそうするよ」

どいつもこいつもお節介だ。


ペットショップであれやこれや必要なものを買い、商品は魚田が家まで運んでくれるということで、七緒はまた散歩に出た。ぐるみんはぐるみんで、どこかに行ってしまった。

とはいえ、目的地は決まっている。

商店街の一角にそれはある。

周囲と比べて一段と年季の入ったテナント。ところどころ鉄筋はむき出しになっていて、一見すると廃墟と見紛うそれは、れっきとした店である。

店先にちょこんと置かれた立て看板には、綺麗な文字で「古本屋 銀糸の森」とだけ書かれている。

「こんちわー」

挨拶しながら店に入る。猫を抱えたまま入るのは気が引けたが、外に置いておくのもかわいそうなので、腕から離れないようにしっかり抱いておく。

年季がのせいか少し埃っぽい。

天井まで届く大きな本棚が所狭しと置かれている以外には、奥の方にレジカウンターらしい机があるくらいだ。客もいないようだ。

数秒経っても返事は無い。察しはつくが。

 床にも積まれた本を崩さないように店の奥に行くと、案の定、その人はいた。

 机に頬杖をついてうとうとしている。

 鮮やかな金髪に日本人離れした目鼻立ち。出身はどこか知らないけど。

 店主であり、七緒の憧れの人、フラウ・テレサドールその人だ。

 起こすのも申し訳ないので、一旦身を引こうと考えて後ずさりして、猫たちが「にゃー」と鳴いた。

(って、おいおい……)

「ん……?」

 フラウが目を覚ます。

「ごめん、起こしちゃって」

「あぁ、その声は七緒くんか。っと、眼鏡眼鏡」

 カウンターの上をまさぐって、傍らに置いてあった眼鏡をかける。

 フラウは一つ欠伸をして、寝ぼけた顔で微笑んだ。

「ふぅ、良く寝た」

フラウは店にいる時は大体寝ている。そもそも店も気分営業で、カウンターにいるのが珍しいくらいだ。

不意に目が合う。その碧い瞳に見つめられると、否応なしに鼓動が高鳴る。

「で、今日は何の……。猫?」

 猫たちを見て不思議そうに首をかしげるフラウ。

「ちょっといろいろあって飼うことにしたんだ」

「へぇ、なんていうか意外だね。ちょっと抱かせてくれる?」

 七緒は頷いて、白猫はあんまり動かすと怪我に障りそうだったので、黒猫の方をフラウに抱かせた。

「かわいいなぁ。にゃんこにゃんこ」

(甘々だ……! かわいい)

 黒猫もフラウのことが好きみたい。

「名前はもう決めた?」

「いや、まだ。よかったら考えてくれない?」

「いいの? うーん、そうだなぁ」

 唸って一分ほど。

「うーん、シンプルだけど、クロとシロくらいしか思いつかないなぁ」

「分かりやすいし、それにしよう」

 即答だった。もともとフラウに名前を決めてもらおうとしていたから。

「いいの?」

「うん。フラウさんのお墨付きだから」

「そっか。ならいいんだ」

 そう言って、フラウは黒猫を七緒に返す。

 改めて二匹を抱きかかえ、二匹と顔を合わせる。

「クロに、シロ」

 口にすると、二匹が鳴いた。自分の名前だと認識したのか。

「よしよし」

「懐かれてるねぇ。それで、何か私に用事でもあった? 猫ちゃん見せに来ただけ?」

 おっとそうだ。本来の目的を忘れてかけていた。

 七緒はポケットから祭りのチラシを取り出してフラウに見せる。

「よかったらだけど、一緒に行きたい」

「あー、お山のお祭りね。明日だっけ」

 フラウは困ったような、悩ましいような素振りをして、

「私と行きたいの?」

 なんて言うものだから、七緒は自分でも分かるくらいに熱くなった顔を隠すように頷いた。

「ふふっ、いいよ。せっかく誘ってくれたんだしね」

「本当?」

「嘘なんかつかないよ」

 七緒は狂喜した。憧れの人と祭りに行けるという展開に狂喜した。

「せっかくだし、商店街のみんなと行こうか。他にも誘われてるんだ」

 やっぱり駄目かも。


 二人きりではなくなったにせよ、それもやむを得ないことだと、七緒は割り切った。

 七緒にとってフラウが大切であるように、商店街の連中にとってもフラウは大切な存在なのだ。そして、そんなフラウもまた、そんな人々を大切にしたいと思っているのだろう。

 自宅に帰ってきて、シロとクロを迎え入れ、七緒はなかなかに満足げだった。

「危ないものは置いておかない……よく遊んであげましょう、か」

 帰り際に本屋で立ち読みしてきたペットの本の内容を思い出しながら居間を猫仕様にした。寝床代わりの毛布に、トイレ、遊び道具なんかも適当に見繕ってきたので、猫との共生の準備はばっちりだ。

 シロとクロも仲良しで、家中をあちこち駆けまわっている。微笑ましい。

 適当に飯にして、猫たちと遊んでいれば、もう流石に寝る時間。

 いろいろあって一日疲れた。早く寝て、明日の祭りに備えよう。

 そう考えて布団に潜っていた七緒だったが、その時、異変は起きた。

 寒気のような、それでいて肌がひりつくような、違和感。

 体を動かそうとして、けれど、指一本ピクリともしなかった。

(何だってんだ……)

 冷や汗が噴き出す。

(金縛り……いや違う。この感じは……)

 七緒だからこそ感じ取れるその違和感。それは魔力だった。

重く、濃密な空気が押しつぶしてくるイメージ。

魔術の腕はずぶの素人の七緒だったが、それでも、これが魔力、魔術によるものであることは察することができた。

しかし、なぜ?

その疑問は、今朝の心配と否応なしに結びついた。

これがもし事件に関係していることだったなら、本当にオカルトが関わっているということになる。

まさかそれが、自分に降りかかってくるだなんて、想像だにしなかった。

(まずい……、このままじゃマジに押し潰されちまいそうだ……)

 あまりの空気の重さに耐えかねて、気を失いそうになったその時。

「がっはっ……!」

 不意に身体が動いた。

 飛び起きて、周囲の状況を確認する。

 先ほどまでの重さも、魔力の気配も消えており、普通そのものだ。

(何だ? 夢でも見てたのか……?)

 悪夢から飛び起きるなんて珍しくもなんともないが、それにしてもさっきのは異常だった。

(事件の話を聞いていたせいかもな)

 結局、無理矢理そう割り切るしかなかった。


六月十三日 土曜日


 昨日の夜のことは気になるが、それはそれとして今日は祭りだ。嫌なことは忘れてぱーっと行こう。

夕方に商店街で待ち合わせということらしいので、七緒は家を出た。猫たちには悪いが留守番をしていてもらう。

 割と早めについたつもりだったが、既に先客がいた。

 商店街の喫茶店の女の子、クラスメイトの憂木明と、なぜか松枝もいた。

「こんにちは、久条くん」

「おう」

 にこやかに挨拶を返してくれる憂木に、七緒の心が安らぐ。

「憂木は分かるとしても、なんで友輔もいるんだ」

 単純な疑問。憂木はいつもの商店街面子の一人ではあるが、松枝がなぜ呼ばれているのかが謎である。

「何でってそりゃあ、商店街でバイトしてるから」

 そう言えばそうだったと、七緒は思う。なんせ暇さえあればバイトに勤しむような奴だ。商店街での知り合いがいたっておかしくないだろう。

「誰に呼ばれたんだ? 魚田さんか、明比さん、マスターなんてこともあり得るか」

「あぁ、マスターだよ。最近はよく手伝いに行ってんだ」

 マスターというのは、文字通りバーのマスターのことだ。

「バーでバイトって、校則違反なんじゃ」

 憂木が心配そうに言うが、松枝はへらへらとしていた。

「ばれなきゃ問題じゃねぇって。それに何かあっても手伝いで通せばいいしよ」

 困ったように苦笑いを浮かべる憂木。

「まぁ、松枝くんも悪い人じゃないしね。大丈夫かな」

「おいおい、照れるぜ」

 なんだかんだと雑談していると、約束の時間になった。

 魚田、マスター、フラウがおいおい現れる。

 本来はもっと多いのだが、何でも祭りに出店を出すとかで、大体の面子は運営側に回っているそうだ。

「ようし。いざ出発だー!」

 魚田が先頭になってぶらぶらと歩きはじめる。

 商店街を抜け、山側の方へ。

 しばらく行くと、海側の方に比べるといささか閑静な屋敷街に入る。

 武家屋敷だったり、立派な洋館だったり。仏閣や教会なんかもある。今日は祭りがあるせいか人が多いが、いつもはとても静かな、風情ある街並みが広がっている。

 ここまで来ると、久条山はもうすぐ。

 屋敷街をさらに進むと、生い茂る竹林と、それを切り開いて山に入る広い石段が見えてくる。

 それをとことことのぼっていると、急に七緒は魚田たちに囲まれた。

「よう、七緒よ。フラウさんに告るつもりならよ、俺たちが協力してやるぜ」

「へぇっ!?」

 困惑する七緒。いや、そこまで行ければいいなとは考えてはいたが。

「おう、二人きりにしてやるからよ。ガツンと行け」

 松枝まで。

「がんばるんだ、七緒くん!」

「マスターまで!?」

 応援してくれるのは嬉しいが、逆に不安になってきた。

覚悟を決めていたからこそ、他人に言われるとどうにももどかしいのだ。


 石段を登り切った先には、これまた街があった。

 もともと、久条山には温泉街があるのだ。

 普段から観光客は多いが、今日は祭りということで輪をかけて多い。

 出店があちこちに並び、もとから店を構えている土産物屋も気合を入れているようだ。

 温泉街故の熱気というか、活気というか。

 つくづくすごい街だと七緒は思う。

 貰ったパンフを眺めつつ、さあ散策、といったところで。

「ようし、俺たちはこっちに行くぞ! 七緒とフラウさんはごゆっくり!」

 魚田たちは憂木を連れてそそくさとどこかへ行ってしまった。憂木は困惑していたようだが。

そこまで露骨に行くのかと頭を抱える七緒だったが、その気づかいには感謝していた。

「なんだか、気を使われちゃったみたいだね」

 フラウもそんなことを言う。

「ははは……」

 七緒も思わず苦笑いを浮かべる。

「それじゃ行こうか。せっかく来たんだし、楽しまないと」

 なんて言って、フラウは七緒の手を取った。

「私、お祭りって初めてだから。案内してくれる?」

「うん、任せてよ」

 にこやかに笑うフラウを見て、七緒もまた、救われるのだ。


 食べ物の出店だったり、温泉街特有の出し物だったり、なんだかんだ楽しい時間を過ごせたと、七緒は思う。

 黄明市を一望できる展望台まで来て、七緒とフラウは一休みしていた。

「わぁ、この街ってこんなにきれいだったんだね」

 夜景を眺めているフラウ。

 七緒は、何というかどきどきしていた。

 周囲には人がいない。まだ祭りの方に人は釘付けになっているのか。それにしても、カップルの一つや二つ、いてくれた方が、そういうものだと割り切れるというのに。なまじ二人だけの空間だからこそ、気まずい。

(いいや、覚悟決めろ、久条七緒!)

 七緒は自分を奮い立たせる。

高鳴る鼓動を落ち着かせるべく、七緒は深呼吸をしようと……、

「フラウさん、好きだ」

 沈黙が、流れた。

「うん?」

 きょとんとした様子のフラウ。

「あ……」

 ひどく、気が動転していた。

(言って……しまった……)

 ぐるぐると思考が回る。

 言おうとしたのは確かだが、その前に深呼吸をしようとしたわけで、というかそもそも聞こえていたのか、告白できる雰囲気だったのか……。

「もう一回、言って」

 七緒が顔を上げると、フラウと目が合った。

フラウが、七緒を見つめていた。

 その碧い瞳に、吸い込まれそうになる。

 その微笑みに、思わず呆けてしまう。

 不思議と気分は落ち着いて、七緒は正気を取り戻す。

「あ、聞こえ……なかった?」

「うん。聞こえなかった」

 即答。

絶対聞こえていたと、七緒は思う。いつもそうだ。フラウには、よくからかわれているから。

 今度こそ深呼吸。にやける頬を無理やり振り払って、七緒はフラウと目を合わせる。

「俺は、」

 言いかけて、続きが出なかった。

 出さなかったわけじゃない、出せなかった。

 悪寒が走り、全身が総毛立つ。

 この、感じは。

「危ない!」

 フラウの声。続いて閃光。火花が飛び散る。

 気づけば、そこにそれは立っていた。

 形容しがたい外見だった。黒。まるで影を切り抜いたようなその姿。

いつか見た、光をほぼ百%吸収する塗料を、七緒はイメージした。

闇が、そこに立っている。

その輪郭はぼやけていて、陽炎の如く揺らめくその姿は、人型であっても、人ではなかった。背には翼、頭部には二本角。全体的に刺々しいその見た目は、まさしく、悪魔に思えた。

そして七緒は認識する。昨夜の気配。それはこいつであると。

 体は動かない、声も出せない。

 怖くて、寒くてぶっ倒れそうなのに。足が地面と同化したかのように動かない。冷たい空気が凍って、まるで型にはまっているかのように、身体が動かない。脱力することすらできない。

 目を逸らしたいのに、それから目が離せない。

 洞のようなその頭部。顔のパーツは認識できないのに、明確にそれに見られていると、視線で射抜かれていると、七緒は認識した。

「……! ん……! 七緒くんッ!」

 狂気に飲まれそうになった思考は、フラウの呼びかけのおかげで何とか現実へと引き戻された。

 フラウは七緒を庇うように、悪魔と対峙していた。

 その手に金色の槍を持って。

「フ、ラウ、さん……」

 気合で声を絞り出す。

「大丈夫。私が守るから」

 そう言うフラウの横顔は、七緒が見たことのない、敵意や怒気を孕んだ表情をしていた。

「ウアァ……ウゥ……」

 唸り声を上げる悪魔。そこに、理性は感じられない。そこにあるのは敵意と、殺意。

 急に風が吹いた。それはフラウを中心に巻き上がる。

 金髪がなびく。槍に巻かれた帯がなびく。

 そこに七緒が感じたのは。

(魔術……!)

 巻き上がる風は魔力の奔流。そしてそれは、フラウが魔術師であることを示していた。

「ハァッ!」

 風を操るように、フラウは槍を振るう。

 風は見えないが、魔力の流れは何となく見えた。

 槍は竿のように、風は釣り糸のように、不可視の糸が悪魔に巻きついている。

 本物の魔術。七緒のおまじないのような魔術ではなく、正真正銘の魔術。

自己に対する変化ではなく、世界に対する変化をもたらすもの。

「……!」

 唸り声を上げて、悪魔は前のめりになる。飛び込んでくる気か。

「―――――!」

 凶暴な唸り声。身が竦むような唸り声。それだけで周囲の落ち葉が吹き飛ぶほどの。

 力づくで拘束を解いて、案の定、悪魔は飛び込んでくる。

 槍と爪がせり合う。どういうわけか、槍は淡い光を放っていて、悪魔の爪を焼いていた。

 しかし、そんなことよりも七緒が気になったのは。

 やはり、悪魔が自分を見据えていたことだった。

 不可視の糸に巻かれていても、フラウとせり合っていても、その洞が自分を見ていると感じたのだ。

 瞬間、悪魔が消えた。文字通り一瞬で。そこにいたはずの闇が急に消え去ったのだ。

「っ!?」

 困惑するフラウ。当然だ。敵が突然消え失せたのだから。

 そして、七緒は。目前にそれが現れたのを、一瞬、理解できなかった。

「えっ」

 爪を突き出す悪魔。動かない体では避けようがない。

 そして。


 その光景を、フラウは認められなかった。

七緒の胸から飛び散る鮮血。

 まるで勝ち誇るかのように、狂気の唸り声をあげる悪魔。

「あああああっ!」

 思考は爆ぜ、ただ槍を振るっていた。それは悪魔には当たらず、唸り声を残して消え去った悪魔の残像を掠めるだけだった。

 残ったのはフラウと、地面に倒れ、ピクリとも動かない血まみれの七緒。

 フラウは槍を放って、七緒に寄り添った。

「七緒くん……っ!」

 守れなかった。その事実がフラウの胸を締め付ける。

 けれど、戸惑っている場合じゃない。

 唇を噛み締めて、それを直視する。

 ぽっかりと、七緒の左胸に穴が開いている。肋骨を砕かれ、心臓は潰され、背中まで貫通している。血は絶えず溢れ、血の海が広がっていく。

 ここまで破損していては、いかに魔術師と言えど、生半可では手出しの使用が無い。

 それでも。

(やらないと……! 助けないと……! お願い、死なないで!)

 魔術師は、魔術を振るう。


 深い暗闇の中。七緒が立っている。

それと対峙するようにあの悪魔がいる。

殺す、と。

呪詛のようなそれを呟いて悪魔は力を振るう。

 大切な人が殺されていく。

 体は動かない。助けたくても、助けられない。

 やめろと叫びたくても、声があげられない。

 目の前で、人が死んでいく。

 そして最後には。


「――――ッ!」

 地獄のような悪夢から、七緒は目を覚ました。

(生きているのか……?)

 悪魔に胸を貫かれたことを思い出して吐きそうになるが、何とかこらえる。

 何か、頬に生温い何かが這っている。

目を動かしてそれを見ると、シロとクロだった。

 頬をぺろぺろ舐められている。すこしくすぐったい。

(シロとクロがいるってことは、ここは俺の家か……)

 どうやら居間に寝かされているらしい。

 立とうとしてみるが、身体がピクリとも動かない。

 仕方なく首を動かして周囲を見て、壁際にフラウがいた。

 膝を抱え、俯いて座り込んでいる。

「あっ、七緒くん……」

 七緒が目を覚ましたことに気付いて、フラウが近づいてくる。

「大丈夫? って、そんなわけないか……」

 心なしか、フラウの声音は少しか細いように思えた。

「助けてくれたのか?」

 七緒の疑問に、フラウは困ったように少し笑った。

「そっか。もう隠さなくていいんだね。久条の七緒くん」

 久条と呼ばれて、七緒は少し驚く。

「知ってたよ。魔術師にとっての久条はそういうものだから」

 七緒は言葉に詰まった。言うことが見つからなかった。

「守ってあげられなくて、ごめん」

 フラウの声は震えていた。

「でも、こうして生きてる。ありがとう」

 七緒はそう返すが、フラウは何も言わなかった。

 沈黙が辛くて、七緒は口にする。

「俺だって、少しは魔術使えるし、次あいつが出てきたら……」

「馬鹿言わないで!」

 フラウが声を荒げたのを、初めて聞いた。

 また、沈黙。

 時計の針の音がやたらと耳につく。猫たちの鳴き声が何とか場を保っている。

「あいつは……何?」

 フラウは答えない。

「フラウさんは何者?」

 フラウは答えない。

 七緒は少し苦笑した。

「そっか。俺、フラウさんのこと何も分かってなかった」

 急に、フラウが立ち上がった。

 ごくり、と。生唾を呑む音が聞こえて。

「もう、関わらない方が良いよ。さよなら、七緒くん」

 ひどく苦しそうな笑顔で、魔術師はそう言った。


 外に出たフラウは、そこに待ち構えていた人物と対峙する。

 久条家現当主、久条天華。

 天華は酷薄な表情でフラウを見据える。

「よくも兄さんを巻き込んでくれましたね」

 フラウは、何も言えない。

「兄さんのためを思って大目に見てきましたが、こうなってしまった以上、話は別です」

 天華はひどく冷たい声音で、言い放つ。

「あなたを絶対に、許さない」

 それだけ言い残して、天華は姿を消した。

 一人残ったフラウは、夜空を仰いだ。

「私は……」

 震えた声で、呟く。

 ひどく寒い夜だった。


 六月十四日 日曜日


 猫の鳴き声で、七緒は目を覚ました。

 時刻は十七時。どうやら一日眠っていたらしい。

(身体……動く)

 倦怠感はあるが、辛いほどじゃない。

 ゆっくりと立ち上がって、洗面所に向かう。

 鏡の前で上着を脱いで、傷を確かめるが。

(何ともない……)

 貫かれたはずの胸は、元通りに塞がっていた。本当にあんなことがあったのか疑いたくなるほどに、何ともなかった。

 けれど、心は、ひどく苦しかった。

―――さよなら、七緒くん―――

 フラウの辛そうな表情が頭にこびりついて離れない。

 何もできなかった。何も分からなかった。

 これまでの思い出がどこか遠くに行ってしまったようで、ひどく苦しい。

 それでも。

(俺は……!)

 歯を食いしばって、七緒は家を飛び出した。


 一心不乱に走って、商店街までやってきた。

 もちろん、フラウに会うために。

 確かにそこに、いつもの店はあった。

(ある……)

 少しだけ、ほっとした。

 看板は出ていなかったが、それでも、七緒は店の入り口に手をかけた。

 開いている。

 覚悟を決めて、七緒は店に入る。

 いつもだったら、カウンターで寝ているはずだ。

 あれが夢なら、きっとフラウはいてくれるはずだ。

 そうであってほしい、と七緒は願った。

 けれど、そこにフラウの姿は無かった。

 そこに残っていたのは、手紙だけだった。

『七緒くんへ。ごめんね』

 それだけが、書かれていた。


ちょうど、一年ほど前の事。

高校入学を機に、本家と袂を分かち、山の屋敷から降りてきた七緒は、ひどく荒んでいた。

 優秀な妹に立場を奪われ、居場所を失った七緒は、安らぎに、飢えていた。

 落ちぶれたとはいえ、七緒は久条の長男だ。

叩き込まれた知識は、一般人とは比べ物にならず、七緒はその優秀さで、周囲との壁を築いた。人の上に立ち、周囲を見下すことで、七緒は自分の居場所を確立したのだ。

しかし、それゆえに、七緒は驕り高ぶった。当然ながら敵も多かった。

いくら魔術が使えると言っても、限度がある。不良どもにリンチにされることは日常茶飯事だった。

 そんなある日、ボロボロの七緒が迷い込んだのは、これまたオンボロな古本屋。

 その店主はにっこりと微笑んでこう言ったのだ。

「いらっしゃい。君が初めてのお客さんだ」

 フラウという名の店主は続けてこう言った。

「いつでも来なよ。私も、一人だからさ」

 その言葉に、七緒は不思議な安心感を覚えた。

 七緒はよく商店街に顔を出すようになり、不思議な縁が増えていった。

 商店街の面々は誰も彼もが変人で、それでいて、自分の立場を確立しているその姿に、七緒は憧れた。

 そして、そんな彼らに囲まれているうちに、七緒も毒気が抜かれたように一般人になっていった。

 七緒はある時、ふと思い出して、なぜ一人だと言ったのかフラウに聞いた。

「いつか、さよならを言うときが来るだろうから。その時寂しくないように、ね」

 その言葉の真意は、七緒は計りかねた。


フラウがいなくなったことを、七緒は認められなかった。

 いつもいてくれたはずのその人が、実は魔術師で、バケモノと戦っていただなんて、ひどい冗談だ。

 けれど、夢じゃない。現実だった。

 何かを間違えたのか。

(違う!)

 何かを失ったのか。

(違う!)

 七緒は探し続けた。肺が潰れるほど走り回った。

 諦めろと嗤う思考を否定し続け、それでも七緒は、信じた。

 けれど、彼女は見つからなかった。

 日はとうに暮れ、最後に訪れたのは、山の上の展望台。

 フラウとの最後の思い出にふけるように、何となく夜景を眺める。

 本当に、きれいだった。

 本当に、フラウがいなくなったことを実感して、胸が苦しくなる。

 そこに、容赦なくそれは現れた。

 全身に悪寒が走る。しかし、不思議と身体は動いた。

「フラウさんはいねぇってのに。お前は出てくるのかよ……」

 あまりの状況に笑いすらこみあげてくる。

(あぁもう、どうでも良くなってきた……)

 悪魔は迫ってくる。

 その光景にデジャブを感じる。

(そう言えば、返事聞いてねぇ……)

 突然、閃光が走った。

 稲光のようなそれは、突き出していた悪魔の腕を吹き飛ばした。

 そこに、フラウがいた。

 不意に目が合う。

 しかし、その表情はとても苦しそうで、フラウは膝から崩れ落ちる。

「ごめんね……、まだ本調子じゃないみたい」

 今にも死んでしまいそうな顔で、フラウは言う。

七緒は昨日のことを思い出す。

死人を生き返らせるような魔術。その労力は七緒には計り知れなかった。

「フラウさん!」

 名前を呼ぶことしか、できなかった。

 つくづく自分のせいで、大切な人を苦しめている。それが辛い。

「早く、逃げて……。私が何とかするから……」

 こんな状況でも、まだフラウは七緒の心配をしていた。

 ひどく苦しそうな笑顔で。あの夜と同じ顔で。

 悪魔は吹き飛ばした腕を復元し、今にも襲い掛からんとしている。

(逃げるだって? 冗談じゃない!)

 七緒では、きっと勝ち目はない。

 それでも。

 無意識に身体は動いて、七緒はフラウから槍を奪っていた。

「来やがれ! 俺が相手になってやる!」

 膝をつくフラウを庇うように、七緒は立つ。

「バカ……! 死んじゃう!」

「うるせぇ!」

 七緒は声を荒げる。

 無性に腹が立って、無性にもやもやして。

「魔術師だとか、久条だとか! 興味ない!」

 肩書なんかに意味が無いことを、七緒は知った。だからこそ、七緒は新しい居場所を得られたんだから。ただの、久条七緒として。

「あいつが何だろうがどうでもいい! あんたが何者だろうが関係ない! 俺は、大切なものを失いたくないだけだ!」

 七緒はただ、大切な人を守りたいだけなんだから!

「―――――――!」

「うおおおおおっ!」

 悪魔の突進を迎え撃つ。

 正面から串刺しにしてやろうという意気込みで、七緒は槍を突き出す。

 けれど、必然。素人の一撃が、バケモノに敵うはずは無かった。

 槍は弾かれ、七緒は首根っこを掴まれる。七緒の手から離れた槍は、まるでバッテリーが抜かれた懐中電灯のように、輝きを失った。

 万力のような力で、首を絞めつけられ、意識が遠のく。

(くそっ……かっこつけておいてこのザマかよ……)

 自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げる。

何で、こんなことになってしまったのか。

 悲しませるくらいなら、出会わなければ。

 失うくらいなら、初めから一人でいれば。

 遠のく意識の中、それを目にした。

「――――!」

 何か、フラウが叫んでいた。

 フラウが涙を流していた。

(ちくしょう……、ちくしょう!)

 その光景が遠のいた意識を現実に引き戻す。

(違うだろ!)

 折れそうになる心を叱責する。

(失うくらいなら、命がけで守ればいいだろうが!)

 覚悟を決めて握った右拳が、突然、光を放った。

 その手には、金色の紋章。

その光は、悪魔の天敵。

狼狽えて離れようとする悪魔の腕を、七緒はがっしりと掴む。

「逃がすかよ……ッ!」

 かすれた声でそう呟いて、七緒は拳を悪魔の顔面に叩き込んだ。

 まるで水面を殴ったような感触。手ごたえは微妙だが、光を纏った拳は悪魔の顔面をじりじりと焼き、そのまま全霊の力を込めて殴り飛ばす。

 悪魔が吹き飛ぶと同時に、七緒の身体は地面に落ちる。

「げほっ!」

 呼吸はしながらも、悪魔を見る。

悪魔は抉れた顔面を抑え、悶えている。どうやら一撃は効いているようだ。

(どうだ、この野郎!)

気に喰わない奴をぶん殴った。その事実が七緒の胸に爽快感をもたらす。

悶える悪魔に隙ありと見て、七緒は更に追い打ちをかけようとするが、悪魔は闇夜に紛れて姿を消した。

それは、完全に消え去るまで七緒を見ていた。その視線に、七緒は怨念じみた何かを感じずにはいられなかった。

「なんとか……なったみたいだな」

 それまでずっしりと重かった空気が急に軽くなった。

 緊張が解けて、足腰から力が抜ける。

(やば……)

 倒れそうになって、不意に身体が軽くなった。

 瞼に大粒の涙を浮かべたフラウが、七緒の身体を支えていた。

 そっと地面に寝かされる。

「落ち葉のベッドも悪くないけど。膝枕くらい、してくれてもいいんだぜ」

なんてジョークを言おうとしたが、やっぱりやめておくことにした。

「フラウさんが泣いてるの。初めて見た」

 沈黙が気まずくなって、七緒が冗談交じりにそう言うと、フラウは七緒の胸をぽこんと叩いた。

「だって……だって、七緒くんが殺されるかもって……!」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、何度も叩く。

 それは、痛くもかゆくも無いけれど、胸に響く。

自分にとって大切な人が、自分を思って涙を流してくれている。それが、響く。

「きっと……君を苦しめる」

 震えた声で、フラウが言う。

「かまわない」

 それに、七緒ははっきりと答えた。

「苦しむことを恐れてたら、人を好きになんかなれやしない。それを教えてくれたのは、あんたなんだぜ」

 一人でいることを気取っていたあの日々。けれど、その孤独はあまりにも窮屈で。

 フラウと出会ったことは偶然だったかもしれない。けれど、その偶然が変わるきっかけになった。

 七緒は、フラウの潤んだ瞳を見据えた。

「まだ……さよならを言うつもりかい?」

 それは少しずるい、とフラウは思った。

ずっと、目を逸らしてきた。視界には映しても、どこか遠くを見ているような。そこにいるようで、自分には関係ない夢物語だと思ってきた。もしそれを直視したら、それを受け入れたら、きっといつか苦しくなると思っていた。

それでも、フラウは言った。

「言わない……言わないよ……! 七緒くんと、皆と、一緒にいる……!」

 不思議と、胸の内が軽くなったように思えた。

抱えていたものが、涙になって零れていっているからだろうか。

フラウは七緒の上半身を起こして、抱きしめた。

それまで秘めていた思いのぶん、精いっぱいの力を込めて。

 それに応えるように七緒も、そっとフラウの背に腕を回した。

 やけに顔が近い。

 さらさらとした金髪が顔に触れて、少しこそばゆい。

潤んだ瞳と目が合って、互いに魔が差したのか。

 どちらともなく、そっと、唇が近づいていき。

「まったく、何良い雰囲気になっているんですか」

 急に聞こえたその声に、びくんと二人の身体が跳ねた。

 その凛として、芯の通ったような声の持ち主は。

 そこに久条天華が立っていた。

 その冷ややかな表情は、普段とは似ても似つかない。

 その当主としての姿を、七緒は初めて目にした。

「魔力を感じてきてみれば。一体何です、この状況は」

 天華は冷たい瞳でフラウを見据える。

「あれほど兄さんを巻き込まないように言っておいたのに……」

 震えた声は、怒りとも悲しみともとれた。

「違う」

 天華の言葉を、七緒は否定した。

 七緒はゆっくりと立ち上がり、天華と向き合った。

「俺が首を突っ込んだだけだ。フラウさんは悪くない。悪いのはあのバケモノだろ?」

「私には当主として、この街を守る義務があります。兄さんのことも私が守ります。その人の事情は知ったことじゃありません」

 冷たく告げる。

「その人のことは忘れて、兄さんは日常へと戻ってください」

 忘れて、という言葉に、七緒は少しだけかちんときた。

「それは無理だね。なんたってあいつは、俺を狙ってるんだ。むざむざ殺されるわけにはいかねぇよ」

「兄さんが、狙われているですって……!?」

見るからに機嫌が悪くして、天華はフラウを睨みつけた。

「巻き込むだけに飽き足らず……! 黙ってないで何とか言ったらどうですか!」

 七緒すら身が竦むような迫力に、フラウは正面から向き合った。

「悪いけど。一緒にいるって、言っちゃったからね。七緒くんは、私が守るよ」

 その勝気な笑みに、七緒もつられて笑う。

 対する天華は俯いて、しきりに肩を震わせた後、

「~~~~、あぁもう! 知りません!」

 そう言い残して、づかづかとその場を去っていった。

 月光が冴え冴えと、夜空に浮かんでいた。

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