第31話 神からの赦し
どこまでも、心が落ちていく。
深海の底に向かって、落ちていく。
いっそのこと、このまま眠り続けていたい。
辛いことも、苦しいこととも、さよならをしよう。
「……や、透弥、しっかりして、透弥ッ」
呼ばれて目を開けば、時雨が泣きそうな顔で見下ろしていた。
「………………時雨?」
「よかったぁ! 目が覚めたんだね? 大丈夫? 首が痛かったり、前足が折れてたり、後ろ足にふじつぼが付いてたりとか……あと濡れてて不快とか、ない? ない?」
「……一つ言うと、俺は狼じゃない。どっちかっていうと最近は爬虫類だ」
「なるほどー」
懐かしい気がする。
どうやらここは常磐の森のようだ。以前付けた噛み跡を使ったと言うことだろう。
「助けてくれたこと悪いけど、俺、行かなきゃ」
「透弥。行かなくていいよ」
「……え?」
時雨の腕が優しく抱き締めてくれる。
「行かなくていい。誰も、もうキミに強要しないはずだ。辛くて苦しくて、戦えないなら、戦わなくていい。なんでキミが一人で傷付かなくちゃいけないの?」
全てを赦す雨の音が聞こえる。
この森はいつも雨が降っている。しとしとと濡れている。それは悲しいからだ。時雨が、この世界を悲しんでいるから。
「行かないでよ、透弥。ここにいて? ボクが、例え外が滅んでもキミだけを守るから」
乾いた心を濡らすのは天の恵みだ。
雨の音が心地よくて、気が付けば透弥は剣を手放していた。
「お願い。これ以上、ボクの大切な人が傷付かないでほしいから……お願いだ、透弥」
駄目なことだと分かっていても、もう戦う気力なんてどこにも残ってなかった。
***
一体どれくらいが経ったのだろうか、よく分からない。透弥は常磐の森の一画を耕していた。
「やめ、やめろよ、くすぐったいって」
眷属達と土まみれになりながら転がる。
満たされた日々だった。
時雨は優しかったし、久々に農業に精を注いだ。この森は雨が降るから作物の成長がとても早い。土も豊かで……美味しい野菜ができると時雨は嬉しそうに笑ってくれた。
あの日負った傷は日々少しずつ癒されていった。
だけど、癒されれば癒されるほど。
時を経れば経るほど。
穏やかであれば穏やかであるほど。
透弥は見えないものに責められ続けた。
それはタンスの隙間、閉じた瞼の裏、森の彼方から聞こえてくる。
何故、ここにいるのか。
何故、戦ってきたのか。
何故、自分はいるのか。
何故、抗ってきたのか。
何故、仇を討たないのか。
だけど、剣を見るたびにそれを躊躇っていた。
仲間も両親ももういない。それなのに、自分が戦う理由なんてあるだろうか。
……滑稽だ。
勇者らしくあることもできず、そして今は勇者としてある理由も奪われた。
宙ぶらりんの、も抜けの殻。
なにもできない、なにもしない、なにもなせない。
「……悪い。水、組んでくるわ」
脱け殻だと言うことを誤魔化すように立ち上がると歩き出した。逃げ出してしまいたいのに、腰に黒炎丸を差しているのは何故なのか、よく分からなかった。
「うっ……ぁ……」
「時雨? どうかした……」
そこにいた時雨は黒い霞のようなものに縛られていた。久しぶりに黒炎丸がその声を発する。
《トーヤ! お前がオレを抜きたくない気持ちはよく分かる! けどさっさと抜け!! あれは、瘴気だ!》
「分かってる!」
手は迷わなかった。久しぶりにその柄を取り、霞を切り裂く。久しぶりだと言うのにぴっちりと噛み合った感覚に理解する。
「…………時雨」
「ご、ごめん。ちょっと余計なの招き入れちゃったみたいで……」
「違うだろ」
透弥は座った。
そして、時雨をぎこちなく抱き締める。
「ごめんな」
「……違うんだ、謝らないでよ。本当はボクだって分かってた。分かってたのに、キミを行かせるのが怖かったから。ボクは本当はズルいんだ。キミの旅をずっと見てきた。キミをこの森に繋ぎ止めたいって思いながら、キミを一番にできないで旅を見守ってきた。いつだって手を出せたのにっ」
そうだ。
時雨は神様だから、いつだって助けられた。
それなのに、それをしないでずっと見ていた。
「今だって、キミは覚悟を決めたのにボクはキミをどうやって引き留めるかばっかり考えてるんだ。笑っちゃうだろ」
「……時雨。お前はさ、俺を友達だって優先してくれてるだろ?」
これから伝える内容と同じように、穏やかな気持ちだった。澄み渡ったその気持ちはこの森と同じだった。
「俺にとって、どんなに仲間ができても、一番最初のお前は友達だよ」
「…………とう、や」
「戦う理由は、ここにあったんだな」
何故戦うのか。
問い続けたその答えを知る。
「俺は、大切な誰かを守るために戦うよ」
時雨は頬を濡らす。透弥にとっての大切な誰かはもう決まっている。
流里での傷を癒してくれた時雨がいたから透弥は人助けを憎まなくてよかった。
津の国で手を引いてくれた莉花がいたから透弥は戦うことを諦めないで生きてきた。
震えを受け止めて受け入れたアーノルドがいたから、臆病であることを隠さなくなった。
共にいることの大切さをセオドラが説いたから、透弥は誰かと共にいることを許せた。
自らを打ち明けてくれたブレイブがいたから、透弥もまた、自らを打ち明けることができた。
――待っている白国村の皆がいるから、旅をできているのだ。
そんな彼らが大切だ。だから彼らが笑えるように。泣かなくて済むように。苦しまなくて済むように。
「だからさ、時雨の手で俺に聞いてほしい。シルフィーリアがやったのと、同じように」
時雨は頷くと涙を拭った。その大役を請け負った彼はまっすぐに見つめた。
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