第2話 春の話

 1

 満開の桜もだんだんと緑に色づいてくる花冷えの季節。街燈に照らされた灰色の町で、大輔は真新しいスーツに身を包んだ数人の若者とすれ違った。

 若干の疲労の色が顔に浮かんでいるようだが、どこか楽しげな笑い声をあげている彼らは、未だ背広に慣れていないのだろうか、どことなく動作がぎこちないように思える。

(うわ、若いな……)

 やけに楽しげに、今にも走りだしそうにも見える若者の姿。生気を纏ったその彼らを、眩しいものでも見たように、大輔はおもわず目を細めてしまった。

 彼らと同じ年頃の、数年前の自分はどうであったか。

 思い出そうとして、よろしくない思い出ばかりが浮かび上がる記憶にそっと蓋をする。

 四年制の大学を入学して早五年。今年二十八になる自分とたった数年しか歳が違わないはずだ。

 だというのに、自分は草臥れたスーツを着用し、見るからに生気がない姿をしている。

 この彼らとの違いは一体何なのだろうか。

 遠くになってしまった集団の姦しい声がやけに耳に入り、一度思ってしまった疑念と疑問の感情がなかなか消えない。

 冷たい思考の海に浸りそうな自分をあざ笑うように、ビルの間を吹き抜ける冷たい風が、底冷えするようなコンクリートたちを撫で上げて遥か上空まで飛び上がっていく。

 今日のように乱暴な風であるならば、ニュースで報道されていた時期よりも早く、桜の見ごろがおわってしまうかもしれない。

 花見など随分としていないし、する予定なども無かったが、数日しかない命の期限が更に短くなることが、少しだけ悲しいような気がする。

 いや、期間が定められたものだから、虫も人間も、その美しいモノに集まるのだろうか。

 何となくだが、美しいものは儚く散るものの例えに、桜が良く使われることの理由がわかったような気がした。

 ふと、吹きすさぶ風に冷たい水滴が混じって顔に当たった。

「予報は所詮、予報だなぁ……」

 街を行く周囲の人間も、ちらほらと傘を差し始めているようだった。

 嫌そうに顔をしかめながら、大輔はカバンの中に入れておいた折りたたみ傘を探す。

 が、どうにも見当たらない。

 しばらくして今朝方に会社のディスクへ置き去りにしてしまった事を思いだした。

 風はさらに強さを増している。

 この分では家に着く前には本格的に降り出し、スーツがダメになってしまうだろう。ただでさえ心身共に疲労困憊だというのに、その上体力を奪われそうな雨はまずい。

 仕方がないが、いったん会社に戻り傘を取ってきた方がよさそうである。

 大輔は踵を返し、来た道を引き返した。

 耳元で渦巻く風の音が、どこか胸騒ぎすら感じる気候の中、足早に戻る男の顔には、隠しきれない影が出ている。


 2

 今もなお喧騒が絶えず己の耳を犯している。

 街燈へと群がる蛾のように、騒音たちは己の走性がままに行動していて、たちまち集団となってどこかへと旅だって行った。

 遥か天上の星々は、ヒトが作り上げた偽造品により、本来輝く時分にあってもその姿を見せてはいない。

 如何せん、遮蔽物も人口灯も無い田舎であれば、その限りではないのだろう。  

 だがしかし此処○○市において、その姿を視界に納めたことは一度として無い。

 近隣の地域をもベッドタウンにする中心地であるのだから当たり前ともいえよう。

 そこから数駅ほど離れた己の居住区ですら、星はよく見えるものではない。ましてや昼夜を問わず明かりの消えない都会となると、星がはっきりと見えるわけがなかった。


 3

 すっかり明かりの落とされた暗く寒い社内。

 定時の勤務帯はすっかり過ぎてしまっている為に人の温度はない。

 ただただ寒い薄暗い廊下へと、人が居るのだろう部屋からはディスクの明かりと共に、話声が漏れ出ていた。

(残業だろうか、それにしても喧しいな……)

 そういえば同僚の誰かが業務が終わらず残業になりそうだとか、そんなことをやけに大きな声で喚いていたような気がする。

 だとするとその時に運もなく捕まってしまった誰かが、一緒にいて話が盛り上がっているのだろう。

 残業を嘆くのならば、話をせずにさっさと終わらせてしまえばいいのに。

 そのまま部屋に入るのもなんだか気が引けて、そこまで関りかかわりがあった人物でもないだろうが仕方がない。

 缶コーヒーでも持って行ってやろうと、エレベーター付近にある自動販売機まで戻ろうとした時、わっと笑い声が大きくなった。

(一体何の話題で盛り上がっているんだ……)

 終業後の社内に第三者がいるとは思わないのだろう。さらに笑い声と話声は大きくなっていく。

 その大声に思わず驚いて肩を上下させた大輔は、若干の苛立ちと共に、ほんの少しの罪悪感はあったが、扉を少しばかり開いて中の会話を盗み聞いた。

 楽し気な様子に、一体何の話題でそこまで盛り上がれるのかと、そう思った矢先、思わぬ言葉が大輔の耳に飛び込んできた。

「やっぱりそう思う? だよな、ほんと面白くねぇ奴だよな」

 聞くからに醜悪そうな、嫌らしい声で喚いているのは、同じ部の高橋という男であった。

 同じ年から入社したが、奴は院を出ているらしく自分よりも年上だと聞いた。

 同期として自分も一様砕けた口調で話してはいるが、己よりも年下の者がそう話すのを嫌っているらしい。自分と話をした後に、見るからに機嫌が悪くなる為、大輔もまたその高橋を言う男を嫌ってはいた。

(うわ、よりにもよってあいつかよ……)

 あれが話題に出して盛り上がっているもの。大体話の内容が分かった。大方自分の陰口でも、同じく自分を嫌っている連中としているのだろう。

 よくもまあ他人の事でそう盛り上がれるものだ。

 一気に入りづらくなった室内。

 内心深いため息をつきながら大輔は高橋と会話をしている者を認識し、途端息が詰まった。

(は……?)

「少し仲よくしてやるだけで、仕事をほいほい押し付ける事が出来る点では便利な奴なんだけどな」

 下品に笑いながらそう答えた声は、紛れもない友人、山崎の声であった。

 大輔にとって数少ない社内での大切な友人。

 学生時代の友人達とは連絡を取らなくなった今となっては、唯一といってもいい程、大輔とかかわりのある人物であった。

 大輔がその場にいるとは思わず、二人の話は弾んでいく。

「しっかしまぁ、あんな頭が固そうなやつと仲良くしているから、大分物好きな奴だとは思っていたけど、お前大分性格悪いなぁ」

「いやいや優しい奴の間違いでしょ? あれと仲良くしてやっているんだぞ?」

 にやにやと厭らしそうな、楽しげな声は大輔の脳を犯していく。

 手足が冷たく痺れ始め体中が寒さを訴えている。

「今回のこの仕事も、元々あの愚図に割り振られた奴だっていうじゃねぇか。それを俺に回しやがったんだぞ?」

「いい顔するのもいちいち疲れるわ」

「ほんとあれと友達やってるお前もすごいよな」

「な、我ながらそう思う。友達料金払ってほしいぐらい」

 ぎゃはは、と響く下品な笑い声。会話内容だけならば、仲の良い高校生かとも思う程の、なんとも低俗な会話。

 自分と一緒の時は出さないような、心底楽し気な声に、生き生きとしたその笑い声に、自分の友人は、山崎は本当に自分の事を鬱陶しく思っているのだという事を理解してしまった。

(どうせ仕事も大した出来ねぇくせに、回してやっただけありがたいと思えよ……!)

 ドロドロと大輔の胸の内に巣くう怒りは、後悔か、はたまた羞恥心か。

 自分の目的を思い出したのは、社外に出た数分後、パラパラと降ってきた雨に浴びてからであった。


 4

 段々と強くなる冷たい雨の降る中。

 街燈も人通りも少ない細い路地を、大輔はどんよりとした面持ちで歩いていた。

 時刻は午後九時過ぎ。

 すっかり遅い時間になってしまった住宅街は、大輔の他には車が数台通り過ぎるだけであり、風に吹かれコンクリートに打ち付けられる雨の音が良く響いている。

 友人に裏切られた彼は、心底気が落ちていた。

(あそこで殴り掛からなかっただけ大人に成ったのか……)

 会社を出たのち、やはりというか、思っていた以上に雨に降られながら電車に飛び乗った大輔は、雨でぬれたスーツが椅子を汚さぬように、入口付近の釣り革へ掴まった。

 そうして大分雨が落ち着いた最寄り駅で降りたのち、何もない場所でこける。

 前を歩いていた高校生であろう。真面目そうな気質の少女が勢いよく振り返るくらいには、盛大なこけ方であったことを明記しておく。

 周囲の人間に心配の声を掛けられながら、軽く頭を下げて立ち去った大輔へと小さな笑い声が聞こえたのは、空耳だったのだろうか。

(あんなこけ方をしたら、思わず笑ってしまうのもわかる。実際自分も笑うと思うし、あの人たちに他意はない……)

 そう思う大輔の心とは裏腹に、先ほどの友人の声が、自分をあざ笑う声が、再び脳を刺激した。

 人々の視線が、どうしても意味の含んだものに思えて仕方がなかったのだ。

 その為であろう、普段は通らない人通りの少ない道をわざわざ遠回りして帰る事にした。

 小雨であった雨脚は徐々に強くなっていき、だんだんと風の音も目立つようになっている。

 さらに雨脚は激しいものへと変化していった。

(これは帰ったら早く風呂に入らねぇと、完璧に風邪ひくな……)

 カバンを胸に抱き、足早に通り過ぎようとした街燈の下に何かが視界に入った。

 木製のキーホルダーのような、小さなものが落ちている。

 それを目にした途端、なぜか早く帰らねばという気はだんだんと萎んでいき、大輔は立ち止まってその落ちていたものを拾い上げた。

 よく見るとそれは、生前の祖父が着物を着る時によくつけていた、根付と呼ばれるものに似ているような気がする。

 猫の形に掘られた根付は大分精工に出来ているようで、細かい毛のディティールなども、素人目に見ても美しいものであった。

 途端なぜか無性にこの根付を持って帰らねばならないという気が、大輔の中で大きくなる。

 この根付を大切にしなければ。

 そう思った大輔はカバンからしわくちゃになったハンカチを取り出し、優しく根付をくるむとそっとカバンの中に入れた。

 一刻も早く雨の当たらない所へと向かうべく、コンクリ―トに跳ね返る雨をものともせず、勢いよく自宅へと駆け出した。

 5

「やっぱり人間はクソ。もう昼飯もおごってやんねぇし、つらそうな仕事も手伝わねぇ!」

 晩酌の缶ビールを傾けながら、会社で行われていた自分の悪口大会を思い出し、頭を掻きむしりながら大輔は叫んだ。

 雨の中を年甲斐もなく走った為であろうか、家にたどり着いた時には体が以上に重かった。

 今は濡れた体をシャワーで温め、冷蔵庫に並んでいた酒とつまみを片手に、大輔はメンタルの回復をはかっている最中である。

「大体こっちから仲良くしてほしいとか言った覚えも無いし、自分が仕事できるなんておもってもねーよ。勘違いしていきがるな!」

 酒の勢いなのか、ずいぶんと大きな声が出てしまったが、それを自分でとめるだけの理性が、その時の大輔には存在していなかった。

「大体なんだ! 高橋に至っては自業自得じゃねぇか。てめぇが仕事出来ねぇからって増えた分を俺のせいにするんじゃねーよ! ほんとくそ。天罰当たれ。今日の雨に降られて風邪ひけ!」

 大分低下した脳内指数で、堪えていた鬱憤を生成し続ける。

 ハンガーにかかったスーツが、申し訳なさそうにこちらを眺めていた。傘さえあれば犠牲にはならなかったその姿は、どこか哀愁さえも感じさせる。

 頭に浮かぶ単語を、壊れた機械のように吐き出していた大輔だったが、ふとその濡れたもの達を見て思い出したものがあった。

「そういえば拾ったな、雨ん中」

 スーツを乾かすときにカバンの表面はさっとタオルで拭きとったが、どうやら中まで浸水していたらしく、内側が少しばかり変色している。

「あー、こりゃもう買い替え時か?」

 元々就職の際に急ごしらえで買ったもので、そこまで高い物でもない。

 重要な書類とかを入れていなくてよかった。五年も持てばいい方なのではないかと、そんなことを口に出しながら中身を取り出していく。

 バックの中から濡れたハンカチを取り出し洗濯機に放り込む。もう夜も遅い、回すのは明日の朝にしよう。

 リビングへと戻った大輔はテーブルの上の物を端に寄せ、拾った根付を置いてまじまじと観察した。

「本当によくできたやつだな」

 あー高そ。そんな事を口に出しながら根付を明かりにかざした。

 手にもって見ると大きさの割に随分と重いように思える。これが値段の重みか、などとふざけたことを想いながら、表面を撫で上げると古いものの割に随分とツルツルとしている。

 繋がっている赤い紐も、見た事のないような編み方をされていて、よく見るありふれた量産品とは一線を画していることがありありとわかった。

 暗がりで見るよりもこうして明るい所でしっかりと見ると、更にその精工さが良く分かるようだった。

 ずいぶんと雨に濡れてしまったからか、木が変色してしまっていて、今にもそこから朽ちていきそうな、そんな退廃的な雰囲気さえ感じられる。

 だというのに小さな根付からは、なぜだか重厚感がひしひしと漂ってくるようだった。

 雨に濡れただけで、酷く汚れている様子もない。

 大方、金持ちなんかが落としたのだろうか。これを届け出たらそれなりに感謝されるかもしれない。

「いや、下手に名乗り出たら出たで、もっと面倒くさくなるかもしれない」

 もしも持ち主が現れたとして、感謝されるとは限らない。

 会社で見聞きした出来事が心底心に来たのであろう。

 大輔はひねくれてしまった脳で、難癖をつけられる前にその拾った状況を保存してやろう、という気になった。

 携帯のカメラで根付を写すと、何となくそれが薄ぼやけて見える気がして、思わず眼をこすって、もう一度スマホを眺める。

 写真に写っているのは目の前にある根付に違いない。

「あああー……疲れてんのかな、俺」

 しゃがれた声をのどから震わせ、スマホの電源を落とした大輔は、寝ようと部屋の明かりを消す前。

 もう一度テーブルに置いてある根付を見やった。

 本当によくできている猫である。

 見れば見るほど、ずっと見ていたい気持ちに襲われる心に、どこか大輔が不安に思い始めた時、部屋に備え付けられた掛け時計が、十二時を知らせる音を響かせた。

「もうこんな時間か」

 ひどく大きく聞こえる音に心を惑わされながら、何となく不思議な気分を吹き飛ばす為、わざとらしく呟いた。

 今度こそ部屋の明かりを消した大輔は、布団にくるまるやいなや、数分もしないうちに寝息を立て始めた。

 その様子を眺める一対の瞳が、部屋の中で怪しく光り出している事を、大輔は知る由も無かった。


 6

 雨が上がった後の、ぬるっとした独特の空気感の中。

 分厚い雲に覆われた月の出ない夜に、黒い服装に身を包んだ、背の高いひょろりとした人間。

 物語に出てくる忍者のように、家々の屋根を飛び回りながら、何かを探している。

 しばらくの間そうやって飛び回っていたが、ふと飛び回るのをやめると、じっと一つのアパートを見つめたのち、何かに気が付いたようにそれを凝視し始める。

 その対象からは目をそらさぬまま、腰の脇のポシェットのようなものから、何かの機械のようなものを手に取ると、何かを呟いたのち会話を開始した。

「こちら夜。対象を発見した」

 機械のような、体温を感じさせない、鋭い声であった。

 何か機械が軽快な音を立てたかと思うと、喜びを隠しきれていない機械の向こう側は、跳ねるように夜といった男を祝す。

『こちら朝! そうか! よくやってくれた』

 夜と呼ばれた男は、先ほどの機械のような硬質な声をほどき、能面のような表情も若干緩めた。

 だがしかし、苛立ちを隠し切れない声で、朝に対し懺悔するよう言い募る。

「いや、なんもよくない。元の姿に戻ったところを民間人に拾われている。相手に人質が出来てしまった。もっと早く確保できていれば」

 すまない、あさ。

 心底悔しそうな夜を慰めるように、労いの声を掛けながら、引きつづき対象の観察をすることを命令する声の主。

「夜、了解」

 その声掛けののち、機械から音が帰ってくることは無く、先ほど取り出した所へと、機械を戻した。

 声を荒げた感情を消して、務めて冷静になるように、任務の為に、人の為に、そして何より朝の為に。

 自分の身を、一つの刃へと変化さえ、自分の心も己が忠心を捧げる朝の為に、影へと夜は身をやつした。

 薄い殺気を身に纏いながら、夜はただじっと、対象と評したそれを観察するのだった。


 7

「おっはよう!」

 衝撃の事実を聞いてしまった夜から一夜明け、会社で出会った山崎はいつもと変わらない様子で大輔に声を掛けてきた。

 本当はぶん殴りたい気持ちを何とか沈め、二本目が当たった缶コーヒーをポケットに詰めようとしていた所、一瞬出来た間を驚いた風を装って、平然とした様子であいさつを返した。

「おはよう……」

「あれ、テンション低くないか? あぁ、雨で風邪でも引いたんだろ。まったく傘ぐらいもって来いよな」

 お前のせいだよ。馬鹿野郎。

 そう言ってやりたい気持ちをぐっと抑え込み、そうかもしれないな、などと、とりあえず同調しておく。

 立ち去ろうとした所、あぁしまった。などと芝居がかかった声で、友人だった目の前の人間が悲しそうにいてくる。

 無視するわけにもいかず、心優しい俺は仕方なくだが話しかけてやった。

「いや、コーヒーを買いに来たんだけど、席を立つ時に財布を持ってくるのを忘れてしまって……。もう一度戻らないといけないのが面倒くさいな、と思ってな」

 やや芝居がかかったような言動である。

 今までの自分であったなら、そのような白々しい嘘でも信じてしまっていたかもしれない。

 なんせ、目の前の男を普通にいい奴だと思っていたからだ。

 だがしかし、今思えば今までの友人らしい言動も、どこか嘘くさいというか、何というか。

 そう思うとだんだんと腹が立ってくる。

 正直今の自分には、目の前の男に優しくしてやる義理は到底無い。無いのだが、人目の多い所で断るのも外聞が悪い。

「……良ければこれやるよ。丁度二本当たったんだ」

「良いのか! 悪いな、後から買って返すよ」

 そういえば、奴がそう言って返しをもらった事はてんで無かった。

 なぜ自分はこんな男を友人だと思っていたのだろう。今思えば疑問に残る事しかない。

 だんだんと剥れていく友人というめっきに、冷たくなればなるほど冴え渡る脳内は、自分の薄情さを物語っているように感じて、どこか悲しかった。

 8

 そのジュースの件があってからというもの、どことなく友人の事を避けていた大輔だったが、なぜかそれに追従するように、彼らに不幸が振ってかかっているようだった。

 階段で転んだり、急いでいる時こそエレベーターが来るまでに時間がかかったり、トイレが混んでいたり、何もない所で滑って書類をぶちまけたりと、自分が遭遇しただけでこんなにもなる。

 彼らも纏う雰囲気がどことなくやつれているようだった。

 それを気に食わないのか、高橋が難癖をつけてくることが多くなった。

 それだけならばいつもの事なのだが、その日はどうも勝手が違う。

 仮にも仲良くしていた山崎も一緒になって、それも人が多い昼時の食堂で話しかけてきた。

「岡本、俺らになんかしてるだろ。じゃなきゃこんな事ばっかり起きねぇよな」

 なぜか上から目線で、自分が優位に立っていると思い込んでいる高橋が、うるさく音を立てて目の前の席に座った。

 呆れて声も出なかっただけなのが、相手の阿呆はそれを自分がビビっていると勘違いしたのか、いい顔になってはなしを続けている。

「どうせ陰気なお前の事だから、呪いとかなんか、そんなつまんねぇ、なよなよした事でもしてるんだろ」

 呪いをなよなよと表現しているが、その論調だと呪いを信じていることになるが、彼はそれで大丈夫なのだろうか。

 思わず固まる俺を見て、後ろでそれを眺めていた山崎は、ゆっくりと俺の隣に腰を下ろすと、なれなれしく肩を組んで話しかけてくる。

 正直息が臭くて離れてほしかったが、優しい俺は我慢してやった。

「前にお前からもらったコーヒー飲んだ後に、おれ、腹下したんだよね。信じたくないけどさ、あれもお前がやったんだろ?」

 だからどうして、こうも阿呆ばかりなのだろうか。

 その場で当たったコーヒーに何かを仕込めると思っているのだろうか、この阿呆共は。

 こればっかりはなぞであったので、それとなく山崎に伝えると、顔を真っ赤にして罵ってくる。

 顔が近いし、汚い唾が飛んでくるのが本気で嫌になってきたので、離れるように言ったのだが、何を思ったのか、自分の言動が生意気だという話になった。

 高橋はともかく、山崎はここまで頭の悪い奴では無かった。

 今まで友人関係を築いてきた者に対して、いきなり敵対関係を示唆するような言動をとっては、自分が周りから白い目で見られるようになると思わなかったのだろうか。

 一体全体どうしたというのだろう。

 困ったさんを相手にしている自分が、大分可哀そうなものに、周囲の人間には映ったのだろう。

 どこぞの誰かが上司を呼びに行ったのか、運が良かったのか、自分たちの部署の上役殿が、その場を収めてくれた。

 そのまま自分は帰宅してもいい事になり、ブラック気味のわが社では珍しい事に、早上がりというものをさせてもらえた。

 いつもは持ち歩いていないエコバックを、偶然カバンに入れておいた日。

 終業時間の通りに上がることが出来たなら買い物をして行こうと考えていたが、早上がりになるのは運が良かった。

 立ち寄ったスーパーでは、値引きになる時間帯よりも早いというのに惣菜が安く買えたし、何かのセールの最中であったか、次の会計が安くなる券ももらうことが出来た。

 何やらとても運がいい。

 己の運がいい、などと思ったことなどない人生を歩いてきた自分であったから、これにはとても驚いた。だがどうにも気になることが一点。

 山崎の知能指数が下がったのは本当になぜなのだろうか。

 そんなことを考えながら家へと帰る道中。

 人に溢れる商店街を大分久しぶりに歩いていると、精肉店から食欲を刺激する、なんとも言えないいい匂いが漂ってきた。

 大方自分と会話をしなくなり、高橋と話をする間に低能でも移ったのだろう。

 コロッケの香りにより些細な疑問など吹き飛んだ。

 面倒くさい事を考えることもそこそこに、学生ぶりにコロッケを頬張って歩いた。コロッケはもちろん美味である。

 先ほど買ったコロッケは、女将の気が良かったのか、もう一つおまけをもらうことが出来た。

 それは本日のおかずに付け加えよう。

 頬張ったコロッケが包まれていた紙を畳み、近くに偶然会ったゴミ箱の中に包み紙を放る。

 いいことばかり起こっているが、何か大きな悪い事の前兆なのだろうか。それとも、友人がゼロになった事の、何者かからのエールだろうか。

 神様なんて偶像を信じるよりは、目に見えるアイドルでも拝んだ方がマシだと考える自分である。

 ひねくれているのは分かっているが、神がもしいるのならば、自分がこうなる前に助けてくれよ。

 やけにきれいに見える夕焼けを横目に、ぼんやりとそんなことを考える。

(友人だったとはいえ、あれと縁が楽に切れそうなのは、どう考えてもいい事だよなぁ)

 真っ赤に染まる夕焼けをバックに、大輔は部屋の鍵を開け、仲へ体を滑り込ませた。

 閉まる扉の鍵がやけに、がちゃんと大きな音を立ててしまった気がした。

 9

 翌日の昼間、社内で揉め事を起こしたとして、高橋と山崎は、社員食堂へ姿を見せなかった。

 朝の時点で自尊心の高い高橋が、俺に声を掛けて来なかったくらいには、上からしっかりと絞られたらしい。

 それと同時に、大輔は周りから大分同情的にみられていたことを知った。それを知ってどう、という事は無かったが幾分か気が楽になったようだった。

 大分混雑した昼の時間帯の食堂は、知り合いの少ない自分にとっては、相席を申し出る勇気も出なければ、知り合いを頼ることも出来ない。

 友人が友人で無くなって困ることが、もうすでに出てきてしまったのが、なんとも腹立たしい。

 座ることも出来ず、どうしたものかとトレーを手に立ち尽くして、席が空くのを待っていると、どこかの部署の知らない誰かが、自分の方を見て手招きしている。

 どうせ自分の近くの誰かを呼んでいるのだろうと、それに構わず立っていると、しびれを切らせたのかその人が立ち上がり、自分の名を呼んだ。

 もしやとおもって近づいてみたが、やはり自分を呼んでいたようで多少なりとも面喰った。

 四人掛けのテーブルで食べていた彼らの元へ行くと、昨日食堂で騒ぎを見ていたのだという。

 助けてやれずに済まなかったと謝る彼らに、若干の疑問を抱きながら、何か当たり障りない事を答えた気がするが、それ以降は会話らしい会話をする事は無かった。

 そして先に食べ始めていた彼らが先に席を立つ形で、突如発生したイベントは終了した。

 それ以降もひっきりなしに人は入ってくるのだが、自分の座っている席に近づく者はない。

 一人で四人掛けを使っている事に申し訳なさを思え始めた時、ふらふらとトレーを片手にさまよっている人を見かけた。

 大分顔が良い男らしく女性陣が色めきだっているが、どうも見慣れない顔で、そういえば新しく社外の人間が入るとか、どうとか、お知らせがあったような気がする。

 頭の隅からひねり出した内容はどうも薄っぺらく、多分あの人物がお知らせのあった人なのだなというくらいにしか感想を抱かなかったのだが、そうも言っていられなくなった。

「すみません、相席よろしいですか?」

 突如かけられた声にびっくりして顔をあげると、思ったよりも近い位置にきれいな顔があった。

「あ、はい、どうぞ」

 大分至近距離にあった顔に驚き思わずのぞけると、あちらも同じような事をしていて、思わず笑ってしまった。

 男は恥ずかしそうに顔を赤らめると、一つ咳払いをして対面の椅子に座る。その姿も様になっているのだから、美形というものは羨ましいものだ。

「すいません、こんなに混んでいるとは思ってもいなくて……」

 申し訳なさそうに眉を下げる前の人物に、逆にこちらが申し訳なくなり、慌ててフォローを入れた。

「社外の方が使われるのですから、把握していなくても仕方がないかと。くわしく説明されていれば自分で昼を持ってくるという選択肢もありますし、説明をしたわが社の社員が不親切でした」

 申し訳ありません、と頭を下げる自分に対し慌て顔を上げせようとする美形。

 美形が頭を下げる前に顔を上げ食事を促すと、少し不満げな顔をさせながら、まだ湯気のたっているそれを口へと運んだ。

 それが思っていた以上の食のクオリティだったのだろう。その美貌を綻ばせながら、おいしそうに食事をほおばっている。

 自分も引き続き食事を再開することにした。

 間に会話は無かったが、とても息のしやすい空間である。美形は所作まで美しいのだろう。

 丁度食べ終わったタイミングで、美人の方の食事も終わったらしい。そろえたわけでもないのに合わさった食後の挨拶がどうも面白く、顔を見合わせてお互いに笑い合った。

「大分食べるのが早いのですね」

 嫌味のようになってしまった言葉に、内心しまったと思ったが、美人は気に留めるような様子もなく、にこにことしながら食事の感想を伝えてきた。

 おいしいとは聞いていて、一度は食べてみたいと思っていたが、こんなにおいしいとは思ってもいなかった。

 そう笑う目の前の人は、傾国のようにも、幼い子供のようにも見えた。

「お名前もお聞きせずに、長々と話をしてしまって申し訳ありません」

 それからも、自分にしては友好的に、楽しく話をしていたが、そういえば彼の人物がどんな人間なのか、名前すら知らない事に気が付く。

 食べ終えた後は出来るだけ早く席を立つべし、という混みやすい食堂においての暗黙の了解があったのだが、自分にしては珍しく初対面の人物と話が弾んだこと、昨日の事件も相まって、周りからの視線も大して気にならなかった。

 その為にずいぶんと長い間会話をしたように思える。

「改めまして、岡本大輔と申します」

 思えば、このように自己紹介をするというのもひさしぶりだろう。

 いつものお偉いさんや取引先の人なんかとは違う、話しやすい空気みたいな、そんなもんを目の前の人から感じるからなのかもしれない。

 友達同士みたいな、そんな空気感は本当に久しぶりだった。

「東雲暁人と申します。あの、よろしければなのですが」

 東雲というらしい美人は、いったん言葉を切ってから、意を決したように言葉を継いだ。

「明日の昼もまた、ご一緒してもよろしいでしょうか」

 思ってもいない言葉が東雲の口から発せられた。

「え、」

 思わず固まる俺に、慌てて訂正を入れる彼は、正坦な顔を若干赤く染めながら言い訳をする子供の様に、早口に言い募る。

「いや、時間を指定するとか、約束をするとかではないのですが、時間が被ったら一緒の席で食べたいな、なんて……」

 苦笑しながら、恥ずかしそうにそういう目の前の彼の、だんだんと小さくなる言葉に、聞いている自分も恥ずかしくなってくる。

 残っていたお茶を煽るように飲み干して、俺の返答を待っている彼は、なんだろうか、恥ずかしがっているはずなのに、自分の頼みを断るはずがないという風な、堂に入った様子に、顔のいい奴の言動だ、俺は若干感心してしまった。

「そんな感じなら、まぁ、いいですよ」

 花がほころぶように、心底うれしいというような笑みを浮かべた彼は、一緒にご飯を食べる仲になるのだから敬語は無くていい、と先ほどまでの印象とはまた違った格好で言った。

 先ほどまでは堂々とした様子だった彼が、自分の言動一つでこうまで変わるのかと、変な好奇心も抱きつつ、万年平社員で友人に騙されていたような男、俺、本大輔は、正坦な顔でモデルとでもいわれた方が納得する美貌の友人を手に入れたのだ。

 あいにく人間関係に苦労した事しかない俺だが、なぜかこの出会いは良いものになるような、そんな気がしてならない。

 これも最近続く謎のいいことなのだと思うと、少しばかり自分の事を信じられるような気がした。


 10

 突如現れたものすごい美人、東雲と食事をしたのち、いい友人に慣れそうな気配を感じた日の晩。

 大輔が自宅へと帰宅すると、部屋の明かりがついており、中からは何かが動いているような気配がする。

 もしや泥棒か。

 とも思い、若干腰を引きつつドアを開けようとすると、不思議なことにカギはかかったままであった。

(しまった、電気を消し忘れたのか?)

 一日中ついていたのであろう明かりに、平社員の安月給から引かれる電気代を想いながら、バックからカギを取り出し鍵穴を回した。

 扉を開け中に入ると暖房もついているのか、ファンが回る時特有の機械音が聞こえてくる気がした。

 朝自分は暖房をつけていないはずだから、どうしてもつくはずの無いその音。ただ事ではない事が起こっている。

 思い切ってさらに奥の扉を開けると、テーブルの上に見知らぬ三毛猫がくつろいだように丸まっていた。

 思ってもみなかった事態に、大輔が事情を呑み込めないままでいると、ようやく帰ってきた家主の帰宅に気が付いたのであろう。

 三毛猫が固まったままでいる大輔の方へ向き直り、きちんと前足をそろえて座るとにこやかに話し始めた。

「家主殿。よくぞ帰られた」

 見た目からは想像し得ないほど、なんとも言えないようないい声で話始めた猫に、しばらくの間、混乱につぐ混乱で固まっていた大輔の心身は、一気に活動を開始し始めた。

「は! 猫? 猫ってしゃべるのか? え、なんで猫?」

 ずっと猫、猫? と呟く大輔を知ってか知らずか、猫は「いかにも、猫だ」と、これまたにっこりと笑みを浮かべる。

 猫の表情筋でにっこり、などとは大分特殊な様相になるかと思いきや、これまた可愛らしい。

 猫は急に真剣な顔になると、その金色のように見えるきれいな瞳で大輔をじっ、と見つめたかと思うと、しんみりとした声で話を始めた。

(いや、テンションのふり幅がおかしい! それに猫! しゃべっているよな!)

 未だに混乱したままの大輔であったが、猫の神妙な様子に思わず正座をし、背筋を伸ばして聞き入った。

 部屋の中のファンはまだ回っている。

 引っ越した時に買った一人用の冷蔵庫も、いつものようにうるさく唸り声をあげ、換気扇の回る音もいつものようにうるさい。やけにうるさい家電がこの家には多い。

 いつもと違うのはただ一つ、部屋の中心のテーブルの上に、なぜか猫が座っている。それもしゃべる特殊な猫がということだけだった。

「私はあなた様に助けられた猫の根付。それに付いている付喪神でございます」

 根付。そういわれてはたと思い出す。そういえばそんなものを拾った。

 最近起こる良い事ばかりに、その元凶となった二人が関連するあの夜の事を、すっかりと記憶上からはじきだしていたようだった。

「付喪神って、神? じゃあ俺は、神様を拾ったのか?」

 付喪神という、聞きなれない言葉に大輔はおもわず聞き返した。

「俺が拾ったのは只の根付だぞ」

 その言葉に、自分に対し驚いてばかりだった大輔が、聞き返してくれたのがうれしいというように、大げさな身振り手振りで説明を語り出した。

「付喪神とは、九十九の年月を生き、自我が宿ったモノの事を指して使われる言葉。付喪神とは呼ばれまするが、実際には神の末席においていただいている、妖怪の一種であるな」

 どこか自嘲するような猫は、一転明るく大輔への感謝を述べ始めた。

「あの月の出ていない晩、雨に降られる私を助けて頂いたこと、誠に感謝する」

 困惑に次ぐ困惑。ほぼほぼ理解が及ばなかった大輔であるが、どうやら拾った猫の根付が彼の正体なのらしい。

 今は付喪神の力を使って、このように猫の実態をまねてはいるが、これも少量の力を使うことになるから、雨に濡れて弱っているからだには大分辛い事らしい。

 ぶしつけではあるが、体が治るまでこの家においてほしいという猫に対し、大輔はどうにも面倒ごとの気を感じながら、断る気も起きず、猫の事を保護すると約束してしまった。

(案外自分もちょろいな……)

 元より動物が嫌いではない大輔は、猫の魅了に早くも取り付かれたか、猫の事を受け入れた。

 妖怪ゆえに食べ物を食べることが出来るという猫の為、空腹だと腹を鳴かせる猫の為、貯蔵してあった鯖缶をほぐしてやり、皿を固定して食べやすいようにして出してやった。

 本当に腹が空いていたのだろう、始めは申し訳なさそうな顔をしていた猫だったが、一口食べ始めるとがっついたように勢いよく顔を皿の中に突っ込んでいき、ものすごい勢いで食べ終わってしまった。

(ああー……動物カワイイ……)

 ぐるぐると喉を鳴らす猫を撫でてやり、就寝の為明かりを消して布団に入った。

 散々起こる良い事の先に待っていた終着点が、夢のようなことだとは思いもよらなかった。

 大輔は幸せそうな顔をして、ここ最近で一番の寝つきを発揮する。

 ものの数秒で寝てしまった大輔を確認すると、猫は先ほどまで愛想を良くしていた人相、猫相? を崩し深いため息をつくと、先ほど大輔が撫でた部分の毛づくろいを始めた。

 人間に触れられた部分が汚いというように、自分の毛を整える姿は先ほどの人なれしていた様子からは考えられないほどの変わりようである。

 それもそのはず、変わっているように猫がその不思議な力をもって、大輔に、人間に見せていたのだ。

 猫が使っていたのは自分の事を友好的に可愛らしく見える術と、異端である自分を受け入れる術。

 猫が人間社会に溶け込んで生きていく上で編み出した、猫の生き様のような技であった。

「ああ、人間なんかが触ってくれよって、まぁ」

 なんとも堂に入った悪態をつく猫は、すっかり寝入ってしまった家主に恨めしいような視線を送ると、窓近くに飛び上がる。

 何かを探すように遠くを見あげると、にやっと口角を厭らしく上げて、その鋭い牙をのぞかせた。

「祓い師共に見つかったのは大きいが、人質が出来たのはより大きい」

 猫の瞳が金色から真っ赤な深紅に染まる。

 その様子を空に浮かぶ大きな月だけが見ていた。

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