第3話 初夏の話
1
からがら祓い師共から逃げおおせた猫は、ものすごい怠惰を享受していた。
ある一時を境に力をもち、頻繁に祓い師から狙われるようになった猫ではあるが、元々は根付けに宿った妖である。
生まれた時から平和を享受して生きてきて、元は物であるから飢える心配もない。
付喪神として成る前は、体がかけて無くなりはしないか、そんな心配をしていたもの、一度付喪神になってかららはそんな心配をすることもなくなり、悠々自適な生活をしていた者である。
なまじ力を持ってしまったが故、野生で生活していたこともあったが、それは家猫であった猫の本質とは、全く以て逆も逆、本来ならば交わらない、相反するものであった。
もう二度と平和で、寝て過ごす日々というのは訪れないであろうと高をくくっていた猫であったが、何の運命の因果か、数百年の時を得て、ただ寝て過ごす生活というものを享受しまくっているのだ。
ただの猫の根付であった時だとしても、このような本物の猫のように自堕落な生活を送っていた日々はまずなかった。
根付の付喪とはいえ、猫は損料屋と呼ばれる、今でいうレンタルショップの商品であったのだ。
なかなかに見事な作品ながら、猫の作者がほぼほぼ無名のままで病死した、若い作家の作品であったことも手伝って、猫の貸出料は随分とリーズナブであった。
付喪神となる前に体が破損してしまわぬか、常にひやひやと生きた心地がしなかった。
成った後も、せっかく意識がある中深い傷をつけられたらたまったもんじゃあない。人の身につけられている間は、おちおち昼寝に準ずることが出来ていなかったのだ。
猫の根付として、付喪神としての意識がある中。
その名に体の意識が引っ張られていく最中で、本当の猫のように日向で寝こけることも出来ず、ただただ他の付喪神と、ものと一緒に勤勉に働く毎日。
本当ならば自由な時間、他の高名な付喪たちのように、親の思いで話に花を咲かせたかったものである。
思い出も感情も何もない親が、何を思って、何を見て、自分を作ったのかも知りたかったものである。
だがしかし、それを環境が、運命が、猫を許すことは無かった。
猫は猫で、それなりの苦労を重ねたのち、流れの妖怪にまで身をやつして現代まで至るのだ。
なのだが、なぜか猫は今になって猫本来の生を享受も享受。もはや楽しんで、いや、喜んで受けていた。
本来嫌っているはずの人間の手によって、この享楽が保たれているというのはよろしくはないが、それはそれ、これはこれ。
受け取れるものは受け取るのが吉なのである。
己を拾った人間の男、大輔というものが、金品をかせぐために会社と呼ばれる組織に出入りしている間。自分はこの住処を守ってやっているのだから、まぁつり合いは取れているのだろう。
はじめは猫が祓い師の追跡から逃れる為、人質として使ってやっているに過ぎなかったこの人間の住処だが、思った以上に住み心地が良い。
自分が人間に欠けた術も、そこまで強いものでもないし、相手も猫という生物に、自分の、いわゆる元ネタと呼ばれる生物になっている間は、顔をとろけさせて何やら癒されているようなので、まぁ薬になっているのだろう。
その分も乗じて家を守ってやる代わりに自分の縄張りにしてやっているのだが、人間には術をかけている以上、謀反の心配もない。
まさに名案とは、これの事であろう。
気分を良くした猫は、我が意を得たと、人気のないリビングの日の当たりやすい所に座って、また微睡へと意識を降下させていくのだった。
2
人間は大体日が沈み切った、冷たい時間帯になってからようやく巣に帰ってくる。
ひどく疲れ切ったような日もあれば、楽し気に、愉快そうに、悲し気に、驚いた様子で、外の香りと煙を体に纏わせて帰ってくる。
そのうち自分もだんだん人間と話すのにも慣れてきて、その日の人間がどんな風に巣に帰って来るのか、だんだんと楽しみに思うようになった自分がいることに気が付いた。
今日もまた、くたびれた顔をした人間が日の過ぎた後に帰ってくる。
「ねこ、ただいま」
くたびれた顔が、自分を見た瞬間に生気を取り戻していくのを見て、人間とは実に単純で浅はかな生き物だなと、しかとその胸に刻む。
「今日も随分とまぁ遅かったではないか、人間」
「人間って、お前も砕けたなぁ。まぁいいけどよ。俺にも名前があるんだからな、ねこ」
「お前も私の事をねこと、種族名で呼んでいるだろう」
「それはお前が名前を教えないからじゃねぇか」
荷物と上着を置いて、苦笑しながら水場へと足を勧めた人間。
術がかかってから日数が過ぎたというのに、未だに溶ける気配がない。
簡単だと喜べばいいのか、単純だと嘆けばいいのか。
仮にも自分の人質なのだから、申し越し周囲に警戒を払ってもらいたいものだが、どうにかならないものなのか。
フーっ、と溜息をついたもの日が暮れるほどまで働く人間を想って、その日は何も言わないでおいてやった。
3
ふと大分暖かくなった日差しを浴びながら、表を散策する中で思い至った事がある。
人間の巣に入り込んで、大分日がたったように思える。
春の花が咲き誇る、あの時分より大分暖かくなった。
草花は花から葉へ、桃色や赤などの目に鮮やかな色から一転、草木は生い茂り、若葉を生やしている。花とはまた違った面持ちをのぞかせ、木の匂いが香しい季節となった。
風も薫りたち、どこか懐かしい季節にも思える。
花が咲かせた命が、実へと成長する過程で、一番隆々たる姿をしているのが、今の季節なのであろう。なんとも美しい。
だがいい加減、一人でいるのも飽きてきた。
ずっと長い時間を一人で暮らしてきた自分が言うのもなんだとは思うが、飽きたという表現が一番適しているように思えるのだから面白い。
春の日差しの中、寝ころびようと、薫り立つ風の中を歩こうと、なかなかに何かが足りない。
まずその域まで動けるようになった自分をほめてやりたいと思うのだ。よくぞここまで動けるようになったものよ。
ほんにあの人間も関しているかもしれないと、最近思うようになったと思う。
そして我はあの人間に世話になっているだけであり、飼われているという状況ではなのだが、周囲の人間どもは私の事を、あの男の人間の飼い猫であると勘違いをしているらしい。
なんとも腹立たしい限りではあるが、そう周囲に思われるほどに、あの人間が私に腹の内を見せるようになったのだと思えば上々。
特にあの、大家と人間が呼んでいる媼、私の良い所を的確に撫で上げていくのだから憎めない。
術を始めの一度しかかけて居ないのにもかかわらず、効力を保ったまま、嫌、むしろ上がり続けているというのはなんとも奇妙なことではあるが、まぁその術のかかりやすい体質を変えるのはおいおい、そう、おいおいである。
ブロック塀の上へと昇り、人間の巣の付近に上がる。
人間が住んでいる住居を取り仕切っている、そうあの大家とかいう媼が、私を見つけて出迎えてくる。
「あら、三毛ちゃん、散歩から帰ってきたのかしら。楽しかった?」
そんなことを聞いてくる媼を、何となくだが無下にするのもはばかられて、人鳴きしてから窓へと飛び上がった。
赤に染まる部屋の中、黄昏時を一人で過ごすのは、なんとなく昔を思い出してしまう。
すでに無くしたか壊れたと思っていた心が、痛みをもってその存在を訴えかけてくるのだから忌々しい。
一体全体どうしたというのだろうか。弱いと見せかけて、あの人間が何かしてしているのだろうか。
そんなはずはないというのに、なぜか生まれた疑念の心が、自分の弱さをさらけだしていく。
沈む夕日に照らされて、先ほどまで自分が歩いていた町の並々が、真っ赤になって、だんだんと薄紫のような、ぼんやりとした様子に姿が変わっていく。
海の神が、旗のように棚を引かせて、雄大に、巨大に広がった雲に、遥か西の方には、山の向こうに沈んで隠れた日の光が、すーっと差し込んでいて。
自分の神力とは比べ物にならないくらいに巨大な、自然独自の神威を放つ、荘厳な夕焼けが、じっとりと地の向こう側へと沈んでいった。
その様子と一人、狭い一人暮らし用のアパートの一室で、暗くなる部屋の中、じっと猫は見つめていた。
いつもならば暗くなる前に、勝手に明かりをつけて、夕方の情報番組でも見始めるのだが、今日はどうもそんな気が起きない。
(あの人間は、いったいいつになったら帰ってくるのだろうな……)
猫は、己の抱えている気持ちにきっちり蓋をしながら、暗くなり星が出始めた空を、ただただ眺めていた。
冷たい風が吹き、ふと嗅ぎなれた香りが鼻をかすめる。
人間に教えてもらった時計を見るに、彼のものがいつも帰ってくる時間帯になっていた。
なぜか、夕日を見ていたことを人間に悟られたくはなかった。
慌てて部屋の明かりテレビをつけ、いつもの位置に陣取って、なんでもないような顔をして人間を出迎える。
そう、猫は人に慣れる生き物ではないのだ。
野生においても、人の地においても、気高く、孤高で、決して人となれ合ってはいけないものである。
ガチャリと、玄関の鍵が開く音がする。
先ほどまで猫が浴びていた風を纏って、扉から風たちを連れて、人間が帰ってくる。
「ただいまー、いい子にしてたか?」
誰に物を言っているのだと言いかけて、結局何も言えずにテレビに集中している様子を装い、人間の言葉を無視してみる。
こちらを見て苦笑したように、小さく笑うとそのまま水場へと向かっていった。
そして水音がたつのを聞いて、初めて
「おお、帰ったか、人間」
と、普段よりも機嫌の良さそうな声で、返事をしてやるのだ。
口をゆすいでいるのだろう人間は、がらがらと音を立てた後、自分に対して何やらぼそぼそと言ってはいるが、私の姿をその瞳に映すと、恰好を崩してによっと笑った。
「ねこのくせに、音にくらい気づけよ……」
あきれるような、愛おしいような、そんな口調で話しかけられると、途端に体がむずがゆくなる。
人間は厨へ引っ込んでいき、そこで自分と私の飯の準備を始めているようだった。
「ねこ。今日は土産があるぞ」
これまた嬉しそうに瞼をとろかせている人間は、厨の台の上に上がろうとした私を腕で防いで、乗せてはくれない。
「乗らずして、どうやって土産を見ろというのだ」
納得がいかない私に人間は、テーブルにもっていくからそっちに行っていろと、私を厨から追い出した。
昔から厨の主となる人間は強かったような記憶があるが、この場の厨の主は人間なのだろうか。
家の主人とは別に、厨の長はおなごが務めていたように思えるが、時代と共に移ろったのであろうか。
前々から気になっていたことを、人間の土産である鳥の肉を揚げたものを食べながら、それとなく聞いてみた。
人間は食っていたものを一瞬口に詰まらせると、汁物と一緒に一気に流し込む。
しばらくそのまま咳込んでいた人間だったが、もう一度汁物を飲み、一息ついたところで自分に赤い顔を向けてきた。
「おい! それは馬鹿にしているん、じゃ、ないよな……。猫だもんな……」
急に大声を上げたかと思えば、何やら声が小さくなっていく。肩が大分下がっているように思えるが、何かおかしなことでも言ったのだろうか。
「猫だからなんだというのだ。私は只、時代が変わったがゆえに、その形式も途絶えたのかと、そういうことを聞いているに過ぎないのだが」
耳を折りたたみながら、注訳を入れて語ってやる。
「なるほどなぁー……、猫にとっては、そんなもんなのか。あのな、多分猫が言っている厨の主ってのは、多分その家の主さん、の奥さんなんだよ」
「なんと、人間。そなたまだ誰も娶っていないのか」
「今の時代はこういうもんなの」
「なんと、そういえば一人しか見ないと思っていたが、何と……」
どことなく納得の言っていないような人間に呆れたような顔を見せられながら、食事を終え、人間が水浴びをしている最中に考える。
(となると、無駄に心地のいい空間に、他のものを入れる心配はないということだな)
認めたくはないが、猫の中でこの巣とあの人間は、守るべきものであると、そう本能が理解していた。
もしもその中に、別の誰か、巣の本来の主である人間が招き入れたものが入ってきたのなら、でていかなくてはならないのは、まず間違いなく猫の方である。
心底良かったと思いながら、もしも今術を完璧に解いてしまったら、人間はどういう反応を自分に見せるのだろうか。
気持ちが悪いか、怖いか、それとも利用利用しようとしてくるか。
猫本来の力は人間に対して明かしたことは無いが、明かしたのち、人間がどういった反応を起こすのか、自分にどういった態度をとるようになるのか、正直猫は恐ろしかった。
これまでの生に無かった安らぎと安寧。安心して寝る事の出来る、くつろぐことの出来る、そんな空間。
何より、自分に笑いかけてくれる、あの人間の男の存在。
野生を、根付を、精神を使って、生き汚く生きてきた昔の猫ならばまだしも、現在の猫は認めたくはないがすっかりと人間に慣らされてしまっていた。
そんなときに、人間に冷たくされたらおそらく立ち直れそうにない。
弱くなった自分を呆れつつ、もしもそうなったときは、汚い己を見せることなく、綺麗に死に逝こう。
愛されなくなる前に、自分から手を放してやろう。
空にはなんとも大きな、まあるい月が出ている。
こちらをあざ笑うように、ニンマリ口を開け笑って居る。
猫は、様々な感情を胸に秘めつつ、かつての自分に思いを馳せていた。
4
いつぞやの月の晩から一体どのくらいたっただろうか。
あの晩以降、人の子への執着に気が付いてしまった時から、猫は夕方になると決まって窓を開けるようになった。
その近くに腰を据え、外の匂いをかぐことの出来る位置へと、鼻先を置いて、そっと外を眺めるのが日課になっていた。
本日も、何も変わらないならば、いつものように窓辺へと寝転がる予定であった。
だがそこに、呼んでもいない邪魔な来訪者が訪ねてくる。
「やぁ、猫。祓い師共に追われていた時は一体どうなる事かと思っていたが、何もなかったようで何よりだ」
にこやかに、それでいて平らに辺りを見渡す目は、剣呑な光が宿っている。
「はっ! 今さら何をしに来た、白野。妖の長が、九十九なんて半端もんに構っていていいのか?」
からかうように、遊びに誘うように、猫は笑い、白野と呼ばれた人型の、しろい純白とも、金とも言えない、光の加減で輝きを変える不思議な衣を纏った妖怪へと、あからさまに挑発をした。
猫は、とにかく人の子がこの巣に帰ってくるまでに、白野をここから追い出したかった。あの子を、祓い師と妖なんて、危険な世界に踏み込ませたくなかった。
祓い師であるならば、同じ人間を人質にしているという名目。
何とか近寄らせる事は阻止していたが、妖怪となれば、そも、長クラスの実力者ともなれば、流石の猫でも人間を守りながら立ちうつ事は困難である。
焦っていることを気取らせないように、猫は笑うが、そもそも白野は、争いがしたくて、猫を怒らせたくて、人間の元へと降りてきたのではない。
緩やかな海を、広大な大地を思わせる、なんとも心地のよい調子の声で白野は言った。
「猫、人間に肩入れするのは良くないよ」
だが、白野のこの言動により、相手方がそのようにとらえるかというと、それもまた違うのである。
にこやかな笑みを浮かべたまま発したその声の圧は、猫の全身の毛を逆立させるには充分であった。
猫はおもわず飛びだし、白野の喉元へとその鋭い牙を突き立てようとしたが、簡単によけられてしまう。
猫は空中で身を整えると、壁を蹴りもう一度白野へと襲いかかった。
直情に突っ込んでくるそれを難なく受け止めた男は、そのまま猫のしっぽを掴んだと思うと、容赦なく床にたたきつけた。何度も、何度も、床にたたきつけられるたびに、猫の小さな体から、赤い血が流れていく。
叩きつけられている最中でも、すきがあればすぐ飛び掛かれるようにしていた猫であったが、頭を叩きつけられるごとに、だんだんと反抗の意思はそがれていった。
(畜生、畜生! 私は、無力だ……)
小さな体で両目に涙を浮かばせる猫に、少しだけ心が揺らいだのであろう。掴む力を緩めた隙を見計らって、猫は一目散に白野から距離を取った。
正直、この空間から逃げ出してしまいたかった。
白野の前から、姿を消してしまいたかった。
だがここは、猫が人間に、大輔に任された彼の城である。
であるならば、自分がどうなろうとこの場を、大輔を守らなければいけない。
滲む視界で白野の方を見てみると、それはそれは困った顔をした、情けない面を晒した男がいるではないか。
猫の賢い頭は、ようやく勘違いに気が付いた。
こいつは、良くない。としか語っていない。
なんとも紛らわしい真似をした白野を、残る気力で精いっぱい睨み付ける。
彼は彼で、先ほどの気迫はどこへ行ったのかという風な穏やかな気調に戻って、申し訳なさそうに眉を下げ、何かを口に出そうとしては出掛かった言葉を飲み込んでいるようだった。
「白野。先にかかった私も私だが、きちんと説明をしろ」
猫は苛立ちを隠そうとしない声で言い捨てた。
「うん……そうだね、ごめんね」
消え入りそうな声で白野は話し出した。
「猫は最近、人間と一緒過ごしているだろう。それもその人間に随分と入れ込んでいるようだ。どうも祓い師の人間どもは、人間の子が妖怪に操られているって思っているらしくてね」
先ほどとは打って変わり萎びた葉物のような、そんな様子でぼそぼそと話している。
だがそれとは反対に、話を聞いている猫の目にはだんだんと真剣みが増しているようであった。
「そしてどうも、猫と共にいるという事を理解したうえで、人の子に近づいている祓いの者がいるらしい。そしてその者もどうやら猫が気に入っている人の子を囲いたいようだ」
剣呑になっていく猫の様子を知ってか知らずか、白野の語りは止まらない。
いつも気まぐれで碌に人の話を聞かない猫が、自分の話に耳を傾けていることに気を良くした白野は、だんだんと声の抑揚を強くしていった。
「このままでは人の子も、猫も、望まぬ方法で引き離されそうだからな。そう、だから猫が狙われることが無いよう! 人間とは離れるように言いに来たのだよ」
「問題ない、失せろ」
すべてを聞き終わったと判断し、途端に興味を失ったように猫は白野の言葉を遮り、冷たい言葉をぶん投げた。
「傷も治せ、部屋も元通りにしろ、後はあの子が帰ってくる前に帰れ」
ぴしゃりと言い切る猫に対し、白野は情けない声をあげた。
「傷も治すからね、部屋も治すからね、もう少し話をきいておくれ……」
それでもなお、やはり幾度の妖怪を束ねる妖怪の長であるためであろうか。
白野は一呼吸入れたのち、凍てつく目をした猫に対し、人間とは離れるべきだと、猫の為にならないと、言葉を綴る。
「猫、君は確かに強い。その出生に限らず、己に着いた逸話のみで、あの厄介な輩にまで恐れられる存在になった。だけど、君は今満足してはいないかい? あの人間と関わるようになって、充実感を得ていないかい? それが仮初だと気が付いているというのに」
猫の表情が、だんだんと変わっていく。
白野のことばが、猫の心の柔らかい所を十分に傷つけていく。
その通りだったのだ、猫は己の術のかかった人との生活に、満足して、満たされて、そんな腑抜けになってしまったのだ。
先ほどの攻撃であっても、これまでの猫であったなら、あそこまでは白野にいいようにはされていなかったであろう。
だというのに一方的にしてやられたのは、猫には出来ない行動があったからだ。守るべきものがあったからだ。
部屋が汚れるのを気にしなければ、己が傷つくのをためらわなければ、あの一手で白野の命を刈り取れていたかもしれない。
いくら数百年の間柄である猫と白野であったとしても、たった数か月の人間に、軍配が大きく上がってしまったのは、猫の落ち度としか言いようがあるまい。
ひたすら孤独の時間を紡いできた猫に、孤独ゆえに強者だった猫に、弱さが生まれてしまったのは、生んでしまったのは、間違いなく何の力も持たぬ脆弱な人間風情である。
険しい物になる猫の様子を見ていた白野は、優し気な声で、幼子に語り掛けるような、そんな穏やかな声で、猫へと語り掛けた。
「猫、とりあえず術を解いてごらん。そうすれば、その人の子の人となりが、本来の姿が、きっとわかる」
そういわれてしまっては、猫はうなだれるしかなかった。
先ほどのように、癇癪に身を任せて、白野に殴り掛かりたかった。だが今それをすれば、自分と大輔の命運は決まったも同然である。
猫の傷を治し、部屋を片付け、そして猫を一撫ですると、そっと音もなく体が空気に消えていった。
ほどなくして、大輔の鍵を開ける音がする。
「ただいま」
猫は何もしたくなくて、いつものように声を掛けてくる大輔を、何時ぞやの目的とは、まったく逆の用途に使う為、瞼をつむって寝たふりをしていた。
「ねこ? あぁなんだ、寝ているのか」
声が聞こえない事を不審に思い、猫を探していた大輔は、ソファの上で丸くなる猫を見つけると、猫の為に用意されたブランケットをそっと猫にかける。
「こんなことしても、大して意味はないんだろうけどさ」
静かな声でそっとかけられたブランケットが、ふわふわのお気に入りのものが、この時ばかりは猫の胸のうちを締め付け、重い枷になっていった。
優し気な声が、ここまで心を辛くするものだとは、今までの猫には、理解も出来なかったのである。
流れ落ちる涙が見えないように、かけられたブランケットの中に顔を突っ込むと、猫は本格的に眠りにつき始めた。
5
新緑が萌え、木の葉が風に揺れる穏やかな時の流れる休日。
本来であればゆったりとした時間が流れるはずであった。
「なぬっ! こら、やめ、やめろ! ええい! は、離さんか!」
猫が突然声を荒げたかと思えば、あっという間に見えない何かに持ち上げられるよう宙に浮き、すうっ、とどこかへ連れ去られてしまった。
何が起こっているのか、状況を掴むことが出来なかった大輔は数泊ののち、猫が消えていった窓の外に身を乗り出して周囲を見渡すが、猫の姿はどこにも見当たらない。
どこにも異常は見受けられず、ただいつもの日常が眼下に広がっているのみである。
慌てて外に出ようと玄関の方に体を向けると、見るからに怪し気な男がソファに座っている。
大輔が男の存在に気が付いた時、男はにへらとした笑みを浮かべ、大輔に向かい緩く手を振った。
まるで自分の家のようにくつろぐその姿は、明らかに怪しい存在だろうにも関わらず、なぜだかどこか神々しささえも感じられる。
「おい、あんた誰だ」
思っていたよりも低い声が出た。
猫と暮らすようになってから滅多に出なくなった、周囲を威嚇するような底冷えのする声に自分自身驚いた。
大輔は出来るだけ平常心を装いながら、不審な男へと再度問いかけた。
「あんた、人間じゃないよな。なにモンだ」
その言葉がよっぽど面白かったのか、男は大輔へと向けている笑みを深くする。
(まぁ、仮に人間だったとしても、十中八九まともな人間じゃあ無いだろうな)
最近になり何やら考え事をしており、上の空でいることが多い猫。そしてその猫が消え、何もない空間から突如現れた不審者。
なんの確証も無いが、目の前にいるこの人物こそが、猫を悩ませる元凶で間違いないだろうという、根拠のない自信が大輔にはあった。
今まで過ごしていた空間に突如現れたという事は、案の定人ではないのだろう。だが猫がどこかに消えてしまった今、ただの人間である自分にはどうすることも出来ない。
ただじっと、大輔が男の動作を観察していると、ふと立ち上がり大輔の方へとゆっくり近づいてくる。
至近距離まで接近されても動じない大輔に、男は感心したように目を瞬いた。
「私が恐ろしくはないのかい?」
何か興味の惹かれたものを面白がる子供の様に、無遠慮に大輔へとさらに距離を詰める男。
それでもなお大輔はじっと男の目を見据えると、額に汗をかきながら男への返答を絞り出した。
「怖いよ。で、あんたはどこの誰だ?」
「おやおや。なんとも胆力が強い人の子だね。いいよ、答えてあげよう」
そのくすくすとした、乙女のような笑いすらも、今の大輔にとっては恐怖を煽るものでしかなかった。
「私は白野、猫の古い友人さ」
一見穏やかそうに微笑んではいるが、その美しさも相まってなかなかに圧が強い。
正直、恥も外聞もなく泣き叫んで、どこかに行ってしまった猫に助けを求めたかった。猫と出会うまで、己にこういった類の力は無かったのだ。
十中八九、こういった不思議存在と出会っているのも、猫がもたらした何かが故だろう。そしてこの客も猫の友人といった。
もしや自分は及びではないのでは無いか。この場を去っても許されるのでは無いか。
貴重な休日の時間を、得体のしれない不審者と共に過ごすつもりは無いのだ。
無かったはずなのだが、大輔が男を追い出そうと猫の所在を伝える前に、男により先手を打たれてしまう。
「あぁ、猫は居なくて大丈夫だよ。岡本大輔くん。今日は君に用があってきたんだ」
これまた美しいのだが、なんとも言えないような、どちらかとゆえば胡散臭い笑みをその綺麗な顔面に浮かべている。
男は二の次が告げず固まる大輔の手をとり、ソファへと誘導すると、わざとらしくにっこり微笑み、不思議な声音で大輔へと訊ねた。
「君は、猫についてどこまで知っているんだい?」
「どこ、とは?」
唐突な話に思わず面喰ったように、言葉を喉に詰まらせた。
猫について、とはいったい何の事だろうか。
「驚いた、何も知らないのにアレと生活を共にしているのだね」
あぁ、驚いた、驚嘆した。衝撃だ。
側が美しいためか、目を見開いて驚く姿も嘘みたいに似合っていて、学生の頃に見た劇団の演技のようだと取っ散らかった思考の海で考えた。
男の美しさにも慣れてくると、体の内側から良質な怒りが浮かび上がってくる。
男が勝手に話を振って、勝手に理解を示すような言動に腹が立っていた。
その間も男は、猫が大輔の元を訪れてから起こった様々な良い事、実際に起こりそうな事を楽し気に語っていった。
なんとも腹の奥が暴かれたような気持になって気分が悪い。
猫と自分の思い出が暴かれてゆくのは、なんとも不快だった。
「あれは君に、ただの人間に御せるものではないよ」
それまで跳ねるように表情を変えていたのに、男は一変し、能面のような顔で大輔を見つめた。
視線はヘビのように鋭く、その瞳には何も浮かんでおらず、ただ無感情に大輔を攻め立ててくる。
まるで腹の内を読まれているかのように、大輔が猫の事を考えるのを許さないというような視線であった。
もう夏も間近、間違っても寒い環境ではないはずである。野外は湿気と湿度を増し、夏特有の空気感が漂い始める頃。
それだというのに、歯の根がかみ合わぬほどの寒気は一体どこから来るものなのだろうか。手足は震え、座っていなければたちまちに腰を抜かし、その場に座り込んでしまっていただろう。
これほどまでの恐怖を他人に抱いたことは無い。この場から逃げ出さねば凍え死んでしまうのではないかと思わせるほどの、圧倒的な畏怖と恐怖を味わった事などありはしなかった。
目の前にいる美しいモノは、しきりに大輔に対し、猫から身を引くことを強く進めてくる。
能面のような顔には笑顔が灯り、口角が笑ってはいるが目が笑っていない。
日本人特有のアルカイックスマイルのお手本のような顔をした、得体のしれない目の前の男が、大輔にはひどく恐ろしいものに思えてならなかった。
いや、そもそも。なぜ自分がこんな目に合わなければならないのか。なぜ他人の事に口を出してくるのか。
恐怖にも慣れ、飛びがちであった焦点が定まってくると、人間なんとも図太くできているもので、だんだんと怒りが最熱してくる。
休火山のように、地表に現れていないだけで、腹の中には怒りをため込んでいる。
「猫が望んでここにいるのだとしたら、あんたはどうするんだ」
いくら怒りが原動力になっているとはいえ、先ほどまで恐怖に震えていた一般市民である大輔は、怒鳴り散らす勇気はない。
だが自分の主張を張る事をせねば、すぐに飲み込まれてしまいそうなこの部屋の空気感の中、猫の意思は自分と共にあるのだぞという事をアピールしてみた。
すると男は大輔が何とか出した返答にも当然のような顔をして、少しも思案する様子もないように言い放った。
「それは君が幸せになる為だからね、何とか猫が出て行くように頑張って誘導するよ」
これまた胡散臭い笑顔である。幸せ、と言っただろうかこの男は。
「幸せ? それは誰の?」
「もちろん、猫と君、両方さ。そちらの方がなんとも都合がいいしね」
猫の、そして自分の気持ちを度外視するような発言をする男に対し、確かな苛立ちが表層にあふれだした。
幸せ、これは今大輔が猫に会った事で久方ぶりに感じている事であった。むしろ目の前の男はそれを邪魔しているだけではないのか。
頭に血が上っているのが良く分かった。自分の事だというのに、斜め上から眺めているような不思議な感覚に飲まれる。顔があついというのに、どこか脳は冴えていた。
「大体しゃべる猫、それも本体は根付けだなんてよく信じることが出来たね、私はそちらの方が不思議でならないよ。現状に満足し、本質を知ろうともしないだなんて。君生きていて楽しいかい?」
男は大輔の方が信じられないと、不思議でならないと、そういってきた。
ため息をつきながら自分を、可哀そうな者を見るような目で見つめてくる。
黄金に輝く瞳を細くしながら、気分がお世辞にもよろしくないような、そんな表情をする男。その姿がなんとも美しく、なんとも恐ろしい。
猫の事を知ろうともしなかった事実に、大輔は胸が締め付けられる心地であった。
先ほどからどこか怒りが乗り切らなかったのは、自分自身もこの違和感に気が付いていた為だったのだろうか。
心地の良い時に満足し、何もお互いの事を理解しようとしなかったのは自分の怠慢である。自分は猫のことを何も知らない。彼が何者であり、目の前の男との関係性も何も、何もわからない。
息が詰まり、頭に酸素が回らない。困った、猫を引き留める手段が分からない。
彼だけには側にいてほしいのに、他に何も、偶然授かった幸運も、全ていらない。
無意味に回り始めた回路を吹き飛ばすが如く、深い深いため息が男の方から聞こえた。
「無知は罪とはよく言ったものだね」
そう言い残した男は、大輔が次に目をやった瞬間には消えて居なくなっていた。まるで煙のように消えてしまったが、ソファのへこみが現実を訴えている。
叩き付けるだけ叩き付けて、なんともあっけの無い別れにしばし呆然とした。
これまでの人生で起こった事の無い事件のオンパレードに、流石に疲労が出たのだろう。
しばし背もたれに体を預け天井を眺めていた。視界に入るものが全て煩わしく目蓋に力を入れてぎゅっと目を閉じる。ずっと上を向いていると首が疲れてきたので、体を横にずらしてソファに横になる。
二人掛けの、そこまで大きくないそれに体を丸めて寝ていると、肩の部分にほのかなぬくもりを感じた。
「いっそ全て夢だったらなぁ」
他者が聞いたら泣いているのではないかと思う程の情け無いかすれ声で一人、そんなことをぼやいていた。
いっそこのまま、泥のように眠れたらどんなに楽だろうか。
目を覚ます頃には、きっと、猫も帰ってきている。
ふと、開けたままになっていた窓から初夏の爽やかな風が吹き込んできた。
薫風というのにふさわしいような、夏の訪れを告げる風である。それに乗ってきたのであろうか、薔薇のような、ハーブのような、花のいい香りがした。
閉じていた目蓋を押し上げ瞳を晒すと、風に揺れるカーテンの隙間から見事な青空が広がっていた。
この分では一週間もしない間に薫風は青嵐にでも変わりそうである。
そういえば猫が夏になったらスイカが食いたいのだと言っていた。元は無機物であるのに、最近なんとも食い意地が張っている。
ふふ、とこみ上げてくる笑いに、自分がいかに馬鹿馬鹿しい事を考えていたものだと自覚した。
ようやっとあの野良猫が懐いてきたばかりだというのに、そんなちんけな悩みごときでこの世の終わりのようになっていた自分が馬鹿馬鹿しい。
ソファから手足を投げ出して伸びをした。ぽきぽきという小気味よい骨の鳴る音すらも、今の自分には面白く、それで笑う自分に対してまた笑ってしまう。
猫の事を知らないというのならば、これから知っていけばいい。己はこれから先、命が許される限り、ずっと猫と一緒にいるのだ。
勢いを付けて立ち上がろうとして少しばかりよろけた。未だ少しばかり気分がふわふわとしているようだ。
部屋にいては落ち着かないと、いい天気なのだから、いっそ外に出ることにした。インドア派の自分にとって、珍しい選択を取ったものである。
大輔はメモ帳を一枚抜き取ると、走り書きのお世辞にも綺麗とは言えない字で猫に向けて書置きを残した。
テーブルにメモ帳を置いたが、たびたび吹き込んでくる風によって何度か飛ばされてしまっている。
何か重しになるものを探していると、河川敷で拾ってきた艶々としたまあるい白い石が目に留まった。
梅雨に入る前、猫と散歩をしていた時はこうして綺麗だと思ったものを拾ってきていたが、雨が降るようになってからしばらく一緒に出歩いていない。
これも猫が自分の元を訪れるようになってから始まった習慣だった。
カラッとした天気ばかりになり、日が伸びてきたらまた猫を誘って散歩に出かけよう。
肉球がコンクリートで焼けて嫌だというのなら、その度に自分が抱えあげて歩こう。
自分が一等嫌いである夏の夜も、猫と一緒ならば、どこまででも歩いて行けるような気すらする。
書置きを石に挟み、最近新調した無駄に高性能のリュックを背負い、部屋の中を眺めた。
風が吹き、カーテンが揺れるごとに、日光が柔らかく広がったり、縮んだりしている。
室内は暖かく、穏やかで、猫の爪とぎ用にもらってきたそこそこ大きな木の、心地よい香りが漂っている。
去年のこの時期は、この部屋はこんなにも心地の良い場所だっただろうか。
猫が来る前は、酒ばかりで、ろくな食事も取っていなかった自分だから、きっとこんな気持ちのいい場所だと、気付くことも無かったのだろう。
靴を履き、ドアを開けると先ほど香ってきた匂いがする。どうやら正体は大家さんの育てているゼラニウムだったようだ。
花弁の淵がフリルのように飾られていて、風が吹くたびに揺れる姿は可愛らしい。
もっと近くで見たい気もするが、猫はこの香りを好んでいないから、近づきすぎるのはやめておこう。
猫を飼うと猫中心の生活になるというが、まさしく先人の言う通りになった。
本当に今日は天気がいい。
晴れ晴れとした気持ではあるが、先ほどまで燃え上がっていた怒りも、完全に消えたわけではない。
だがすべては猫の為。あの男の口車に乗るようで腹立たしい気もするが、これはあくまで猫の為である。
猫と自分の未来の為、猫の事をもっとよく知る為。
その為の一歩を踏み出す日にしては、この晴れた日は、最高のロケーションでは無いだろうか。
「そういえば猫って文字読めるのか?」
それを知る為の一歩として、大輔は市内にある、割と大きめの図書館へと足を急がせた。
6
昼間、急に小妖怪たちによって連れ去られてから、猫はずっと不機嫌であった。
一切そういったものを大輔に見せることなくやってきたというのに、大方白野のせいであろう。妖怪たちを束ねる立場を利用して、なんともこざかしい奴である。
わたわたと自分の周りから立ち去っていく小鬼や馴染みの妖怪たち。機嫌が悪い事を暗に感じるのか、近寄ってはこないが遠目からこちらをちらちらと眺めているようだった。
(ええい鬱陶しい! そんなにここにいるのが珍しいのか!)
本日はここらを根城にする妖共の顔見世である。本来なれば己より序列の高い妖怪がそれを取り持っている為、呼ばれたならばどんな荒くれた輩でも出席をしなくてはならない。
はずであるのだが、猫に至っては並みの妖怪ではかなわないくらいに強く、おまけに長である白野のお気に入りと来た。
その立場に胡坐をかき、群れる事を良しとしないこの猫は、ここ数十年のうち一度も会に顔を見せたことは無かった。
見当たらない顔も、知らない顔も随分と増えた。
絡みつく視線がうざったく、気を紛らわすように毛を舐めていると、次第に辺りががやがやと騒がしくなり始める。
しばらく雑踏に耳を傾けていると、日向で丸まっていた猫の元へと白野がやって来た。
「やあ、猫。この間ぶりだね」
眦を下げながら声を掛けてくる白野に、猫は一瞥をくれた後、そっぽを向いた。
白野に対する猫の様子にさらにざわめきが大きくなる。
情けない声をあげながら白野が猫の体を持ち上げる。途端後ろ脚で白野の肩を蹴り上げると、ふわりと着地し猫は白野から距離を置いた。
「触れるな。大体貴様、大輔の目の前でなんてことをしでかしてくれたのだ」
咎めるような猫の目に大きく肩をすくめた白野は、いつもと変わらい口調で言い放った。
「猫、やっぱり弱くなったね。そこらの中位妖怪相手なら倒されてしまうんじゃない?」
馬鹿にするような白野の口調に、周囲の妖怪たちはそっと物陰に身を隠し、衝撃に備えた。
途端、猫の身の内から沸騰するように熱い蒸気が吹き上がり、暴風は灼熱の炎を伴いながら、猫の体に纏わりついてゆく。
燦燦と暖かい太陽の下、轟轟と渦を巻く猫と、それに対峙する白い美しい男。
絵巻物にでもしたら、時代によってはさぞかし持て囃されたであろう情景である。だが、周りの者にしてみればたまったものではない。
妖怪たちは身を寄せ合い、二人を止める事の出来る者の到着を待つか、猫が自主的に収まる事を待つしか道はない。
幸い白野がいる為、自分たちが消滅するほど猫が暴れる事は無いだろうが、怖いものは怖いのである。数百年生きている者でも、強者の前に立った時の、あの息の詰まりはどうも収まることは無い。
その点で言うと、白野の殺気を毛の先程とは言え、人間の身で受け切った大輔は随分と胆力がある方なのである。
「これでも負けるとゆうのか、なんならここで貴様を葬ってやってもよいのだぞ」
低い威嚇の声をあげながら、猫は白野を真正面から睨み付ける。
臨戦態勢を取り、体を低くして、このまま白野に襲いかかろうとしたその時である。
「岡本大輔くん」
白野のつぶやき一つで、猫は襲いかかる事を躊躇した。
「猫の正体を知った後も、同じように接してくれるかな」
一触即発の空気、炎の揺らぎが大きくなった。放たれるかと思われたそれは、どこへ行くことも無く、猫の側を漂い続けている。
「一様、彼には一言しか伝えてないから、どうなるかは分からないけど」
風が吹き上がり、猫を焦がす炎を消してゆく。
「猫、その姿で彼の前に立てるかい?」
もう一度大きく揺らめくと、途端霧散し、猫は元の三毛猫の姿へと戻っていた。
「貴様、大輔に何を言った!」
息を整えながら、心を落ち着かせようと、冷静になろうと頑張った猫であったが、語尾を荒げてしまう。
周りの妖怪にしてみれば、人物名を出した途端気を収めた猫と、その所業を成した白野の間に何かがあった事は明白であった。
もう一度猫が訊ねると、これまたいつもと変わらない様子で白野は笑った。
「無知は罪だといったまでさ」
顔を硬直させ、目だけをギラギラと燃え盛らせながら、白野を睨み付ける猫。
周囲の妖怪は集会に出席しただけで、こんな怖い目に合う羽目になるとは思ってもいなかったであろう。ただ少し、運が悪かった、それだけである。
情報交換を兼ねた会が終わると、飲み会に一変する。本来の猫であれば会議に出席はしたとして、飲み会までに付き合う義理は無かったが、今は家に帰りたくなかった。
いったいどのような言葉を大輔からかけられるのか。想像しただけで身が震えてくる。
いっそこのまま飲み潰れてしまおうか。そんなことを考え始めた時、白野から大輔が家に帰った事を聞かされる。
「おまえ、まさかに家にまじないをかけたのか?」
呆れたような猫の声が、ざわめきと歓声の中、ポツリと落ちる。
白野は猫の背中を一撫ですると、その雑踏の中へと混じっていった。
猫にだってわかっているのだ。白野がわざわざ大輔に声をかけたという事は、昔のようにはならないと。
それでも猫は逆立つ気を押さえられる気がしなかった。
7
大輔が猫に対してまず行った事は根付けの時代を調べることであった。
今の情報社会、写真一つで簡単に探し物が見つかることもある。幸いにも以前撮った根付のデータが残っていたから、それを検索エンジンに張り付け調べていると、江戸前期の作品だろうという事が判明した。
ネットは偉大である。
だが肝心の誰の作品であるか、そんな確信に触れることは一切出てこなかった。
猫のように美しい作品であるのならば、作者もその道では有名な人物であると、探索は簡単であろうとふんでいたのだが現実は甘くはないようだ。
何となくそれらしいものが目に留まるのだが、どれも何か違うような気がするし、何よりネットの情報をどこまで信じていいか良く分からない。
だがしかし、ここで自分が諦めてしまっては、猫は一生帰ってこないのかもしれない。そんな思いが胸をよぎった。
実際あの、猫の友人を自称していた男が本当の猫の友人であるか、猫に直接話を聞かなければわからない。事実俺も信じていないし、何となく信じたくない。
だが、男が言った言葉は悔しいながら本当であった。
そして自分は猫のことを知りたいと思っている。ここでやめる理由は無い。調べるのが心底面倒くさくなっては来たが、手を止めるわけにはいかない。
ネットで見つからないのであれば、実際に残っている書物などから探せばいい。
猫が生まれたであろう昔の時代には、そもそもネットなんて便利なもの存在していなかったのだ。
8
差し込む夕日と、手元の本に影を落とす自らの影。すっかり暗くなってしまった図書館の机の上に広げられた、根付と江戸の美術に関する本たちの群れはどこか暗く、哀愁さえも感じる。
昼頃に図書館に入館して早六時間ほど経ったが、全く以てそれらしい記述が見当たらない。
そもそも猫の根付など博物館に寄贈される有名どころから、庶民によって使われた日用品に至るまで、ありとあらゆる様々なものが市場に出回っているのだ。
その中からたった一つの、名も知らない根付を探し出すことなど、果たして本当にできるのだろうか。
ずっと続く文字の羅列に気が滅入ってくる中、閉館を知らせる館内放送が鳴り響いた。
(初めから猫に直接聞けばよかったのだろうか……)
本の片付けをしながら、ふとそんな事を思ってしまう。
だんだんと影を濃くする室内のように、自分の心に芽生えた影も、次第に質量を伴っていく。だがそれは室内の明かりがついたことによりパッと消え失せた。
「申し訳ありません! 人が居らっしゃったのですね」
図書館の司書さんだろうか。小柄な女性がこちらへと足早に近寄ってくる。
どうやら自分のいた場所は陰になっている場所だったようで、自分が居る事に気が付かなかった為に、明かりをつけていなかったのだという。
まぁ、こんな古い本ばかりが集まった休館の方に、こんな遅くまで人が居るとは思わないだろうから無理も無い。
「大丈夫ですよ。もう閉館の時間ですし、調べものと言っても趣味の範囲ですので、いつでもできる事ですし」
かしこまったように頭を下げる彼女の頭を何とか起こし、本の片付けを手伝う。
その間の小話程度に、根付の事が書かれた書籍を他にも借りたいと申し出たのだが、あいにく自分が調べてしまった範囲内の書籍しか在庫が無いらしい。
やはりそうかと思い落胆していたが、彼女が持ってきた本の中で、自分が今まで調べていなかったジャンルが目に留まった。
それはなんとも滑稽な話であった。
付喪神という何ともオカルティックな話であるのに、そういった怪談話の方向で調べるという事を忘れていた。
彼女に頼み込み、江戸の始めの怪談話、そこを中心に数冊調べただけで根付の記述を発見する事が出来た。年代もネットで調べたものと一致している。
その本たちを借りる事にし、家に帰る時間が何となくもったいなく、近くのファストフード店に立ち寄り、じっくりと読み込んだ。
そうして俺はあの男がどうしてあんなにも俺と、人間と猫を離そうとしていた事が分かった。そう、分かってしまった。
古く黄ばみ、日焼けした本に記載されていたそれは。
優しい猫の、悲しいお話であった。
9
禍福の根付。資料にはそう記されてあった。
江戸の前期から中期にかけて、猫の根付の評価はどうやら一変したらしい。
始まりは江戸の町にならどこにでもある損料屋。そこの商品として客に貸し出されていた。値段の割に精巧な美しい猫の根付は、大勢の人に使われていったらしい。
だがあるお客に貸し出された事で、猫の運命は一気に動き出していく。
猫が手元にあると良い事が起こるといったお客がいたのだ。
始めは周囲の人間も半信半疑であったが、彼の力説に押されて猫を借りた人間にも、これまた幸福が訪れた。
噂が噂を呼び、どんどん猫の認知度は跳ねあがっていった。
そうして町中の、しいては江戸中にその話が広がっていき、猫を欲しがる人間は後を絶たなかったそうだ。
噂が広まり、人間が猫に欲を、信仰を向けるにつれ、本来そのような力を持たないただの根付は、話が広がるたびに、本当に力を手に入れ始めた。
そうしてさらに猫を借りた人間によって、猫は望まれた存在へと自分自身を変えてゆく。
そうしてある時、とある商人が猫を損料屋から莫大な金額で買い取った。
男の名は記述される事が無かったが、大分大きな商家の主人らしい。
猫は庭に小さな社を立ててもらい、そこで商家に恩恵をもたらしたと書かれている。さらにその家は大きくなり、猫もさらに力を高めていった。
己が加護する一族の繁栄と笑い声、それがいつしか周囲の人間の反感を買うこととなった。
猫はそうあれとされることで力を強める存在になった。
そこに付け込んだのか、はたまた勢いのある商家への嫌がらせなのか、猫が他の人間の運気を吸い込んで、その商家へと与えているという噂が広まるようになる。
もちろんそんなことは無かったが、噂とは実を呼ぶもの。
その商家へと訪れた客人が帰宅の道中、何者かに殺害されるという事件が起こった。
金銭が抜かれていた為、下手人は盗難目的の殺害であったとされたが、当時も猫の噂は広がており、殺害された人物が商家を訪れていると知った途端、瓦版は面白おかしく書き立てた。
『噂の猫のせいで人が死んだ。猫は福の神か、はたまた疫病神か』
そんな噂が更に波紋を呼ぶたびに、商家に関連する者達が怪我をし、病気がちになっていく。
今となっては仕立て上げられたのか、本当に盗人が出たのか、何百年も昔の話をほじくり返すことなどできやしない。だが同心の旦那によると、明らかに素人の殺しでは無かったそうだ。
度々諸々、猫の扱いに困った商家により猫は徳の高い僧に焚き上げられる事となった。
だがその根付を焼いた途端、常軌を逸した叫び声が鳴り響いたと思えば、根付の姿は大きく変貌し、そこら一体を焼き払ったという。
燃え上がった根付は灰と化し、風に飛ばされたそうだ。
噂では付喪神になっていただとか、元々化け猫が根付に化けたものだとかの伝承がいくつか存在するが、どれも確証を得た書物は存在しないという。
その名前は、誰が呼んだか禍福の猫。
猫が辿ったは幸か不幸か。
禍福あざなう欲の交わる先。一体何が待っているのか。
記述はこのように閉じられていた。
読み終わってしばらくしてから、ようやく店内の様々な音が、濁流のように押し寄せてくる。そのざわめきが、今の自分には丁度良かった。
古い本の中に乗っている猫の姿は、とびきり恐ろしく描かれていて、大きな体の周りには、自分を殺した炎が纏わりついていた。
猫の根付。幸福を与える。察するに多分これが猫の正体なのだろう。
他人の幸を吸い取り、他者へと分け与える力。
本来の力が人によって狂わされた時、猫は一体どんな気持ちだったのだろうか。思い返せば自分のもらっていた幸福も、猫の力によるモノだったらしい。
おもわずため息が出た。
(滑稽だな……)
謎の幸福で猫に出会ったのだと思っていたら、結局は逆だったらしい。
嫌いな力を自分に使う度、自分が喜ぶたび、猫はどんな思いをしていたのだろう。
さらに深くなる夜の中、カバンに資料をしまい、氷が解けて薄くなったコーヒーを飲みほした。
無性にあの毛並みに触れたくて、抱きしめたくてたまらない。
猫はもう帰っているのだろうか。いつもは使わないタクシーを使ってまで、どうしても早く猫に会いたくて仕方がない。
10
すっかり夜になってしまい、星は無駄にきれいに輝いている。
それだというのに部屋の明かりはついていない、部屋の中も自分が昼間に出ていったきりであるようだった。
「猫?いないのか?」
声をかけても帰ってこない。深い昼寝をしているわけでもなさそうである。
「おかしいな、まだ帰ってきてないなんて……」
いくら猫が何百年と生きる妖怪であったとしても、心配になってしまうのは仕方がない。あのような記述を読んだ後なのだ。
何となく自分に言い訳をしてみるけれど、胸のざわめきは収まらなかった。
もしもこのまま猫が消えてしまったら、このまま会えなくなってしまったら。考えただけで気分が悪くなる。
あと数分たっても戻らなかったら、猫が行きそうな所を探して回ろうと大輔が考え始めた時。かたんと外から音がした。
窓を開けると猫が少し申し訳なさそうに、佇んでいる。
「良かった! 猫、こんな時間までどこに行っていたんだ」
猫を室内に招き入れ、濡れタオルで足の裏を拭いてやる。
いつもならば嫌がるそぶりをする猫であったが、今日ばかりは素直に受け入れているようであった。
静まり返る室内。大輔は静かに語り出した。
「猫、おれ、猫の話を調べたよ」
結構勇気を出して言った言葉であったが、猫は顔を伏せたままで、大輔から表情は伺えない。
大輔も猫も、どちらも黙りこくったままであった。
しばらく二人の間には深い沈黙が落ちていたが、痺れを切らした大輔が、ゆったりとした落ち着いた声で声を上げた。
「猫。お前がいいなら、俺はずっと」
「待ってくれ。待って、くれ……」
そんな大輔の言葉を遮るように、これまでずっと黙っていた猫は堰を切ったように言葉を放つ。
このように弱った猫の姿を見るのは初めて出会った。耳は伏せられ、しっぽはずっと床に付いたままだ。
話そうとすると言葉が詰まったように、口を閉じてしまう猫は、普段の姿からは想像もつかぬような、大分しおらしい姿になっていた。
「猫、大丈夫だ。俺はいつまでも待っているから」
大輔が猫の頭を撫で、背を撫で。そうこうしているうちに大分落ち着いたのだろう。ゆっくりと、本当にゆっくり、ボロボロに壊れたものを繋ぎ合わせるように、優しく、丁寧に語り始めた。
「私はお前に、謝らないといけない事があるんだ。ずっと、ずっと騙し続けてきた。お前には、私のかけた対象を友好的なものに映す術をかけている。その感情もまやかしのものだ。私の作った幻想、なのだ」
猫の小さな瞳は水滴が溢れ、瞬く間に枝垂れ墜ちる。
床に吸い込まれてゆく水滴には気が付かないふりをした。
「私はお前に、大輔に、嫌われたくない。術を解きたくない」
再び黙り出した猫の頭を撫でながら、大輔は明るい声で言った。
「初めて名前で呼んでくれたなぁ」
「大丈夫、俺は猫の事を嫌ったりしない。絶対に、絶対にしない」
「だから、お願いだ。本当の意味でお前を愛させてくれ。大切にさせてくれ。頼む」
だんだんと声には水分が混じり、嗚咽を漏らしながら猫の事を撫でる大輔の言葉を、猫は無下にすることが出来なった。
猫が何かを呟くと、暖かい風が大輔の体を包み込む。
その風が吹き止むと、猫は恐る恐ると言った様子で大輔の様子を眺めた。
変わってしまったらどうしようか、拒否されたら殺してしまわないだろうか。
猫のそんな杞憂もそこそこに、結果は何も変わることは無かった。
大輔の猫を想う気持ちに嘘偽りはなかったし、なんならばさらに深まったくらいである。
変わった事と言えば、大輔にも妖怪や精霊が見えるようになったことだった。
その後を気遣ったのか、面白がったのかわからないが、大輔宅へとやってきた白野によって渡されそうになった加護の印を、猫が鬼の形相で断り、自分とそろいの眼を大輔へと贈ったのだ。
眼というのも、何も眼球をやったというわけではなく、妖怪を、人ならざる者達の世界を覗き見る事の出来る力を、人間に与えた。
これは妖怪にとって最上級の加護であると同時に、深い親愛の印でもある。
妖怪共は上位の妖怪である猫、その愛し子である大輔にちょっかいをかけては、猫に追い払われその度にけたけたと楽しげに笑う。
好きな時に酒を飲み、好きな時に寝て、好きな時に遊ぶ。
まるで子供の考える大人のような生き方であった。
早朝と夕方、太陽と同時に細長い銀の龍が空へと飛び出し、夕刻になると真っ赤な鬣を生やした獅子が、地平線へと帰ってゆく。
草花たちは小さな精霊の住処であるし、河原で拾った白い石にも、二千年以上存在する石の神が住んでいらっしゃった。
川辺では河童が泳ぎ、近所の野良猫は猫又で。天狗が天狗風を吹き鳴らせば、沖の方では精霊が遊び、雨が上がった後は、その水滴の一つ一つから小さな水の精が生まれてくる。
一日、一日が生命に溢れているのだ。
なんて自由で美しく、なんて雄大な世界だろうか。
様々な妖怪がひっきりなしに訪れるようになった我が家で一人、毎晩寝る前にそんな事を想っている。
傍らには猫がいて、騒ぎ立てる妖怪たちがいて、気に食わないが自分に発破をかけてくれた白野がいる。
もういっそ人間の世界を捨て、猫たちと共に歩むことが出来たらどんなにいいか。
その度に、猫の幸福に寄って紡がれた縁を思い出すのだ。
猫の幸福によって巡り合った友、親切にしてくれる近所の人、その存在を捨ててまで、すべてを捧げる気にはどうしてもなれなかった。
いずれ、いずれ。ときが、寿命がきたら。そのときは猫に地獄に連れて行ってもらおう。
数十年後の未来を、大輔は楽しみに待っている。
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