第45話 別れ

 不意に、影が大地を走った。

 小夜は影に顔をあげた。空を堂々と駆ける主に大きく目を見開く。大地に影を落とし、空を制し、全ての生物の長として君臨するもの――龍だ。


 水晶の鱗が陽に当たりキラキラと煌めいている。美しいその羽を広げ、脚で慎重に屋根に止まった。その瞳は美しい黒だ。

「な、何物じゃ!?」

「化け物よ、また現れたんだわ!」

 復興途中だった村に悲鳴が広がる。だけど小夜は信じられない夢心地でその龍に近付いていった。

「……とう、や、なの?」

 龍は小夜をまっすぐに見下ろしている。村は静寂に包まれた。と言うよりも信じられずに龍を見ているのだ。

「ねえ、透弥なの!? 聞こえてる!? 透弥なんだよね!?」

 龍は、答えない。

 だけどいつものようにまっすぐと真摯に小夜を見下ろしている。

「透弥ッ……なんでよ、どうしてなにも答えてくれないの……」

 涙が零れ落ちる。龍はただそこにあるだけだ。誰もが龍と小夜を見ている。

「……約束したじゃない。帰ってきてくれるって。なのになんでよ」

 その時だった。


 不意に小夜の前には小夜の大好きな透弥が立っていた。血に濡れて身体もボロボロな透弥。剣は下げていないけれども、それは確かに彼で。

「透弥っ……!!」

 帰ってきてくれたのね、という言葉は出なかった。申し訳なさそうに彼は目を伏せる。


 それで、全てを悟ってしまった。

「……ごめんな、小夜」

 彼の声は誰よりも優しかった。頬に触れた手は優しく。暖かく。触れた頬もまた優しく。

「…………約束、守れなくて」


 現実に突き飛ばされる。

 小夜の頬を涙が濡らしていた。

 ああ――アア――ああ……!!

 彼は、もう二度と帰らない。

「……帰らないんだね。帰ってきてくれは、しないんだね?」

 龍は靡かないし、媚びない。生命の頂点にいるから。だから謝りに来てくれたのは透弥の意識なのだ。彼が、謝りに来てくれたのだ。

「っ、バカ! きちんと帰ってきなさいって言ったじゃない! できもしない約束を交わさないでよ! バカ! バカ! ばか透弥……だって、私、貴方のことを」

 溢れた涙は頬を濡らす。けれども、何度濡らしても愛しい人は帰ってこない。あの人は龍になった。多分きっと、なにか凄い決断をしたのだろう。


 お人好しと言えば聞こえがいいけれど。誰かを見捨てきれないような人だった。そんな彼の旅は過酷だったに違いない。

 例えば、世界を救うとか。

 優しくて、優しくて、いっそそんなもの見捨ててしまえばいいのにと思ったのに。それでも見捨てなかった。


 不意にどこからか龍がもう一匹現れた。まるで透弥に早く行くぞと言うようにその隣に座る。透弥はひとつ頷いた。


 嘶き。

 それはまるで草笛のような声。そして旋風が舞う。羽ばたきながら緩やかに上昇していく彼に小夜は思わず走り出した。

「待って、行かないで! まだなにも言えてない! と言うか行かなくたっていいじゃない! どうしていくの!? ねぇ!」

 約束を守れなくてごめんとか、そんな言葉で片さないで。自分だって貴方を好きだったんだ。この村に貴方が戻る日を待っていたんだ。


 それなのに、それなのに……!!

 行ってしまうと、言うのか。

「透弥、透弥っ……とうやぁあああ!!」

 村の外。一番高い崖の上で小夜は叫んだ。龍は振り返らずにただまっすぐと地平線を目指して飛んでいく。


 ――嗚呼。

 愛しいあの人は龍になった。

 もう、戻ることはない。


 この世界は、美しい。

 この未来は、美しい。

 そうか。彼が守りたかったのは、この世界なのだろうか。だとしたらやっぱり大バカだ。背負いきれないものを背負って、彼は行ってしまったのだから。


 龍は影を落とす。

 大地に影を落とす。そして水晶を振り撒きながら風になる。


 砂漠の都で降り注いだ水晶は、貧しい子供たちに分け与えられた。誰もがその恵みに感謝をして涙を溢した。


 エルフの森にも水晶は落ちた。シルフィーリアはそれで、長き因縁が哀しい形で幕を閉じたのだと理解した。


 アマル=ダガンにも水晶は降った。なんだか分からないけど彼らは楽しくなって、もうすぐ幸福がやって来ると信じられた。


 津の国にも水晶は降った。その事実の悲しみに皇帝は膝から崩れた。民の誰もが、あの優しく慈悲深い旅人の死を悼んだ。


 流里にも水晶は与えられた。彼らは水晶を手にとって天からの恵みだと歓喜した。その中の一人だけがひっそりと、自分達が傷つけたあの優しい人を思い出した。


 都のあるところで牢に入れられていた少女の手にも、水晶は降り注いだ。彼女は振り向く。虹色の龍が飛び去っていくところだった。それはもうすぐ手の届きそうな。


 全ての人に等しく水晶は分け与えられた。

 悲しみも、喜びも、愛しさも、全て人々に分け与えながら彼は去っていった。


 一切合切全てを分け与えてくれたあの人は、もう人の前には現れない。


 と、言うわけで。

 話はここで終わりだ。だけれども、もう少しだけ、この話の終わりを話しておこうと思う。いわゆる蛇足というわけだが許されるだろう。

 別に大したことではない。彼と共に旅をしたそれぞれがどのような道を辿ったのか、その顛末を記すものとする。


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