第20話 震えても立ち上がるということ

 囀ずるチーチの声にアーノルドは思わず座り込んでしまった。


 アーノルドは平民だ。

 アーノルドがこの地位に登り詰めるためにした努力は計り知れない。魔法も、勉学も修めた。常に成績は一位だった。

 彼は政敵だとか王さまだとかは怖くなかった。

 怖いものなんてなにもなかった。

 自分はただ、正しくあれたから。


 そのアーノルドが今、怯えていた。

 目の前にいる訳のわからない敵――常識の通じない、チーチと言う魔物。湖を凍らせて、仲間を丸飲みし、圧倒的力で莉花と透弥を捩じ伏せた。

 そうでなくとも直感的に理解できる。

 能力が、違いすぎる。

 チーチは強い。少なくとも人間が太刀打ちできるものではない。誰だってわかるはずだ。あれは、人知の及ばぬ怪物。勝てるはずがない。


 それなのに、透弥は剣を抜いてチーチを睨み付けた。それに尊敬の念が浮かんだ。のに。

 透弥の手が、震えていた。

 どうしようもなく震えていた。

(…………この人は)

 怖くてどうしようもないのに、剣を向けている。

 震えながらも剣を向けて立っている。それを人は蛮勇と嘲笑うかもしれないけど。

「……〝ワタシの声に共鳴こおうせよ。移ろい、揺らぎ、変化するは水底の虚像が如く。雪花の花弁は優しく香る〟」


 透弥が振りかぶる。黒い炎が素早く迸った。

「何度やろうと同じザマス!」

 現れた氷の壁が透弥を弾いた。それよりもずっと速く、適応した莉花が深紅の炎で氷の壁を打ち砕く。透弥は息を口から吐き出した。白い吐息が空の中で渦巻く。

「学ばないガキドモが!!」

 現れた羽根を切り刻もうとした透弥の前に雪の結晶が構築された。それは振ろうとした羽根を凍らせる。

「〝砕けろ〟」

「助かった! アーノルド!!」

 足場を素早くアーノルドが構築をすれば透弥はそれを蹴り飛ばして更に跳躍する。

「コッノォオオオオオ!! クソガキィイイイイイ!!」

 それは寄生だった。二つの嘴から放たれた恐怖の声そのもの。瞬間、悪寒が走った。魔力の不気味な渦に、恐怖を覚える。

「アーノルド!」

「姫様!」


 氷り、凍え、冷えていく。

 それこそが氷結地獄。

 この世を嘆く者の地獄。


「《この世を嘆く死者の氷原コキュートス》」

「ッ!?」

 白いダイヤモンドダストが舞い上がる。その中を駆けていくのは紅い炎の龍だ。勇気とは、希望とはなんなのか。その意味を、教えてくれたのは彼だ。


 死なせない。

 自分達が死ねども、彼だけは。


 白い風が吹き荒れる。吹雪よりも恐ろしい死の風が、次第に辺りを白く掻き消した。



 透弥は身体を起こした。雪が降り積もっている周囲を見渡す。それまで透弥を守るように丸まっていた炎の龍が消える。

「…………莉花?」

 霜に覆われた莉花が辛そうに眠っている。透弥は震える手を伸ばした。

「透弥さん!」

「…………アーノルド」

「リファ姫様はどうにかします! お願いです! どうか――ヤツを、殺してください!」

 霜に凍った体を抱き締めて、アーノルドは透弥に訴えかけた。そのアーノルドの向こうに蜃気楼のようなものが見える。


 ――殺せ。

 誰がこんなことをしたと思ってるんだ。

 ――殺せ。


「……」

 抑えきれない、焼き付くような怒りが胸を焼く。到底許せるものではない。そうだ。あの鳥は、透弥の仲間を傷付けた。

「……あ……あ、ぁあ、あ、ぁああぁあぁあああぁあぁぁぁあああ!!」

 雪が舞う。刹那、透弥はチーチの右の顔の前にいた。その眼が赤く光り輝く。

「お前は、いらない」

 龍化した手がチーチの頭を地面へと押し潰す。その額には二本の角が生えていた。黒い炎が口から溢れる。

 許せない。許せるはずがない。

「キサマ、何をしやがるんだァアア!」

「黙れ」

 水晶の爪を伸ばす。虹色の光を溢しながら透弥は右のチーチの頚を掻いた。血が吹き出る。

「ひっ、ビイイイイ!!」

「トート!」

「……そっちはトートと言うのか」

 まあ今さら名前を知ったところで、どうだって良いと思った。空中に水晶の槍が煌めく。チーチとトートは絶望的な思いでそれを見上げた。


 君臨したそれは、冷酷に槍を構える。

「……断罪の時間だ。精々足掻いてみろよ」

「ッ――!! 《コキュートス》っ……!!」

「……解放リリース:水晶聖罰ドラコニックアンカー

 氷の壁を突き破りながらクリスタルの槍がチーチの身体を地面に縫い付ける。トートはそれを凪払うが、完全に横から出てきた透弥を見失っていた。

「憎炎演舞」

「なっ……に、をぉおお!!」

 黒い炎がトートの杖を破壊した。そして右手で嘴を掴み上へと上げる。

「……囀ずる口は片方で良いはずだよな?」

「…………」

 龍だ。

 一匹の龍が、今目の前にいる。それもただの龍ではない。クリスタル・ドラゴン。この世で最も美しく残忍な、あれが。


 目の前で暗い瞳に怒りを灯していた。

「……違う」

 チーチの口から出た言葉はそれだった。

「お、おれは、悪くない。トートがみんな、悪いんだ。悪くない。許してくれ。お腹がすいてただけなんだ……ものをたべること、命をたべること、それのなにが悪いって言うんだよ……」

 チーチの言葉を聞く透弥はあまりにも静かだった。その瞳はあまりにも冷静で。対峙するチーチの恐怖は膨れ上がっていく。

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