第11話 そして、君が消えた日Ⅱ



 § 1 §



 私たちが屋敷を出てすぐ、曇天からぽつり、ぽつり、とみぞれが降り出した。顔を隠すためにと被ったフードで霙を防ぎ、冷風の中、ロキと2人で平原を歩く。

 私の屋敷は、アースガルドの市街地“シグトゥナ”の北方の果ての広々とした平原にあり、街まで歩くにも相当な距離がある。辺りを見渡しても、まだ何も見えない。

 私はただ、早足のロキに手を引かれ、ひたすら歩いている。その最中、背中を向けたまま、ロキが私に今後のことを語り始める。


「バルドル。アースガルドを出たら、まずはミッドガルドで必要なものを用意して、ずっと南へ行こう。お前のことも、俺のことも、誰一人知らない場所に。世界の命運なんて、背負わなくていいところに。一緒に逃げよう、バルドル」


 不安を抱いているのが伝わったのか、ロキが安心させるように笑って振り返った、その時。


 早足のロキの左足を、どこからか飛んできた煌々とした光が刺し貫いた。突然与えられた痛みにロキの足が縺れ、ぬかるんだ地面に転がり伏した。私も慌ててロキに駆け寄った。


「ロキ!?」

「くそっ、一体どこから…っ」


 出血の止まらない左足の傷を押さえながらロキが辺りを見回すと、彼らのいる場所から遥か遠くの林の中、一番背の高い樹木の枝の上に、こちらを真っ直ぐに狙う矢尻の光があった。

 その弓を引く姿に、私は嫌というほど見覚えがあった。そして、その人物の名前を呟く。


「“ホヅル”か。こうなることがわかっていて、父上が先手を打っていたようだな」

「くそっ。左足の回復が遅い!」


 遠くのホヅルが地面に下り、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。早く逃げなくてはいけないが、ホヅルに貫かれた傷が瞬時に回復しないことに、ロキが焦る。

 その傷を見れば、確かに血が止まらず、エプレ細胞が移植されているにも関わらず、回復が遅い。私はその理由を冷静にロキに告げた。


「エプレ細胞は、確かに身体の異常をすぐに再生するけど、“術式による攻撃”や、“術式の付与された武器”による傷は、致命傷でなくとも、治りが遅い。私たち“王族”の唯一の弱点だ」


 私がロキの傷を破ったローブの切れ端で巻いていると、いつの間にか、足音はすぐ目の前まで近づいていた。確実に相手の急所が狙える距離に、ホヅルはこちらを見下すような目をして立っていた。


「やはり裏切るか、ロキ」

「っ当たり前だ! 友を殺してまで、俺はこの世界を守りたいとは思わない!」


 未だ痛む左足を酷使し、ロキはホヅルから庇うようにしてバルドルの前に立ち上がる。その必死なロキの姿を滑稽、と嘲笑ったホヅルは、新しい矢を出現させて構えた。

 矢が放たれた瞬間、ロキは右手を前に翳し、自身の固有術式を展開した。


「≪我が敵を穿て、異端者ノ矢ミスティルテイン!≫」

「≪壊せ!堕ちろ! 天地ノ雷火ヴァナルガンド!≫」


 ホヅルの放った光の矢に、ロキの右手から発生した稲妻が絡みついて消滅させた。辛うじて攻撃を受け止めたが、傷を負っているロキには、受け止めるので精一杯であり、反撃することはできなかった。

 その状態に気づいているホヅルは余裕の笑みを浮かべ、間髪入れずに次の矢を準備し、その矛先をロキの背後、“私”に狙いを定める。


「別れの時だ。父上の為に死ね、バルドル」


 ロキの倒れそうな身体を支えながら、真っ直ぐに異母弟おとうとの姿を見据えて、私はその時気づいた。ホヅルの瞳の中に、私に対する“明確な殺意”があることに。

 それに気づいた私は、少しでも時間を稼ぐために、ホヅルをわざと挑発するようなことを口走る。


「そうか。お前、私から“ナンナ”を奪いたいのか」

「なっ!?」


 絶句したこの反応は図星だ。明らかに狼狽えて照準がブレたホヅルの姿に、思わず笑みが零れてしまい、更に彼を煽ってしまった。しかし、滑らかな舌の動きは止まらない。


「フォルセティの父になっても、お前は安心できないわけか。それでよく、“”などと宣えるな」

「ッ黙れ!!」


 神経を逆撫でされたホヅルの瞳が怒りに染め上げられ、引き止めていた矢が勢い任せに放たれる。


――そう、それでいい。もうこれ以上、ロキが傷つくことはない。


 一直線に向かってくる矢を甘んじてその身に受けるために、私はただ黙って待った。しかし、その矢を身に受けたのは、ロキの左わき腹であった。術式そのものである光の収束した矢が、進行方向に立ち塞がる肉を裂き、腹部を貫いて消えた。

 直後、ロキの苦痛な呻き声が響く。


「がァ!!」

「ロキ! 何故…」


 その光景にホヅルも驚き、冷静になるために一旦攻撃を止めた。

 バルドルは驚きのあまり、ロキの身体から手を離し、彼の身体の傷を凝視する。ロキの足元に左足の傷と脇腹の傷の血がポタポタ、と滴り落ち、既に出来上がった血だまりが徐々に広がっていくその光景。それを見ているだけで、目の前が真っ暗になる。地面と接した膝頭に触れるロキの血は生温かく、握った指先は血の気が引いて冷えている。

 その時に頭の中に浮かんだのは、ロキの死。


――死ぬ? 死ぬのか? どうして、“ロキ”が?


――私が死ぬのはいい。なのに、何故ロキが死にかけている?


――何故、私の友が、死にかけている…?


 これ以上血を失うことは、いくら死ににくい身体であっても危険だ。私は、必死にロキの自己犠牲を止めた。


「だめだ。もういい、もういいんだ。ロキ」

「…それは、。バルドル、おれと一緒に…」


 痛みで意識が朦朧としているロキが、左手を彷徨わせながら、私の手を探し出して握った。その際、左足から流れ出た血が手にべっとりと付いたが、不思議と不快感はなかった。寧ろ、より一層強く握り返した。今手を離してしまったら、彼の命も離れてしまいそうだったからである。手を握り返されたロキは、苦悶の表情を少し綻ばせて薄く微笑んだ。その笑みに、不思議と目頭が熱くなる。


 視界の端で、冷静な面持ちを取り戻したホヅルが、また弓を引いていることに気づき、ロキが手を握ったまま歯を食いしばって、私の前に立った。その背中が、私の盾になるように立ち塞がり、未だ消えない彼の優しさに、思わず瞳から涙が零れそうになってグッと堪えた。

 その痛々しく健気な姿に、ホヅルは見苦しさを感じ、忌々しく舌打ちをした。


「…そのまま、2人仲良く死ぬのを望むか」


 ホヅルの無情な光り輝く矢は、2人共々に狙いを定めた。

 そして、自分の怒りと共に、最後の言葉を投げた。


「この世界にお前は必要ない。消えろ、バルドル!」


 ホヅルの矢が放たれ、決して私の前から退かないロキの手を懸命に引いたが、びくともしない。このままでは、確実に矢はロキの身体を貫く。次攻撃をまともに受ければ、ただでは済まない。


――だから…


 私は、“決断”する。


「…


 私はロキの手を振りほどき、ロキの目の前に飛び出した。


 そして、そのまま、貫かれた…。



 § 2 §



 目の前で、見慣れた金糸の髪が空中に散っているのは、何かの間違いだろうか?


 


 ロキは目の前で起きている状況に、自分の目を疑った。

 ホヅルによって放たれた矢に刺し貫かれた身体から、彼の、バルドルの血が飛び散った。彼の生温かい鮮血が、ロキの頬に飛び散り、現実を突きつけるようにぬるり、と滴り落ちた。

 重傷で動くはずのないロキの身体は、痛みを無視して勝手に動き、力なく倒れそうになっているバルドルに手を伸ばした。地面に接する前に、何とかその身体を抱き留める。抱き留めたバルドルの右手が、胸部に刺さった矢を握っていたことに、ロキは密かに気づいていた。

 バルドルに攻撃が当たり、倒れたその光景を見つめ、ホヅルは心底嬉しそうに笑みを浮かべ、何かを言おうと口を開こうとした、その時。ホヅルの身体が、突然の“激痛”に苦しみ出した。


「がァァァ!?」


 理由なき激痛にその場に倒れ伏したホヅルは、そのまま痛みに耐えきれず気絶した。

 その姿を見て、ロキの腕の中で倒れるバルドルが、血反吐の伝う口端を吊り上げて薄く笑った。


「ふふっ、ざまぁみろ」

「バルドル!?」


 ロキは視線を辿ってバルドルの貫かれた傷から飛び出た光の矢を掴む右手、その手から術式が現れていることに気づいた。

 驚くロキに、バルドルがいつもの調子で説明をした。


「ホヅルに、“共鳴術式”をかけた。私の、受けたダメージと、同じ痛みを、アイツに与えた。 …まったく、この程度で気を失うとは、情けない」


 苦しそうに息絶え絶えに話す姿に、ロキは懸命に矢の消えた傷口を圧迫し、出血を抑制しようと試みるが、血が止まる気配はない。

 当のバルドルは、諦めた表情でロキを穏やかな瞳で見つめた。


「もういい。見ての通り致命傷だ。いくらエプレ細胞でも、回復しないことは、わかっている」

「まだだ! まだ、だめだ!! 逝かないでくれ、バルドル!」


 ロキが必死に呼びかけるが、バルドルは静かに微笑むだけ。死にかけているというのに、バルドルの表情は今までで一番穏やかで、そして一番諦観ていかんしていた。それは、生きることに対しての“諦め”であった。

 しかし、ロキがそれを許すはずもなかった。


「生きろ! 一緒にここから逃げよう!」

「にげて、どこにいく?」

「どこって、海に…、海を見るんだろ?!」


 あぁそういえば、と思い出したように、バルドルは呟く。既に興味を失っているかのように、気のない様子にロキは困惑した表情を浮かべつつも、止血する手をやめようとはしない。

 そんなロキを見て、バルドルは残った力で腕を上げ、血の気を失いつつある冷たい指先でロキの頬に触れる。いつの間にかロキの頬を伝っていた涙を、優しく掬った。

 慰めるように指先で頬を撫でながら、バルドルは震える声で呟いた。


「ロキ、すまない。やっぱり、この世界を愛することができなかった…」


 バルドルの切なげな声に、ロキの瞳から零れる涙はとめどなく流れ、バルドルの指先では受け止めきれないほど溢れ出てきた。それを見つめていたバルドルの瞳も揺らめき、美しい碧眼からポロポロ、と初めてロキの目の前で涙を流し始めた。

 血が流れるのを止められず、冷えていく身体で唇を震わせ、儚げな声で自身の想いを遺言のように吐露する。


「君がいれば、私の世界はかわる。そう、思っていた。でも、けっきょく、わたしが世界を愛することは、なかったよ…」

「…なら、どうして、こうまでして世界を守ろうとしてくれたんだ?」


 バルドルの言葉に、ロキは今ならば彼の本心が聞けるかもしれないと、疑問を問いかければ、バルドルはいつもの意地悪な笑みを浮かべて、血の濡れた方の手を差し伸べてロキの頬を彩るように撫でながら、曖昧に答えた。


「…さぁ、なんでだろうな。もし、その答えがわかったら、いつか、その答えをおしえてくれ」


 普段通りの軽口を叩きながらも、バルドルの手から徐々に力が抜けていき、頬から滑り落ちそうなその手を、ロキは素早く握って留めた。その手の体温の低さに、もうあまり時間がないことをロキは察した。


「やくそく…。約束は、どうする?」


 海が見える場所に行く。その約束を、ロキもバルドルも憶えている。しかし、バルドルの予想通り、2人はもうその約束を果たすことはできない。それを誰よりも知っているバルドルは、目を細めた。


「…死んだ先にも、海はある、て何かで読んだことがあるんだ。わたしは、先にいって、待ってるよ」

「…逝くな、と言っても、だめなんだろ?」


 ロキの必死の懇願にも、決して揺らぐことなく、彼は最期に言った。


「ふふ…。よろこべ。これで、世界は、すくわ、れる…」


 その言葉を最期に、バルドルの美しい碧眼が重たくなった瞼によって、永遠に閉じられた。

 いつの間にか、空から降る霙は冷たく流れる雨に変わっていた。ロキは自身の涙で頬が濡れ、それに今まで気づかなかった。

 流れる雨のせいで、バルドルの血が流れてしまう。これ以上、バルドルをことが許せなかったロキは、冷たくなったバルドルの身体を強く抱き締めた。


 頬を伝うのは、涙か雨粒か。もう区別すらできないほど、頬が濡れている。止まない大雨の中で、ロキはバルドルの最期の言葉を思い出した。


『よろこべ。これで、世界は救われる』


 その言葉に対して、ロキは自分の言葉を曇天に向かって呟いた。


「… 君のいない世界で、俺はどうやって生きればいい?」


“教えてくれよ、バルドル”





 しかし、誰も答えず…。



 § 3 §



 オーディンは1人、自身の住まう館の地下に密かに存在する“牢獄”に向かって、階段を下りていた。

 館の広い書庫のとある本棚の、とある一冊の背表紙は開くようになっており、その中の鍵穴に小さな鍵を差し込むと、本棚の仕掛けが作動して、横にスライドした棚の後ろから、地下へと続く階段が姿を現す。どこまで続くかわからない階段は、暗闇へと彼を誘う。

 ランタンを片手に、足元に気を配りつつ黙々と階段を下りていけば、地下から響くピチャピチャ、という液体の滴り落ちる音が、より鮮明になっていく。地上とは違い湿気の多い地下牢は階段を下りた先の、大きな岩をくり抜いて作られており、殆どの牢屋は空っぽで、中にいたとしてもそれは物言わぬ屍のみ。その地下牢の一番奥で、小さく鎖の擦れる音が鳴る。オーディンは、音のした方にランタンを向けて、最奥の牢の中を覗き込んだ。そして、そこにいる人物に、優しく声をかけた。


「ご機嫌いかがかな? ロキ」


 その鉄格子の向こうで、天井から吊り下げられた手錠で両手を封じられ、まともに食事も与えられず、腹部の傷の完治が不完全なまま、痩せ細った身体を拘束された、“ロキ”の姿があった。かなり衰弱したロキは、オーディンの声掛けにも返事をしない。

 オーディンの所有するこの地下牢には、とある仕掛けがある。

 この牢屋に繋がれた者は、その頭上から降り注ぐ“毒”によって苦しめられる。この毒は勿論自然の物ではなく、術式によって発生されており、これが枯渇して止まることはない。

 ロキがこの牢屋に入れられたのは、バルドルを失ってからすぐのことで、あの日から数か月の時が経っていた。その間に毒に影響で、ロキの金髪は蝕まれて黒く変色し、毒を直に受け続けた顔の左半分は、焼け爛れて見る影もなくなっていた。生気を失った美しい緑の瞳は、オーディンの声を聴いて虚ろに見つめた。


「…あなた、か」

「少しはしてくれたかな?」


 いつも通りの優しい声でオーディンが問えば、ロキは今更猫を被る彼の態度を鼻で笑った。


? 俺は、いや、“私”は、今回のことを後悔することは、今後一切ない。あの行動を、あの決断を否定することは、“バルドル”との絆を否定することだ」


 そう呟いたロキは、ここに繋がれ毒で苦しめられている間、ずっとバルドルのことを思い出していた。決して、死するその時まで、忘れることのないように、脳に、瞼に、瞳に、耳に、あらゆる器官に、バルドルという存在を刻み続けていた。

 だが、目の前のオーディンはそんなロキの心情を知るはずもなく、バルドルの名前を聞いてもまるで何事もなかったかのように、平然としている。そんな彼の態度に、ロキは無性に腹が立ち、彼に嫌味のような言葉を投げる。


「…民衆にはなんと説明した? 嫡子を自らの命令で殺したことを」

「説明など必要ない。何故なら、“バルドル”は


 ニッコリと笑って言ったオーディンの言葉に、ロキは自身の耳を疑った。


 “


 格子の向こうの彼は、確かにそう言った。しかし、ロキは確かに冷たくなったバルドルの遺体を抱き締めた。バルドルが生きているなどということは、決してありえない。

 ロキは久しく出した大声で叫んだ。


「馬鹿なことをっ。私は確かに、バルドルを看取った!」


 ロキが戸惑いで不自由な身体を動かし、鎖がジャラリ、と地下に響く。

 オーディンは決して変わらない声色で、ロキが拘束されていた間のことを説明し始める。


「私の弟たち、ウィリとヴェーイに依頼して、密かに“バルドルの複製コピー”の製作をしてもらっていたんだ。そして、本物のバルドルの肉体からエプレ細胞を採取し、ついに完成した」


 オーディンはバルドルの死を望んだばかりか、あろうことかバルドルの遺体を、彼らは踏み躙っていた。

 その事実に、ロキは目を真っ赤にして怒りを露わにするが、オーディンは嬉々として自身の立てた計画を語る。


「これで、世界終末の因子は手に入れた。あとは、

?」


 次にオーディンから放たれた言葉は、異常なまでに残酷なものであった。


「“世界を愛するバルドル”ができるまで、複製コピー


 目の前の、この憎き男は、まだこの世界で、バルドルを殺すつもりであった。

 全てを明かしたオーディンはふと時間を気にして、では、御機嫌よう、と言って地下牢から立ち去る。鉄格子越しに遠ざかっていく背中を睨みつけ、ロキは動けない身体で藻掻いた。

 身体の奥底から燃え滾るような怒りを抑えられず、ロキはその感情を全て乗せて、その背中に向かって叫んだ。


「オーディン――!!!」


 その叫びが、地上まで届くことはなく、地下の闇の中で虚しく木霊した。



 これが、30年前の事件の真相である。



 § 4 §



 30年前のバルドルの死は、オーディンとフレアによって隠蔽され、ロキはバルドルの暗殺未遂の犯罪者として、王族から疎まれる存在となった。

 そして、オーディンの望み通り、“バルドルの複製コピー”の再教育が行われることとなる。これで、順調に事は進む、とその時は思っていたであろう。


 しかし、オーディンが考えていたより、“世界終末の因子”は、思惑通りにはならなかった。


 ロキが牢屋から出される頃には、複製体の番号は既に四ケタとなり、動いていたのは3体目であった。オーディンだけでなくフレアもバルドルの更生に努めたが、決して彼らの望む子は完成しなかった。

 そんな3人目のバルドルに対面したロキは、彼の第一声を聞いて絶句した。


。どうぞ、今後ともよろしく」


 複製のバルドルに生まれつき与えられる生前オリジナルの記憶は、ロキに出会う前までのものであり、バルドルが再びロキに微笑みかけることはなかった。しかし、もはやそれを悲観するには、絶望を知りすぎてしまっていた。



 そして時は過ぎ、150年目の式典の日に、世界は変わった。


「どうやら、バルドル様の御顔と瓜二つの少年がいたようです」


 この日の式典で現れ、オーディンを動揺させた少年は、あの頃ロキと笑い合っていたバルドルの面影を覗かせていた。

 式典を騒がせた2人は、最後にはアースガルドの崖から飛び降り、生死不明となった。遺体でも見つかるまで探す、と言い出したフレアを宥め、捜索の中止を命じたのは、意外にもオーディンであったのを聞いた時は、少し驚いた。



 ロキの意識が過去から戻り、再び瞼を開くとそこは暗闇と静寂に包まれた自室であった。ふと視線を辿り、気が付いた時には目の前に置かれた椅子に、バルドルの“亡霊”が座っていた。その亡霊に、ロキは嬉しそうに声をかける。


「…バルドル、君のいない世界は、やっぱりつまらないものだった」


『そう?』


「そうだよ。だから、“俺”もそろそろ動くことにするさ」


 そう言って怪しげな笑みを浮かべたロキを見届け、“亡霊”は姿を消した。

 それと同時に、部屋に置かれた電話機が鳴り響き、立ち上がったロキはその受話器を取った。


「はい、ロキだ」

≪こんばんわ、あなた≫

「…もう夫婦ではないんだよ、グルト」


 連絡してきたのは、30年前の事件以来、オーディンの意向により離婚した妻・グルトであった。彼女は、離婚後身寄りがなかったため、ロキに譲ってもらった彼の元館『フヴェズルング』に、娘2人と暮らし続けている。

 夫婦でなくなった今でも、こうして定期的に連絡をしてくれていて、ロキの心の拠り所であった。


「2人共、元気にしているか?」

≪えぇ。姉の“エインミュリア”は最近槍術を習い始めて、勇ましい限りですわ。妹の“エイサ”は反対に、おしとやかな淑女に近付いてきまして、母親としては喜ばしいことです≫


 グルトから嬉しそうに語られる娘たちの近況を聞き、娘たちの姿を思い出しながら、自然とロキの表情も優しく綻んだ。

 やがて、他愛無い近況報告を終え、次はロキがグルトに情報を求める番である。


「グルト、例の犯人について、何か進展はあったか?」


 ロキの聞いた例の犯人とは、式典で騒ぎを起こした2人組のことである。グルトは、ロキに頼まれ、その2人のことの密かに調べていたのだ。


≪はい。少年の方はわかりませんでしたが、もう1人の方はシグトゥナの方での“有名人”だったようで、名前はすぐに割れました≫

「ほう。その人物の名前は?」

≪ “ニド” というそうですわ≫


 ロキはその情報にそうか、と相槌を打つ。


「そのまま続けてくれ。彼も、私と同じく“オーディンに反する者”かもしれない」

≪…やはり、“為すべきことを為す”のですね≫


 電話越しのグルトの心配そうな声に、ロキは迷いのない声で答えた。


「私は必ず、オーディンを“神の玉座”から引きずり下ろす。それこそが、私の為すべきことだ」


 この時ロキも、世界オーディンへの復讐を画策していた。



 150年目の世界は、各々がそれぞれの思惑により、大きく変動しようとしていたのだった。

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