第38話 ロベルト

 実に幸福な日々だった。

 そのように、勇者ロベルトは記憶している。


 幼馴染みで皇女だった彼女と恋仲になり、自分は彼女と釣り合おうと騎士に立候補して……そしてある日、勇者の剣であるフレアに選ばれた。


 初めのうちは戸惑っていた。

 世界を救うなんて自分には過ぎたことだし、そんな大それたこと、できるだろうか。きっとできないに違いない。そんな甘くて優しい考え。

 それはすぐに否定された。

 愛しい彼女が、瘴気により魔物に変わり果てたのを見て、理解した。


 罰だ。

 救えるのに救わなかった罰だ。


 そして最後。変形した魔王に一撃食らわせるだけでよかった。それなのに、背中から剣で貫かれて自分は果てた。

「……恨むぞ……」

「構わない」

 憎しみで体が燃え盛るかと思った。善良な正義の眼は曇り、憎悪だけがそこに存在していた。人間が憎かった。殺したかった。死んでほしかった。消えて、ほしかった。


 でも、透弥は違った。

 誰も憎まず、穏やかにその心を保ち、時に怒ることはあったけど。だけどそれは実に優しい怒りだった。


 だから、透弥……幼い勇者に失敗をしてほしくなかった。だけど、彼はそれよりもずっと前に己を見限っていた。

 傍にいたから、分からないはずがないのだ。

 透弥は最初から理解していた。


 自分が勇者でないことを。

 それを知っていながら勇者だと持て囃した罰がやはり来た。彼は死んだ。殺された。あの憎い魔王に。どうすればいいかなんてもう分からない。


 透弥はそんなロベルトを眺めていた。

「……なあ」

 不意に声をかける。そうすると彼は驚いたように振り向いた。そして彼は。


*


 夢を、見る。

 瀕死のときに見るいつもの夢を見る。


「……可哀相に」

 龍の王は同情するようにそう言った。愛しく、切なく、悲しく、人の子を慈しむ。龍の王は知っていたのだろうか。

 彼は人だ。

 彼も人だ。

 勇者とは生まれたときに定められた宿命ではなく、それを凪ぎ払うためにただ突き進んだ者のことだ。だからロベルトは勇者なんだ。

「……人を救おうとして裏切られたものよ。私の愛する唯一の人間よ。信じたものに裏切られ、お前が世界を憎むのなら……私も、世界を憎もう」

 彼はそう言って傍らに突き刺さっていた剣を抜いた。輝きは曇れど、その熱に違いはなく。あれは間違いなくフレアだ。


「止めておきなさい、龍の王。貴方のそれは関係のない人を巻き込むただの災禍です」

 シルフィーリアの制止に彼は高笑いをした。

 ……そうだ。そうだった。彼は龍の王。誰からの制御も受け付けなく、故に孤高であるもの。栄光と権威を持って孤立するもの。

「だがでなければどうする。この臓腑を焼き切ろうとする憎しみを、どうすればいい」

「忘れなさい。人とはいずれ死ぬもの。彼もその理のうちにいただけのこと」

「それで納得できても魂が許せんわ!」

「……ならば好きにしなさい。止めることはできないのです、私には」

 シルフィーリアはだって、と続ける。

「私とて憎い。我らが愛し子を殺したのは人です。浅はかな知恵で魔王の生存を許可し、私の子を裏切った……それは、万死に値します」

 シルフィーリアは龍の王よりも強い。彼女は龍が恐ろしいと言ったが、それは彼女がハーフエルフだからこそくる所感だ。

 もし彼女がただのエルフであればあの程度の龍はがらくたも同然だ。それでも彼女は咎めない。

 他を慈しむことの尊さを知ってるが故に。

「さあ、思うがままに生きなさい」


 なるほど。そう言うことか。

 ようやく、見つけることができた。


 憎悪にまみれた勇者。背中から刺し殺され、その命を失った、新星の如き希望。人を愛して、憎みきれず変わり果ててしまったもの。


 彼は何かに思い悩んでいるように白い空間を右往左往と歩いている。彼の優しくも思いやりに満ちた思念がそのまま伝わってくる。

 真っ白な世界で透弥は足を踏み出す。彼はその足音で振り向いた。黒い短い髪、黄金の瞳。勇者らしく威風堂々としたその姿。

「よう」

 呼んだ声に彼は嬉しそうに笑った。以前はその意味が分からなかったが、今ならば分かる。


 夢の終わりが近付いてきている。

 この長い夢。白国村で剣を抜いたときから始まっていた夢。その終わりが、近付いてきている。

「久しぶりだな、ロベルト」

「お前こそ。元気で安心したぜ。透弥」

「……勇者様を安心させられるほどじゃねぇよ」

 今だって死にそうなのだ。血がおびただしい量流れて、肉が崩れているだろう。もう人として生きられる限界をゆうに突破してるに違いない。

「まあ、だからこれはあれだ。勇者様のお時間を頂戴してちょいとな」

「あ?」

「……答え合わせをしてほしいんだ、ロベルト。偉大な勇者よ」

 真面目腐った問い掛けにロベルトは首をかしげる。正しいかは分からない。けれども確信があった。握りしめた拳。

 小夜に謝罪を告げる。最早、帰れそうにはない。


「お前、黒炎丸だろ?」




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