第8話 いざ行かん、外つ国へ

 外つ国。

 つまりは、海の外だ。安全に渡れると言う保証もなく、行けたとしても帰ってこれると言う保証も無い。

(……だけど)


 帰ると誓った。

 呪いが解けたらあの村に帰ると誓った。だとしたら、帰らなければ。帰れるように、しなければ。

 小夜や、村長の待つあの細やかで穏やかな村に。

「……俺、行きます」

「え?」

 顔を上げた。時雨の顔をしっかりと見つめて、透弥は口を開く。

「行きます。外つ国に……水晶飛龍のいる里に」

「……透弥。行きたくないのなら、行かなくても良いんだよ。ボクがキミを」

「いいえ。俺、行きます。行って、この呪いを解いてそしてかならず戻ってきます」

 時雨は少し困ったように笑った。それから立ち上がると傍に控えていた眷属に何かを伝えた。

「うん。分かった。キミの旅路に祝福を」

「ありがとう、時雨。色々教えてくれて」

 時雨は透弥に近付くと失礼、と言いながらそのうなじの布をはだけた。そして――ガブリ、とかぶり付いてきた。

「いっ!?」

「ごめんね、突然。でも、これでボクからの祝福ができた。これでいつでも、キミを助けられる」

「……時雨」


 黒炎丸を手に取る。時雨の手から渡された黒炎丸はとても重く、ずっしりとしていた。だけどやけに手に馴染んでいて。

「若様、覚悟を決められましたか」

《オレサマ捨てられるかと思ってたぜ》

「ごめんな、黒炎丸。ハゲ丸。だけど、俺は決めた。外つ国に行く。それで、この呪いを解くよ」

「若様。良き決断です」

 ハゲ丸はコクコクと頷いた。黒炎丸は黙っている。やがて脳内で声が響いた。


《……すっげぇ辛いことになるぞ》

 分かっている。

《とっても過酷な運命が、お前を苦しめるかもしれない》

 それも、分かってる。

《残酷な現実を目の当たりにするかも。それでもオマエは……海を渡るのか?》

 それでも、渡る。

 渡らなきゃ行けない理由がある。渡って、自分はこの呪いを解いてあの村で静かに暮らしていきたい。

 黒炎丸は心の声を聞いたのか納得したかのような雰囲気をこぼす。

《そうか。なら、オレサマは止めないぜ。世界のどこまでも、オレサマとオマエなら向かえるだろうからな!》

「……ありがとう、黒炎丸」


 黒炎丸を肩にかけて、ハゲ丸は肩に乗った。

「……こんなものしか渡せないけど」

「これは……木の実?」

「うん。常磐の森になってるのを、干したんだ。日持ちもするし、甘いから」

 もらった干し果物を袋に詰めて鞄に押し込んだ。時雨の後ろを透弥は歩いていく。常磐の森は澄んだ空気と水で満ちている。それは透弥の旅に対する不安を洗い流してくれているようだった。

 河に止められているのは小舟だった。

「海を渡れるように頼んであるから、安心して乗ってほしい。ボクは一緒には行けないけど……でも、キミにかけた祝福があるから」

「ありがとう。何から何まで」

「……ボク、神様じゃなかったらきっとキミと一緒に旅をしたよ」

 時雨は残念そうに言った。

 彼は神になったばかりで、この森から離れることはできない。透弥はその事は知らない。時雨も、言うつもりなんて無かった。

「でも、神じゃなかったら俺はお前に会えなかった」


 時雨は顔を上げた。

 透弥は穏やかに笑っていた。ここから先に、何があるのか分からないのに。

 そっか、と時雨は理解する。

 彼は、覚悟をしたのだ。

「……うん。キミのこと、ボクはずっと待ってるよ。キミはボクの友達だ」

「俺にとっても、時雨は友達だから」

「ありがとう」


 さっきはずっと思っていた。

 透弥は過酷な運命に立ち向かわなければならない理由はないし、ここにいれば辛いことや苦しいことから透弥を守れる。この森はそもそも神聖な場所だから。

 でも、それは違った。

 彼は、覚悟をしたのだ。

 ここに帰ってくること。必ず行くこと。その事がすとんと落ちてきて、時雨は帰ってこないかもしれないと言う不安を押し流せた。


 時雨は透弥が大切で信頼している。僅か数時間前にであった相手でも。そして、透弥もそれは同じだと言ってくれたから。

 きっと、透弥は帰ってくる。


「大陸についたら、まずは火楼を目指すと良い。火山が有名な町だから」

「分かった」

 船の縄が外された。ゆっくりと小舟は遠ざかっていく。時雨はそれを見ると走り出した。


 大丈夫。不安はない。

 不安なのは、きっと、彼の方だから。

 だから、時雨にできるのはただひとつだ。


 裸足が岩肌を跳ねる。両手を使って素早く上っていく。後ろに続く眷属達と同等、或いはそれ以上の速度で時雨は山を駆けていた。

 その身体は次第に狼の物へと変わっていく。山頂についたとき、時雨は息を吸った。


 一際大きな遠吠えが、響いた。

 透弥は眼を上げる。

 胸のなかに渦巻く不安を消し去るように、堂々と霊峰の王がそこに立っていた。白銀の毛並みは今、日の光を受けて宝石のように輝く。その遠吠えはまるで背中を押すように。

 岩肌の上で遠吠えをする狼は、神々しく、そしてどこまでも美しかった。

 彼はそれだけすると背を返した。別れの言葉は必要ない、そう言うように静かに姿を消す。まるで秋の初めに降る恵みの雨のように、彼は透弥の心に暖かな決意をもたらした。

「……ありがとう、時雨」


 向かおう、新天地へ。

 そこが光差す場所でなくとも。


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