第7話 狼神と常磐の森

 冷たい液体が額に落ちた。

 透弥はゆっくりとその身体を起こす。

「……どこだ、ここ」

 湖の回りには木が生えている。その葉から落ちた水滴が常に湖面に波紋を描いていた。見渡す限りの緑。透弥は自分が寝ていた岩から離れて水中へと足を踏み入れる。

 薄い銀の見たこともない魚が透弥の足の周りをくるくると回ってから泳いでいった。

「…………なんだ、これは」

 苔の生えた岩だから、湖底は踏んでも痛くない。水位は腰ほどまであり、むしろ泳いでいると言った方が適切かもしれない。

 どうにか湖の端まで歩き陸へと上がった。ふらふらと透弥は歩き続ける。

「…………黒炎丸……ハゲ丸……どこに」

「あは、キミ達の連れがようやく目を覚ましたらしい」

 まるで木霊のような声だった。

 その瞬間、木々がその伸ばしていた腕を揺らし道を作り出す。現れたのは、白狼だった。


 月明かりのような白い毛並みが風にサワサワと揺れる。青と黄色のオッドアイの眼。そして、六つの瞳。その狼はまるで透弥を値踏みするように見下ろしている。

「…………」

 大きく、滑らかで、柔らかそうな。それでいてとても威厳に溢れる美しい姿に目を奪われていた透弥はハッ、と気がついて声を出した。

「あ……は、初めまして」

「あは。偉いね、挨拶できて。初めまして。ボクは真神。この常磐ときわの森って呼ばれる異界を維持してる神様だよ」

 神様。

 そう言われれば、そうかもしれない。水面にまた、波紋が広がった。

「真神さま……あなたが?」

「そそ。キミの村で崇めてくれてた神様だよう」

 膝を着こうとした透弥の動きを慈雨と名乗った狼は鼻先で止めた。

「いいのいいの。既にキミは招かれた者だよ、トウヤ」

「招かれた?」

「そう」

 翡翠のような光が森の中を乱反射している。


 それは眩しいものではなく、むしろ優しく人々を包むようなものだった。

「この神域はボクのモノ。足を踏み入れるかどうかはボクが定める。迷い込む人間だって、ボクからしてみれば招いたようなものだ」

 その声も、森と同じように全てを受け止めて優しく語りかけていた。


 それから慈雨は透弥へと目を向けた。六つの瞳が透弥を咎めるように見る。

「…………でも、ボクは死にかけたキミを助けてしまった。神様は人間の生死に関わってはいけない。だから、ボクはキミから対価を取らなきゃいけないんだ。ごめんね、助けてほしかったわけじゃ、きっと無いよね」

「見てらっしゃったのですか」

「……うん。ボク、優しい人が大好きなんだ。誰かのために心を砕ける人が大好きなんだ。それなのに、その大好きな人が傷つけられている様は、見てられなかった。キミは正しくて、優しいのに」

 項垂れる狼の鼻の上の辺りをそうっと撫でた。彼は嬉しそうに擦り付けてくる。大きな狼のその表情に透弥はそっと笑った。

「…………時雨」

「え?」

「あ、ごめん。恵みの雨って意味なんだ、時雨って。だから、つい。今の貴方はきっとそんな風なんだなっておもって」

「……………………時雨」


 その瞬間、一陣の風が吹いた。巨大な狼だったその姿が変わっていく。手足がすらりと伸びて、白銀の髪を靡かせた、青年へ。

 瞳が、開かれる。森そのものを思わせる翡翠のような瞳がぱちぱちと見たことのない世界を前に瞬く。

「…………すごいよ、透弥。キミは、快挙を成し遂げた」

「か、快挙? その姿は一体……?」

「神っていうのは生まれたときに名を刻まれるんだ。ただし、その名は人には……自分にも分からない。それを当ててくれる『誰か』を作ること。それが神にとっての成人の儀なんだ。本当なら十月程一緒にいなければならないけど、キミは違う。たった今あったばかりのボクの名を当てることができた。ボクは、誇りに思うよ」

 時雨のその眼に当てられて、透弥は照れ臭くなってしまった。

「これからキミはボクと対等な友人だ。どれだけの時が経とうと、その魂が流転する限り、ボクはキミを親友だと認める」

「そんな、大袈裟です。それに、俺と貴方じゃあ」

「敬語じゃなくて良いよ。時雨って呼んで。自然にして良い……ああ、お前達は船と食料の準備を。クリスタルドラゴンの呪いを解くために大陸を目指してるんだよね」

「え?」

「…………え?」

 時雨は思わず聞き返した。透弥もただ呆然としていたがはっと現実に立ち返り身を乗り出した。

「この呪いについて知ってるのか!?」

「勿論。森に住まう者、海に浮かぶ者、空を滑る者……この星にまつわる者なら誰でも知ってるさ」

 思わず外れた敬語を咎めるわけではなく、時雨はそう言って微笑んだ。その笑みに透弥は安堵を覚える。


「一体、なんなんだ?」

「それはクリスタルドラゴンの呪いだ。ええと、水晶飛龍の呪いってことだね」

「…………水晶飛龍」

 初めて聞く言葉に透弥は思わず後ろへ倒れかけた。時雨の眷属が持ってきた丸太にそのまま座らされる。時雨も、そばにあった岩に腰をかけた。

「うん。外つ国には沢山の龍の住まう里があってね。その中でも水晶飛龍は鱗の全てが水晶でできてるんだ。昔、漢の国がそれにまつわる書物を流してきたことがあったけど……古すぎて損失したかな」

 そのなかに解呪の方法も書いてあったけど、と言う言葉に透弥は落胆した。

「……でも、諦めるにはまだ早い。大陸の方、つまり外つ国に行けば水晶飛龍のことについてなにか分かるかもしれない」

「外つ国……」



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